プロローグ
夕暮れの放課後、高校の校舎の一室で気心の知れた幼馴染みと二人きり。締め切られた窓の外からは何の音も聞こえず、俺の鼓膜を揺らすのは二冊の文庫本のページがめくられる音だけだ。
俺はこの時間と空間が何よりも好きだ。
乾いた紙のこすれる音が耳に心地よく、いつしか本を読んでいるのかその音を聞いているのか分からなくなったころ、隣に座る幼馴染みがぱたん、と本を閉じた。
もう読み終わってしまったのだろうか。相変わらずの速読だ。
長い黒髪を揺らし、彼女は立ち上がる。すっと伸ばされた背筋、育ちのよさそうな上品な顔つき、きっちり膝を覆うスカートが彼女のそんな清楚な雰囲気をさらに際立たせる。次の本を選ぼうと、本棚の前で腕を組む彼女の仕草は妙に様になっていた。
彼女の名前は才神朱里という。生まれた時からずっと一緒に居る幼馴染みだ。何をやっても平凡な俺に対し、何をやらせても非凡な、いわゆる『天才』ってやつ。才色兼備、容姿端麗、一笑千金……その他諸々、とにかく良さげな四字熟語を言っておけば大抵当てはまるだろう。
そんな、一緒に居るだけで誇らしくなり、こいつと友達というだけで俺のちっぽけな自尊心なんて満たしてくれるほどの幼馴染みは、本棚の方を向いたまま真剣な口調でこう言った。
「ねぇ暖人」
暖人とは俺のことだ。フルネームは桜世暖人という。ミドルネームはないし二つ名もない。あとついでにあだ名もない。悲しい事実だな。
「どうした?」
「男子が好きなものは大抵が男根のメタファーだと思うのよ」
俺は朱里の言っていることが分からず、活字を追う目を止め、ついでに思考も止める。なんなら一度時間も止めてしまいたかったが、『何を考えているのかたまにわからない』という唯一の欠点をもつ朱里は 俺に構わず続けた。
「野球にテニスに剣道……スポーツなんかはみんなそうね。あとは銃とか刀とか、戦車とか……例を挙げたらきりがないわ。ああ、新幹線とかもそうね」
玉と棒を下ネタに直結させるとか……『メタファー』とか難しい単語使ったくせに発想は完全に中学生レベルである。
「全世界の野球、テニス、剣道、卓球、銃……あと、なんだっけ?」
記憶力のない俺に朱里が付け加える。
「刀に戦車、新幹線とソーセージよ」
朱里はすました顔で本棚から一冊の本を取り出し、机をはさんで向かい合わせの、さっきとは違う位置に座る。
「そうそう、とにかくそれらの関係者全員に謝れ……って、ん? なんか増えてないか? それも生々しいやつが」
手にしている本の背表紙には『悪いのは、そう政治。著:フランク・イーザウ』と書かれていた。知らないタイトルと作者だ。
「なによ、ちゃんと覚えてるじゃない。ああ、フランクフルトなんかもそうね」
「だから食べ物の例を上げるな。生々しいわ! あと絶対その本見て思いついただろ」
「でも好きでしょ? 特にフランクフルト」
『でも』ってなんだよ。いや、大好きだけどさ。
なぜか核心を突かれたような気持ちになってしまった俺に追い打ちをかけるように、朱里は言う。
「毎年お祭りに行くたび買ってるものね。そして自分のとは別にもう一本買って毎回私に無理やり食べさせるのよね」
「おいやめろ、それだとまるで俺がいやらしい目的でお前にフランクフルトをおごってやっていたみたいじゃないか」
「違ったの?」
「違うわ……なんだお前、俺をそんな変態だと思ってたのか。ていうかそもそもそう思ってたんなら断れよ」
「だって暖人、前に一度断ったら泣き出したじゃない」
「……記憶にございませんな」
ぎこちなく眼をそらす。
「ほら、いつだったかしら、確か小学校低学年くらいのころ、私と喧嘩していたから仲直りしようと思って差し出したフランクフルトが断られた時に――」
「やめてくれ、俺が悪かった」
改めて口に出して説明されるとつらいな。
「フランクフルトごときで私の機嫌が直ると思っていた暖人に正直あの時はがっかりしたわ」
「追い打ちをかけないでくれ……」
小学生がそんなこと思ってんじゃねぇよ。機嫌くらいフランクフルトで直せ。
