虐待されていた私が幸せになるまでの話
夕陽に徐々に翳りが見えてきた頃、やっとの思いで遺書を書き終えた私は、屋上の手摺に手をかけ、そこから身を乗り出した。目前には「終わり」が広がっているものの、意外にも恐怖心と言えるような感情は抱いておらず、寧ろ、普段と遜色のないくらいに落ち着いた心持ちでいる。そんな私は今、九条蒼汰君のことを回想している一一
幼少より父から受けてきた行為の数々は、調べたところに拠ると、所謂「虐待」に当たるのだという。
小学生だった頃までは比較的軽い程度で済んでいたのだけれど、中学に上がり、私に対して心血を注いでくれていた母が不慮の事故により他界した頃を境に、受ける虐待の苛酷さは次第にエスカレートしていった。高校生になった頃には、私に有った筈の自尊心や感情の殆どがズタボロ、というより空っぽになってしまっていた。クラスメイトとの自然な関わり方というのもいつしか分からなくなってしまい、そんな私は、軈てクラス内で孤立するようになってしまった。
そんなこんなで、暫くは黙々と授業を受け、休み時間は唯々机に突っ伏したり、トイレに籠ってみたり、或いは、基本変化に乏しい校外の風景をただ呆然と眺めてみたりと、お世辞にも退屈でないとは言えそうにない日々を送っていた。
彼と初めてまともに話したのは、確か偶々掃除当番が被った日の時だったと思う。その日は、当番の内の一人が掃除をサボって帰ってしまっていたようで、彼含め当番の面々は、
「え、あいつまた掃除サボったの?」
「明日は和貴の一人掃除だな(笑)」
などと、皆で談笑を交えつつ、淡々と、丁寧とも雑とも言い難い感じで掃除をしていた。そんな中、黒板の担当だった私は、一人で黙々と黒板に書かれた文字を消していき、書かれていた日直の名前を明日のものに直したりした。
数分後、どうやら彼らの方が先に掃除を終えたようで、蒼汰君以外のメンバーは帰るなり部活に行くなりで先に教室から出ていった。教室には彼と私の二人だけが残された。
黒板の上の方の文字を消すのに苦闘していると、
「上の方消しにくいなら、代わりに俺が消してあげようか?」
と彼に尋ねられた。突然の問いかけに「あっ……」としか声が出せなかった私は、それでも何とかこくりと頷いてみせることで了承の意思を示し、そして黒板消しを手渡した。女子の中ではほぼ平均くらいの私より20cmくらいは背が高く見える彼は、余裕そうに上の方の文字を消していった。
そのお陰もあって、想定よりも早くに掃除を終え、彼もこれから帰りだということで、私たちは共に帰りの支度に入った。
「そういえばさ、君ってなんでいつも一人でいるの?ずっと一人だと、なんて言うか、退屈?だと思うんだけど」
「……どんな風に他の子と関わっていけば良いのか……分からなくて……」
「なんだそれ(笑)」
「……うーん、じゃあさ、まずは俺と友達になろうよ」
ここから、彼と私の関係が始まった。
初めの頃は、彼の話に拙い相槌を打ったり、軽い返事をするので精一杯だったけれど、日を重ねるにつれて会話の続け方が分かっていき、彼との会話が弾むようになっていった。また、時々彼の友人達とも一緒に話す機会があったのだけれど、次第に彼らに対してもある程度普通に振る舞えるようになっていった。
こうして、私は徐々にクラスの空気感に馴染めるようになっていった。今までは殆ど平らだった、いや、ある種そうなるよう縛られていた感情が、次第に豊かな色彩を持って形作られていくような感じがした。
さて、そうしていくうちに、いつからか、私は蒼汰君のことを強く意識しはじめていた。急に彼に話しかけられたりすると心臓がドクンとなり、彼が他の女子と楽しそうに話しているのを見ていると、胸がキュッと締め付けられる、少し不愉快な感覚を確かに抱いた。
これを「恋」の一言で片付けるのは簡単だけれど、でも、この気持ちの根底には、どこか病的な一一或いは、ある意味依存的な一一何かがあるように感じた。私は、彼を…………
そんなことを家で漠然と考えていた中、「ガチャッ」と玄関のドアの開く音がした。父がパチンコ店から帰ってきたらしい。またスったのだろうか、妙にカリカリしている様子だった。
おかえり、と軽く挨拶をすると、部屋に父がいきなり入って来るや否や、開口一番に
「おい、お前。高校なんか辞めて、家族のために働け」
と言い放ってきた。意味が分からなかった。
このような場合にはいつも、父が一層不機嫌になることの無いよう、原則従順に応対することが多かったんだけれど、今回に限っては、父の発言が頗る癪に障ってしまい、
「そんなふざけたこと、言わないでよ……」
「あぁ?」
……口答えしてしまった。その後、父は私に勢い任せの暴言を浴びせ、終いには本気で高校を辞めさせると言って、そのまま部屋を出ていってしまった。
(……え?高校を辞めさせる?そしたら私……)
