テニスラケットは男根のメタファーか? ④
「あなたがここに来ることは分かっていたわ」
まるで占い師のようなことを言いながら我らが部長は妖しく笑う。
「…………」
突如放たれた言葉に言葉を失う朱獄院さん。
朱里の不敵な態度にどう対応していいのか分からないのだろう。朱獄院さんは朱里の両サイドにいる俺と馬渡を、まるで初めての海外に来て通訳を求めるかのように交互に見た。
無駄に勘のいい馬渡は朱獄院さんの心中を察したのか、通訳っぽく言った。
「あなたは運命に導かれてここに来たのだとおっしゃってます」
心中を察したうえでふざけてんじゃねぇよ。
しょうがないので俺が話す。
「気にするな。要件を言ってくれ」
「は、はい……では、その……ええと……」
ここに来た理由が何にせよ、言葉にしてくれないと分からないのだが、朱獄院さんはどういうわけか顔を赤くして口をもごもごさせながら俺の方をちらちら見るばかりで、一向に話そうとしない。
どうしたんだろう、そんなに言いにくい事なのだろうか。もしかして俺がいると言いにくい事とか? 女子ならではの悩みとかそういうのだろうか。
うーん、この二人に任せるのはそこはかとなく心配だが、女子同士でしか話せないこともあるだろうし、部室の外に出るか……などと考えていると、腕を組み、ついでに足も組んで偉そうなことこの上ない姿勢で座っていた朱里が口を開いた。
「あなたの相談内容も分かっているわ」
朱獄院さんは驚きの表情で朱里を見る。俺も少なからず驚いた。
「ズバリ言うわよ」
……古い。
「ラケットを男根に見立ててしまってテニスに集中できないんでしょう?」
俺は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
馬鹿かこいつは。そんなはずないだろ。
「そ……その通りです」
俺は椅子から転げ落ちた。
なんでやねん。
「あの……」
とここで馬渡が会話に入ってくる。
「もしかして、この間私たちが見学に来た時のことが原因だったり……?」
流石の馬渡も、女子テニス部のエースであり部長である朱獄院さんが自分たちのせいで不調になったとあれば罪悪感を抱かずにはいられないのだろう。申し訳なさそうに朱獄院さんの表情をうかがう。
しかし、朱獄院さんは別に怒っているとか文句を言いに来たとかそういうことではないらしく、慌てて大きな胸の前で両手を振りながら、
「いえ、文芸部の皆さんが悪いというわけではなくてですね……これは私の精神の至らなさが招いた事態なんです。だから、その、お気になさらずに……私はただ、お力を貸していただければと思いここに来ただけですので……こんなこと、テニスと真剣に向き合っている部員たちには相談できないですから……」
困ったように笑いながら、俺たちのことまで気遣ってくれる朱獄院さんが、俺にはもう聖母に見えた。ほんと、いい人だなぁ……。
「そうね。これはあなたの精神が招いた結果……よかった、もしそこを理解していなくて、私たちのせいにしようものならたたき出していたところだったわ」
どうやら諸悪の根源は微塵も責任を感じていないようだ。しかもうちの女王様はそれだけに飽きたらず、優しく諭すように言う。
「でもね、あなたの精神が招いたと言っても、それは決してあなたの精神が至らなかったからではないわ。むしろこれはあなたの心があまりにも美しかったからこそ起きた悲劇。いいかしら、決して自分を卑下してはダメ。あなたは美しいのだから。そこを否定してはダメよ」
よくもいけしゃあしゃあとこんなことが言えるなこいつ。もはやここまでくるとすがすがしいほどだ。
「才神さん……ありがとうございます」
励まされていると勘違いした朱獄院さんが感激して瞳を潤ませる。
騙されないで朱獄院さん! 悪いのは全部こいつなんだ!
