テニスラケットは男根のメタファーか? ③
本日は金曜日。授業も全て終わり、あとは部活とその後の二日間の休日を残すのみだ。それに加えて今週末はなんの奇跡かどの教科からも課題が出なかった。それゆえにこの上なく開放的な気分で部室に向かい、俺は扉を開ける。
ちなみに部室の鍵は部長である朱里が管理しているが、俺はあいつがここの鍵を閉めているのを見たことがない。いつも開けっ放しだ。別に盗まれて困るようなものもないし、誰に怒られるわけでもないので構わないのだが。
なにやら用があるらしく、遅れてくる朱里を待ちつつ、読みかけの本を開く。別段読書が好きというわけじゃないが、やはりこうしていると心が休まる。最近は何かと気苦労が絶えなかったからな。
そう思いつつ、活字を目で追っていると、
「先輩」
と声がした。それも、机の下から。
俺は椅子をわずかに後ろに引き、机の下を覗き込む。
「来てたのか……てかそんなとこで何やってんだ」
声の主は、気苦労の原因の一つである後輩、馬渡白だった。
「来てましたとも。そしてここで先輩が来るのを今か今かと待っていました」
机の下で正座をして俺の方を見上げる馬渡。正座ですっぽり収まるなんて、こいつ思ってたより小さいな。
「いや、だからなんでそんなとこにいるんだ。なに? 好きなの? いるよな、狭いとこに入るの好きなやつ」
「いえ、私は狭いところに入るよりどちらかというと狭いところにいれ――」
「野球部の方はいいのか?」
言わせねぇよ?
「あ、はい……今日はどうしてもこっちに来たくて」
てかそろそろ出て来いよ。俺もこの姿勢を保つのつらいんだが。俺は今無理やり体を傾けて机の下を覗き込んでいる。
「お前も大概自由な奴だよな」
きっと今頃野球部男子は馬渡が来なくて心底悲しんでいることだろう。
「はい、朱里先輩曰く『可愛い子は何をしても許されるのよ。だって可愛いんだもの』だそうなので」
「そんなこと言ってたのかあいつ……」
てかいつの間にか下の名前で呼んでるし。打ち解けるの早いな。
「はい……っと、それでですね、今日どうしてもここに来たかった理由なんですが……」
馬渡はそう言いながら机の下から這い出てきて、なぜか部室の鍵を内側からガチャリと閉める。そしてまた机の下にもぐった。
「いや、何がしたいんだよ」
全く意味が分からないが、なんとなく嫌な予感がした。
馬渡は俺の質問に答えることなく、さっきより俺の方に近づきつつ、机の下で軽く膝立ちして俺の方へとずいっと顔を突き出す。
「せっかく今日は朱里先輩が遅れてくるらしいので……」
馬渡のいつになく真剣な顔が逆に怖い。
「お、遅れてくるらしいので?」
そして俺の後輩は、瞳を爛々と輝かせながら言い放った。
「先輩のバットを見せてもらおうかと」
体が硬直する。
え? なに言ってんのこいつ。ああ、そうか、そういえば俺、小学校のころリトルリーグ入って野球してたっけ。それで俺のバットが見たいんだな。なるほど、理由は分からんが、まあそれくらいなら別にいいか。どれ、今度持ってきてやろう。
「あ、ああ……それなら今度の部活の時に持ってきてやるよ。たぶんタンスの奥で埃かぶってるはず――」
「いえ、そっちのバットではなく」
おいおい、『そっち』ってどっちだい?
俺はなんとなく身の危険を感じて椅子から立ち上がろうとする。
しかし、それを邪魔するかのように、俺のズボンのベルトが馬渡の片手でがっしりと掴まれた。
「お、おい……どうしたんだよ」
「はぁ……はぁ……やだなぁ、もう、先輩ったら、分かってるくせに」
馬渡さん? 息が荒いですよ、どうしたんですか!? てか力強いなこいつ! 全然腰が持ち上がらない!?