そこまで思考が働いたところで、突然途轍もない拒絶感に襲われた。不快だとか不服だとか、そういった単なる負の感情ではない何かが身体中を這いずり回ってきた。「どうせ口だけだ」と、どうにかして自分に言い聞かせようと試みはしたが、睡魔が勝つ瞬間が現れることは、果たして朝になるまで寸分たりとも無かった。
けれども、翌日、家を出るまでに昨日の件について父から全く触れてこなかったので、「昨日のあれは本気ではなかったのだ」と自己暗示をかけ、一先ず束の間の安堵を抱えながら学校へと向かった。
以前はどうにも居心地の悪かったクラスが、その頃には心地の良い場所であると本心から感じられるようになり、蒼汰君と話している時に至っては、無意識にも自然な笑みを浮かべられるほどになっていた。心做しか、彼の方も以前より笑顔が自然になってきたように思えた。
一一それから約一ヶ月後のことだ。彼から放課後校舎裏に来るよう言われた。彼のなんとなくおどおどとした様子から、私を呼び出す理由はなんとなく分かっていた。
「こんなところに呼び出して、どうしたの?」
だが、それは敢えて口にはしない。飽くまで知らぬ振りを演じる。
「なぁ、初めて話した頃のこと、覚えてるか?」
「うん。あの時に私と友達になってくれてありがとう。蒼汰君のお陰で、前の頃よりずっと、心から楽しく生きられるようになったよ」
「……俺もだよ。よく笑うようになった君の姿を見ていると、なんだかこっちまで嬉しくなるんだ」
「だからさ……その……えっと……」
「……うん」
「…………」
…………断る理由は無かった。はにかんだ表情をなんとか誤魔化そうと奮闘している彼の姿がどうもいじらしく感じられた。
その後、ちょっぴり平静を取り戻した彼は「一緒に帰ろう」と誘ってきて、それを快諾した私は、何処かに不可思議さを孕んだ、それでいてやはり心地の良い胸の高鳴りをひしひしと感じながら教室へ鞄を取りに戻った。
さて、彼の元へ向かう途中、担任の先生に呼び止められた。そして、先生から、表面に「重要」と書かれている封筒を手渡され、父に見せるように、と言われた。
……なんだか嫌な予感がした。
私の家の前に着き、彼に別れを告げると、速攻自分の部屋に入り、急いで封筒の中身を確認した。
「学納金未払いの件について」
そのタイトルで全てを悟った。
「一ヶ月後になってもまだ納入されない場合は退学処分となる」
とも書いてあった。確か納入は父の口座からの引き落としで行われていたはずなので、父が意図的に口座から金を引き落としたか、或いは全部賭博に注ぎ込んでしまったかのどちらかが原因だろうか。
いずれにせよ、私がどうこうできるものではないのだけれど、だからといって、この件を父に聞こうと思うと背筋に悪寒が走った。でも、聞かない訳にはいかなかったので、父が食事を済ませた辺りで訊ねることにした。
「......ねぇ、学納金ってちゃんと払ってる?」
「前に、お前には高校を辞めてもらうと言ったはずだが」
「お金の問題なら私がバイトでもして払うから……」
「辞めろって日本語が分からないのか?あ゛ぁ゛?あ、あと、そう遠くない内に引っ越すからな。ここは家賃が高すぎる」
これ以上話しても埒が明かないと悟った私は、そこで話を打ち切り自分の部屋に戻った。
このまま一ヶ月が経ってしまえば、今の形での高校生活は否応なく終わってしまう。なんとか学納金を工面し、直接学校に払ってしまおうかとも考えたけれど、いずれ父にバレたときのことを考えた結果、無理だと判断した。それに、いずれ引っ越すとなれば、どう動こうが無意味だ。もはやどうにもしようがない。詰んだ…………
それからの数日間は、まるで魂が抜け落ちたかのように、実に空虚に感じられた。クラスメイトに此方から口を開くことはほぼなく、蒼汰君と話している時も下手くそな作り笑いを浮かべるので精一杯だった。
いつしか、私は、「このまま今の高校生活が終わってしまったあとに、私自身に残るものは一切無く、有るとするならば、言葉通りの地獄だけだ」と考えるようになり、そこから次第に自殺念慮を抱くようになっていた。このまま今の全てを失うくらいならば、いっそ、自ら命を絶ってしまった方がマシだ一一
一一そして今に至る。多少の葛藤は有ったけれど、この先の現実を受け入れられるほど、私は強くなかった。結局、精神の根本は未だに改善されていなかったようだ。与えられていた環境のせいで誤解していた。
さて、そんな回想も一段落し、私は決意を固めた。
さぁ、飛び降りよう一一一一
「はぁ、はぁ、やっと見つけた」
声の主には心当たりがあった。彼のヘトヘトな姿を見ていると、なんだか飛び降りるのが馬鹿らしくなった。覚悟は決めたつもりだったんだけどなぁ。
「……なんでここにいるって分かったの?」
「別に、ここにいるって知ってて来たわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
「ここ数日間の君の様子を見るに、なんだか大きな悩みを抱えてる気がしてね」