そんな、口に出せば間違いなく俺の頭蓋骨に五つの穴があくであろう叫びを心の中でぐっと抑える。
「でもね、残念なことに心が美しいだけではだめなの。心が美しければ美しいほど、ちょうど今のあなたみたいに傷つきやすく――もろくなってしまう。じゃあ美しさのほかに、心には何が必要か分かるかしら?」
「え、ええと……」
別に真面目に考えなくてもいいのに、朱獄院さんは頭を悩ませ、やがて一つの答えを提示した。
てか何のセミナーだよこれ。
「優しさ……でしょうか?」
聖母なのかな?
「違うわ。全然違う」
なにもそこまで否定しなくても。
「そ、それでは……一体、なんなのでしょうか?」
ここまでくればぜひ朱里の考える正しい心の在り方というのをお聞かせ願いたい。
三人からの視線を受け、朱里は間を作るように一度目をつぶると、やがてゆっくりとまぶたを開け、静かに言い放った。
「強さよ。美しいものは同時に強くなくてはいけないの。でなければ、たやすく穢されてしまう」
言葉の通り、強くたたずむ朱里の風格に、思わず俺は気圧されそうになる。
「私にあってあなたにないものがそれね。私はたとえラケットが男根に見えようが躊躇なく握ることができるし、後輩がバットで何をしていようが気にも留めないし、幼馴染みが変質者に襲われようが何も恐れることなく助けることができる。これは私が美しく、そして強いから」
後半、朱里が何を言っていたのか朱獄院さんには分からなかっただろう。だが、俺と馬渡には分かる。形はどうあれ、そして理由はどうあれ、朱里の強さに救われた俺達には朱里の言うことは理解できた。
「どうすれば……どうすれば、才神さんのように強くなれるのですか?」
悩める聖母は、まるで神に祈るように朱里を見て、願った。
だがここで朱里の態度は急変する。さきほどまでの女王のような態度から、まるで迷える子羊を悪の道に引きずり込む悪魔のように――妖しく笑ってこう言った。
「力が欲しい?」
いかん、危うく騙されるところだった。明らかに何か企んでいる。
俺が我に返る一方で、すっかり騙されてしまっている朱獄院さんは悪魔との契約を進めてしまった。
「はい。私も才神さんの強さに少しでも近づきたいです」
「私の言うことに従えるかしら?」
ほら、もうこの時点でアウトだろ。駄目だよ朱獄院さん、こんな奴に騙されたら。
「はい、従います」
あ、だめだこの人。すごくいい人だけど人を疑うということを知らない。悪徳宗教とかにすぐ騙されるタイプの人だ。
すっかり騙されてしまった朱獄院さんを満足げに見つめ、朱里は鞄からラベルも何もない透明なケースに入った一枚のDVDを取り出した。そしてそれを静かに机の上に置くと、滑らせるようにして朱獄院さんの方へ差し出した。
「これは……?」
朱獄院さんはそのDVDを手に取ろうとしたが、俺は素早くそれを阻止する。
「え、ええと……ど、どうしたのですか、桜世さん?」
「桜世先輩? なんか顔色悪くないですか? それに、汗もすごいです……」
俺は馬渡の言う通り大量の冷や汗をかきつつ、DVDを自分のもとへ引き寄せる。そしてそのまま自分の鞄にしまおうとしたが、やはり朱里はそれを許してはくれなかった。
微笑みながら、俺の腕をものすごい力でつかんでくる。
「暖人? いったいどうしたのかしら、そんなに慌てて」
こいつ分かってるくせに……
「桜世先輩? そのDVDが何か知ってるんですか?」
「シラナイヨ。デモコレハキケンナキガスルンダ」
「なんで片言なんですか……」
「ええい! いいからその手を離せ朱里! お前が何を考えているのか知らんがこれはダメだろ!」
反旗を翻した俺に、それが気に食わないのか朱里は先ほどまでの微笑みを消し、俺の股の間に手を差し込み、椅子をダンッ! と叩いてそのままずいっと顔を近づけてきた。
俺は思わず体を引いたが、朱里はその距離をさらに詰めるように顔を近づけ、俺の目前で目を見開き、告げる。
「あら、何がダメなのかしら? 言ってみなさいよ」
「いや、ほら……その、朱獄院さんは女子だし」
それに聖母だし。
俺の言葉がさらに気に食わなかったのか、朱里は俺との距離をさらに縮める。
見開かれた朱里の目に、俺の情けない顔が写っていた。
「私だって女子なんだけど? なのにこのDVDを一緒に見てあげているんだけど?」
「いや、その……でも……」
「ええい、女々しいわね。もういっそここで押し倒してしまおうかしら」
「は、はあ!?」
ちょっと朱里さん、目がマジなんですけど!? てか近い! あとさっきからなんてとこに手おいてんだよ! 股の間に手を差し込むな!