ギラギラした瞳で頬を紅潮させながら、馬渡が机の下から俺のズボンのチャックにもう片方の手を伸ばしてくる。
「ちょ、ダメだって! やめろ!」
「大丈夫ですよ先輩、悪いようにはしませんから!」
「バカやろう! 悪いようにしかならないだろこれ! ちょ、放せこら、やめっ!」
俺は自分のバットを守るべく、必死に両手で股間を抑える。
「あ! ちょっと先輩! 何やってるんですか! 手を離してくださいいいいい!」
俺の手をなんとか引きはがそうと腕を引っ張る馬渡。野球部のマネージャーの腕は華奢な男子なんかよりも力強いらしく、俺のガードが徐々にはずれていく。
「はぁ……はぁ……さぁ、観念してください……やさしくしますからああああ!」
馬渡が恐るべき力で俺の両手をこじ開け、俺の股の間に顔を近づけた。
「いや! ほんとにやめてくださいお願いします!」
俺の懇願もむなしく、馬渡の顔はじりじりと近づいてくる。
「チャックを口で開けさせるなんて、先輩も物好きですね」
「やめろって言ってんだろおおおおお!!!!」
そしてついに、馬渡の柔らかな唇がズボン越しに俺のバットをとらえようとしたとき、
「何をやっているのかしら?」
この部室の支配者である女王の冷たい声が響いた。
馬渡が慌てて後ろを振り返ろうとするが、しかしそれは叶わない。
がしっ、と音を立て、朱里の手が馬渡の頭を真上からわしづかみにしたのだ。
馬渡は冷や汗をかきつつ、頭を必死に動かそうとしているようだが、朱里の力が相当強いのか、びくともしない。そしてそのまま机の下から引きずり出された。
「馬渡さん、私の目には可愛い顔した変質者がそこの甲斐性なしの貞操を散らそうとしているように見えたのだけれど」
ぎりぎりと、朱里の細い指が馬渡の小さな頭に食い込む。朱里の顔が先ほどから笑顔なのが逆に怖い。
「い、いや……その、可愛い子は何してもいいという先輩の言葉に従ってですね」
「そう、じゃあ私も可愛いから何してもいいわね」
「あだだだだだ! すいませんでした! 頭潰れるううう!!!!」
文芸部唯一の後輩に容赦なくアイアンクローを決める部長は、俺が椅子から崩れ落ちてへたり込んでいるのを見て、ため息をついた。
「はぁ……暖人も相変わらずね……ヘタレ」
「うるせぇ」
――それから数分後、無事アイアンクローのダメージから回復した馬渡は、先ほど俺のズボンのチャックを咥えようとした桜色の唇を尖らせ、朱里に抗議する。
「先輩たちはそういう関係じゃないって言ってたじゃないですかぁー」
俺は疲れ切った精神をいやすため、自分で淹れた暖かいお茶を口に含んだ。
「そうね。こんなヘタレの甲斐性なしと私が付き合うはずないわ。それに、私は別に神聖なる学び舎でそんなことをするなだとか、そういったことを言うつもりもない」
「だったら――」
でもね、と馬渡の言葉を朱里は遮る。
「暖人の貞操は私のものよ」
「ぶふぉ!」
俺は思わずお茶を噴き出した。
「ジョークよ」
「ブラックすぎるわ!」
「どちらかというとピンクね」
「どっちでもいいよ。てかなんだよピンクジョークって! ただの下ネタじゃねぇか!」
こいつから貞操を狙われたら馬渡なんかよりももっとやばそうだ。守り切れる自信がない。
「なんだ、冗談ですか……びっくりしたぁ……ていうかじゃあいいじゃないですか別に。桜世先輩も桜世先輩ですよ。あんな必死に拒否することないじゃないですか。何気に傷つきましたよ」
「そりゃ、いきなりあんなことされたら必死にもなるだろ。なんでお前が被害者みたいな顔してんだ」
「でもですよ、自分で言うのもなんですけど、私って結構可愛いじゃないですか。そんな私に迫られて……普通あんな全力で拒否します? むしろ喜ぶべきところじゃないですか?」
当然……かどうか俺には分からないが、投げかけられた問い。朱里がちらりと俺を見る。
俺は無言でうなずいた。
「ちょっと、面白くない話をするわよ」
「へ? なんですか急に? シリアスな感じですか?」
「黙って聞きなさい……いい? 暖人がどうしてあなたの誘いを断ったのかだけどね、これを見てちょうだい」
朱里はそう言って懐から一枚の写真を取り出す。そこには小学生くらいの二人の少女……ではなく、一人の可愛らしい少女と、それに負けず劣らず可愛らしい――一人の少年が写っていた。
その写真を見て、馬渡が首を傾げつつ言葉を発する。
「ずいぶん可愛らしい女の子ですね。この長い黒髪の子は朱里先輩ですか。そして、こっちの髪の短い女の子は……誰です?」
女の子か。まあそう見えるだろうな。
朱里は無表情で写真を眺めながら、女の子にしか見えないほどに可愛らしい少年の名を口にする。