「うん」
「その後、放課後になった途端に教室を直ぐ出ていったのを見たところで、凄く嫌な予感がしたんだ。それであちこち探しまわって、最終的にここに辿り着いたんだよ」
彼には適わないな、と思った。でも、ここで飛び降りずに生きる道を選べば、この後に待ち受けている未来を受け入れる覚悟をしなければならない。悩みながらも、彼に事の顛末を語ることにした。
彼は、時々驚いたような顔を浮かべながらも、真剣に話を聞いてくれた。
一通り話し終えたところで、彼は「そうだったのか……」と言い、その後、様々なアドバイスをしてくれた。「どうして俺にそのことをもっと早く言ってくれなかったんだ」と詰められても仕方ないと思っていたけれど、そこは彼なりに慮ってくれたのか、そのことには触れないでいてくれた。
彼の提案で、私はまず学校にこの件を相談し、児童相談所にも同様に相談をした。
初め、父は、私に対し虐待を行ったというのは全くもって事実無根だと主張していたものの、私の身体に残っていた明らかに暴行によってできた痣や、周辺住民による暴行の際の騒音の証言などにより、確かに虐待の事実があったことが認められた。そして、私は「一時保護」の形で一時保護所に保護された。そこで、カウンセリングなどを受けながら、虐待について色々と聞かれた。父へは相談所側から指導が入ったらしい。
その後、二週間くらい経った時に一回家に帰らされたのだけれど、父の態度が依然として酷く、一切改善の余地が見られないと相談所が判断したため、結局、相談所側の勧めで、私は近くに住んでいた祖母の家に引き取られることになった。こういう時に限って、親元を離れさせたがらない父には流石に呆れ果てた。
学校側はこのことに柔軟に対応してくれた。色々と落ち着いてから学校に来ればそれでいいとのことだった。
これで、とりあえずさしあたっての問題は解決した。
正直ここまででだいぶ精神的に参っていたので、暫く学校は休むことにした。祖母たちは、父と二人暮しをしていた頃では考えられないほど私に良くしてくれた。
学校に行っていない間も、蒼汰君とは時々メールでやりとりしていた。学校でのエピソードなどを色々聞かせてくれた。何故かはよく分からないけれど、今私が彼に抱いてる好意は、以前よりずっと健全な気がする。
それから十日ほど経った頃、もうだいぶ精神的にも休まってきていたので、学校に行くことにした。ここまで自殺未遂を始め色々あったし、最後の登校日から結構時間も空いたため、クラスメイトにどう思われているかは不安だけれど、それと同時に、久しぶりに蒼汰君たちに会えることを思うと、胸を高鳴らさずにはいられなかった。
「ガチャッ」
教室の扉を開けた。早く来すぎたせいか、教室にはまだ一人しかいなかった。そういえば、今日は席替えの日だっけ。蒼汰君がメールで言っていた気がする。
とりあえず、黒板に貼られた座席表を確認し、「結城奏音」と書かれた自分の席を確認し、そこに荷物を置いた。
そして、私は何やら作業中らしい上杉和貴君のいる方へ向かった。
「おはよう」
「……おぉ、奏音ちゃんじゃん!久しぶり!元気してた?」
「うん、そこそこ。というか、和貴君がこんなに早く来てるの珍しいね」
「あぁ、掃除サボりすぎたせいでこんな朝早くから反省文書かされてんのよ」
「あはは……相変わらずだね」
「そうだ、どうせ暫く誰も来ないし、黙って長ったらしい反省文書いてても暇だからさ、少し話そうよ」
「良いよー」
それから、暫し雑談を楽しんだ。彼が普通に私を受け入れてくれてることが少し嬉しかった。
「ガチャッ」
次に入ってきたのは蒼汰君だった。いつも朝早く来てるって言ってたけれど、どうやらその通りらしい。
「蒼汰君!おはよう!会いたかったよー」
「奏音!おはよう。メールで『今日来る』とは言ってたけど、こんなに早く来るとは思ってなかったよ」
「皆に会うのが楽しみすぎて早く目覚めちゃったんだよ」
「……うん、やっぱりそうやって笑ってる奏音が一番可愛いよ」
「えっ……」
思わぬ一言に赤面してしまった。
「はぁぁぁぁぁ……良いなぁー、俺もこんな彼女が欲しいなぁ……」
和貴君は溜息を漏らした。
「ん?お前にもいるだろ、彼女」
「あいつはこんなに可愛くないよ(泣)」
「……和貴、誰が可愛くないって?」
「えっ?来てたの?ごめんなさ」
「許さないよ?」
「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"」
「あはは」
「ははは」
私は、なんだか春のような気持ちになった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます!拙い執筆技術ながらも何とか作り上げた一作です。何かしら感想など書いてくださると飛んで喜びます。
P.S. 違和感のあった箇所を若干訂正したり、多少読みやすいよう改善しました。内容自体に大きな変化はありません。