「だから私はお祭りのたびに暖人が差し出してくる熱々のフランクフルトを、暖人の劣情をもよおした視線に耐えながら――」
「もよおしてねぇよ」
「……でも暖人、私がフランクフルトを食べるのを、いつも隣でニコニコしながら見てるじゃない……正直、すごく食べづらいのよね、あれ」
「それは……すまん」
一応言っておくが、別に変な想像はしてなかったから。ただ自分の好きなものを友達と共有できることの素晴らしさを感じていただけだから。
それにしても、こいつの発言がエキセントリックなのはいつものことだが、今日はいつにもましてひどい。
「話が逸れたわね。暖人のフランクフルト問題はまたいつか……そうね、今度のお祭りの時にでも話し合うとして」
話し合うのかよ。いや、もう俺が全面的に悪かったからもうやめてくれ。年頃の女の子に毎度フランクフルト押し付けて悪かったよ……あれ、なんかこういうとほんとに俺が悪い気がしてきたぞ。
「そうそう、男根のメタファーの話だったわね」
そう言って、朱里は本を閉じて机に置いた。どうやら読書タイムは終わりらしい。
「ああ、そうだったな」
「どこまで話したかしら?」
「お前が男子の好きなものすべてを冒涜したところまでだ。というわけで世界中の関係者各位に謝れ。とりあえず男子代表として俺がその謝罪を聞き入れよう」
男子が好きなものは全て男根のメタファーだとか、暴論にもほどがある。
「嫌よ。私が正しいのになんで謝らなくちゃいけないの?」
「一体その自信はどこから来るんだ……」
「容姿……かしら」
頬に手を当て、見目麗しく微笑んでくる。
「いやらしいなおい」
「暖人に言われたくないわよ。毎年お祭りで女の子にフランクフルトを――」
「それで、どうして男子の好きなものは全部男根のメタファーだなんて言いだしたんだ?」
「ようやく話を聞く気になったようね」
話を聞かないと俺の精神が持ちそうになかったからな。いや、これから聞く内容も十分酷そうだが。
降参気味の俺を見て、朱里は満足げな表情をすると、長い黒髪を耳の後ろにかきあげ、話し始めた。
「確か、テニス部の男子が、自分の股にラケットをはさんで男根に見立てて遊んでいたのを見たのが始まりだったわ」
高校生にもなって何をアホなことやってんだよテニス部。おかげでうちのアホにまで影響が出てんじゃねぇか。
「その後は野球部。彼らは野球ボールを二つズボンにいれてバカ騒ぎをしていたわね。テニス部と同じようにバットを股に挟んでいた人もいたわ」
ちくしょう、野球部もかよ。
「そして極めつけは剣道部……彼ら、股に挟んだ竹刀でちゃんばらしてたのよ」
ろくな部活ねぇな、うちの高校。この文芸部もよそのこと言えないけど。
「とまあ、それで、色々考えた結果、男子の好きなもの全部がそうにしか思えなくなったというわけ」
「控えめに言って病院に行った方がいいな」
「ふざけないで」
それは俺の台詞だ。
ここで朱里は一度場を整えるように、こほん、と咳ばらいをし、いつもの真面目な顔で言った。
「ということで、これからしばらくの文芸部の活動内容はその調査にします。男子の好きなものや熱中するものが『男根のメタファー』であるか否か、それを調査して本にまとめましょう」
「えー」
と、俺は心の底から嫌そうな顔をする。こいつはいつもこうして謎の企画を立案しては本にまとめ、文芸部の活動報告として生徒会やらなにやらに提出しているのだが、今回はいつにもましてひどい内容になりそうだ。
いやだ。絶対にやりたくない。
しかし、俺の気持ちなどおかまいなしに朱里はにっこり笑顔を作ると、急にやたらきゃぴきゃぴしたかわいらしい声で、
「幼馴染みの言うことはぁー?」
と言っていつものように肘をやたら内側にして拳を突き上げる準備をした。
こうなるとこいつはもう聞かないのだ。あの手この手で俺をこの謎の活動に引きずり込もうとしてくる。
俺は潔く諦め、軽く拳を持ち上げながらいつも通り弱々しく言った。
「……ぜったぁーい」
こうして俺たちの、男子が好きなものは全て『男根のメタファー』なのか、という謎の調査が始まったのだった。