「それは暖人よ」
「……へ?」
間抜けな声を出し、馬渡は写真の中の俺と今の俺を何度も見比べる。
「え、いや……そんな、確かに桜世先輩は中性的な顔立ちですけど……さすがに可愛すぎませんか……隣に写ってる朱里先輩と負けず劣らずじゃないですか」
あろうことか男と可愛さを比べられて、しかしプライドが高いはずの朱里は珍しく否定はしなかった。
「そうね。小学生のころなんて、女の子みたいに可愛い男の子なんて案外いるものだけど、暖人はその中でも異常だったわ。ポジティブに考えれば美少年ってことだけど、でもこの場合、それが悪い方向に働いた」
いつになく真剣な表情の朱里に、これから話すことが笑い話ではないことを悟った馬渡が居住まいを正す。
ああ、思い出したくもない。俺の今まで人生で間違いなく最悪の出来事だ。
「暖人はね、その容姿のせいで、変質者に襲われたことがあるの」
変質者による誘拐、拉致、監禁……そして、その変質者が実際に行為に及ぼうとしたその瞬間、すんでのところで俺は朱里に助けられた。具体的には、当時から姿を現し始めていた天才性を発揮し、俺の監禁場所を割り出して警察を呼んだのだ。
しかし、助かったとはいっても俺はその不審者から体中触られたし、それになにより、朱里が呼んだ警察が来きたのは本当にぎりぎりだった。より具体的に言うなら、下半身を露出した男が目前まで迫っていたのだ。
そりゃあ、トラウマにもなる。
それ以来だ。俺は誰かとのスキンシップというのを極端に恐れた。それも、中学に上がってみんなが成長期に入り、男子が大人の体に近づいていくにつれそれはエスカレートし、一番ひどい時期は男同士で体が触れ合うことにすら耐えられなかったし、自分の体が第二次性徴を経てどんどん大人の体になっていくことに限りない嫌悪感すら覚えたほどだ。
「――なるほど……それで、いや、そんな事情があるなんて……ごめんなさい、怖かったですよね」
「いや、そんなの関係なしに普通に犯罪だから……」
さっきからあたかも俺の過去のトラウマに原因があるみたいに言ってるけど、さっきの馬渡の行為って普通に犯罪だからね? それとも馬渡ほど可愛ければ許されるのだろうか。俺くらいの年齢の男子だったらあのまま喜んで体を差し出していたというのだろうか。
「わかりました。先輩の家にあるもう一本のバットで我慢します」
「まあ、見せるくらいなら」
「え……そこは下さいよ」
「断る」
「なにゆえ!?」
「逆になんでもらえると思ったんだよ」
「別にいいじゃないですか。減るもんじゃないですし」
「減るよな? なんならなくなるよな?」
「まだ使ってるんですか?」
「いや、使ってないけど」
もう俺は運動部全般に入部する気はない。どうしてかというと、運動部に入るとどうしても一緒に着替えたりとかしなきゃいけないからだ。未だに他の男の裸には抵抗がある。変な話、異性よりもずっと。体育会系のノリが嫌いなのもそういった理由からだ。
「使ってないならいいじゃないですか。私の方が有効活用できます」
「断固拒否する」
「じゃあ買い取ります」
なぜそこまで……
「金の問題じゃない」
「……あれもこれもダメ、じゃあ私にどうしろっていうんですかぁ!」
机に突っ伏し、じたばたする馬渡。一体何がこいつをここまで突き動かしてるんだろう。
いい加減この会話を聞いているのにも飽きたのか、ここで朱里が口を挟む。
「諦めなさい。このヘタレはあの事件以来、性的な事柄全般に対して強烈な拒否感を覚えてしまっているのよ」
だからなんで俺が悪いみたいになってるんだ。バットであんなことしてたやつに自分のバットを渡すことなんてできないだろ。
朱里の言葉を聞いて渋々引き下がりつつも、残念そうな顔で机に上半身を投げ出してだらける馬渡。伸ばされた手が、俺の目の前でばたばたと上下にゆれる。
そんなことより、と部室の空気を変えるように朱里が一言。
「そろそろ今日の活動の時間よ。二人とも、準備をしなさい」
いや、準備も何もなにするか微塵も教えられてないんだけど。
と、まるで朱里の言葉を合図にするように、こんこん、と部室のドアがノックされた。
「きたわね」
誰か確認することもなく、朱里はドアの方を全く見ずに言う。
「入っていいわよ」
こいつ、やってきたのが先生とかだったらどうすんだ。
朱里の許可を得て、ゆっくりと開かれた扉から現れたのは、驚くべきことにこの学園のマドンナ的存在――朱獄院蘭子さんだった。
「あ、あの……相談があってきました」
おずおずと、未だにここに来てよかったのかと自分を疑っている様子で、迷える子羊がやってきた。それも、さながらギリシャ神話に登場する黄金の羊のように美しい子羊が。