お互いの吐息がかかるほどに近づいてくる朱里の美麗な顔に、俺は心臓が限界を迎えようとして思わず目をつぶってしまった。
……って、あれ? なにもおきない? てかむしろ、俺の椅子に乗っていた朱里の重みが消えたような。
俺はびくびくしながらまぶたを開くと、朱里はいつの間にか俺の手から奪っていたDVDを朱獄院さんに手渡していた。
……しまった。完全にやられた。どこからどう見ても手玉に取られている。
朱里に差し出されたDVDをおずおずと受け取りつつ、朱獄院さんが尋ねる。
「あの、これは……なんのDVDなのでしょうか?」
ああ、だめだ朱獄院さん。そのDVDを受け取っちゃいけないし、その内容も尋ねてはいけない。そのDVDは決して開けてはいけない――いわばパンドラの箱のようなものなのだ。
DVDの内容を確認せずにそれを手に取ってしまった朱獄院さんに、朱里はあたかもすでに契約は完了したというように、にやりと笑って告げた。
「それはね、ポルノ映画よ」
瞬間、ぼっ! と火がつくように朱獄院さんの顔が真っ赤に炎上した。
「そ、そそそそそそそんな!?」
まるで触ってはいけないものを手放そうとするように、そのDVDから手を離そうとする朱獄院さんだったが、しかしその手を両側から朱里の両手が包み込んだ。
「大丈夫よ。何も怖がることはないわ。これは性教育の一環……そして、あなたみたいに性的な悩みを抱える人間のための特効薬よ」
「い、いや……でも、そんな……」
両サイドからDVDを持つ手をギュッと握られ、そのせいでDVDを手放すことができず、顔を真っ赤にしたまま困惑する朱獄院さんだったが、朱里が言葉を重ねるごとに不思議とその表情は落ち着きを取り戻していった。
「内容は純愛から始まる男女の関係。もちろんそういうシーンもあるけど、きっとあなたが手さぐりに調べてきた性知識よりもずっと健全で、なにより正しい性のあり方を描いたものよ。これを見れば性的事柄への誤解や偏見が払しょくされ、なにより免疫ができるわ」
「は、はい……なるほ、ど……確かに、それは……」
朱獄院さんはごくりとつばを飲み込み、タイトルも何も書かれていないまっさらなDVDを見下ろす。
さらに念を押すように、朱里はぐっと顔を近づけ、
「大丈夫よ。効果は実証されているわ――」
俺が最も言ってほしくなかったことを言いやがった。
「――ここにいるヘタレこと、桜世暖人でね」
驚きの表情で朱獄院さんと馬渡が俺の方を見る。
ああもう、どうすりゃいいんだよ。女子の目の前でこいつはエロいDVDを見ていますと暴露されたってことだよなこれ。
「暖人もちょっとした理由で性的な悩みを抱えていたのだけど、私と一緒にこのDVDを何度も見ることによってある程度の改善が見られたわ」
「ちょっと待ってください!」
ここで、先ほどまで黙っていた馬渡がいきなり会話に割り込んできた。
「さっき朱里先輩、『私と』って言いませんでしたか!?」
「ええ、言ったわね」
くそう……もうこれ以上は止めてくれ。
「ということはつまり、桜世先輩と朱里先輩は何度も一緒にエロDVDを見てるってことですか!?」
そうだよな、驚くよな。ごめんな、事実なんだよ。
「そうなるわね」
「そ、その……一緒に見る必要はないんじゃ……?」
朱里に両手を包まれたまま顔を真っ赤にしている朱獄院さんをほったらかしにして会話は続く。
「でも暖人、私が監視していないとちゃんと画面の方見ないんだもの」
「桜世先輩、さすがにそれは……」
ドン引きのまなざしで俺を見る後輩。
「うるせぇ! 俺は嫌だっていうのに、こいつが無理やり見せてくるんだよ!」
「でも実際効果はあったじゃないの」
「うぐっ」
そう、効果はあった。びっくりするほどにあった。そこいらの精神科医のカウンセリングよりもずっと効果的だった。具体的には、ひどい時期は誰かと体が接するだけで強烈な拒否感を覚えていたのが、朱里と一緒に定期的にあのDVDを見るようになってからは、軽いボディータッチくらいなら平気になったのだ。いまだに自分から触りに行くのは無理だが。
とにかく、と話を本題に戻すため、朱里は朱獄院さんの方へ視線を戻す。
「私は暖人の性的悩みの解決のために、しょうがなく一緒にこのDVDを見てあげていたのだけど、そろそろ効果も薄くなってきたところなのよ。だから、あなたが性的事柄に免疫を付けるため、さらにはこのヘタレの改善のために新たな刺激を加える一環として――私の代わりに暖人と一緒にこのDVDを見てくれないかしら」
こいつ、朱獄院さんにこのDVDを見せるだけに飽き足らず、俺と一緒に見ろというのか。無茶だ。ありえない。幼馴染みの朱里ならぎりぎり耐えれたけど、こんなにも純真な朱獄院さんと一緒にあのDVDを見れるはずがないだろ。
それに流石の朱獄院さんも男と一緒にエロDVDを見るなんて耐えられないはず……
「……わかりました。頑張ってみます」
頑張らなくていいよ!
「いやいや、朱獄院さん! ちゃんとよく考えてくれ!」
「ちゃ、ちゃんと考えています……大会が近いですから急いで調子を戻さなきゃいけないですし……それに、私のためだけじゃなく、桜世さんのためになるのでしたら……これほど、いい方法もないと思いますし……だから、その、私は……ぜひこの方法を試したいです」
意外にも意志のこもった強い瞳でそう告げる朱獄院さん。この間から照れているとこばかり見ていたせいで忘れていたが、この人は全国レベルの女子高生テニスプレイヤーであって、一つの部活を束ねる部長なのだ。性的事柄に免疫がないだけで、心の芯は強い。
「そ、それでも……桜世さんが嫌というのなら、無理強いはできませんが……」
最後に彼女の優しさが顔を出したものの、朱獄院さんの気持ちは決まっているようだ。でもだからといって俺が平気かといえばそんなことはないわけで……
俺は必死に何か言い訳を探したが、そんな俺の心中を見透かしているのか、隣で朱里がつぶやいた。今まで何度も言ってきた言葉に、失望の意をそっと混ぜ込ませて。
「……ヘタレ」
ぐらっと脳を揺さぶられるような感覚。朱里の悲しみにも似た失望の意を感じ、俺の口は反射的に言葉を発していた。
「やるよ。朱獄院さんがいいなら、俺と一緒にそれを見よう」
馬渡が顔を両手で覆い、ひゃあ……と小さな声を出す。
うわあ……俺って今、学園のマドンナに「一緒にエロDVD見よう」って言ったんだよな。何やってんだよ俺は。
ともすればセクハラですらある誘いに、朱獄院さんは赤く染めた頬と強い意志のこもった瞳で、ただ一言、
「はい」
と頷いた。
すべての原因である朱里は、ただ無表情で椅子の上に座っているだけだった。