前編
義姉は社交界で氷の華と呼ばれていた。
その名は彼女の持つ透き通るような白い肌、光の加減によっては青みを帯びて見えるプラチナの髪を指しているようにも聞こえるものでもあったが、もう一つ隠された意味も持っていた。
あの頃の義姉、リーザロッテは社交用の微笑以外人前で笑みを浮かべることはなく、また誰に対しても冷たく、言い放つような物言いをするような人だった。つまりあの名は、侯爵令嬢である彼女を密かに『氷のように冷たい女』と言っているものであった。
しかし、そんな二つ名はいつ頃からか聞かれなくなっていった。
いや、俺はあの名がいつから消え始めたかを正確に覚えている。あんなこと、忘れることなどできるはずがなかった。
その日は冬らしい、空気までもが肌を刺すように冷たい日のことであった。リーザロッテは十五歳の冬のあの日、高熱から回復した後から別人のように変わってしまったのだった。
「レイ」
リーザロッテの熱がやっと下がったと聞き、彼女を見舞った俺にかけられたのはそんな呼びかけだった。二人だけのときにはそう呼ばれることもあったが、そのとき彼女の私室には侍女やメイドが数人いた。公私の区別を明確につけるリーザロッテが、それにも関わらず俺をそう呼んだことに驚き、俺は一瞬言葉を失ってしまった。
「……義姉上、お加減はいかがですか?」
動揺を抑え込み、何とかいつもと変わらぬ表情を維持しながらリーザロッテに返せたのは、そんなありきたりな言葉だった。彼女は養子である義弟の俺に、常に高位貴族に相応しい振る舞いをするよう求めていた。そのため、思わず表に出してしまった動揺を指摘されるだろうなと思いながら、俺は彼女からの返答を待っていた。
しかし、厳しい叱責が返ってくるとばかり思っていた俺に掛けられたのは、予想もしていなかった言葉だった。
「ありがとう、レイ。まだ少しダルいけどもう大丈夫よ」
あれもまるで凍りついているようだ、と陰でよく揶揄されていた深い紺の瞳の色合いはいつもと同じであるはずなのに、その柔らかく緩められた目元のせいか、見たこともない優しい笑みのせいか、その瞳の色までもが変わってしまったかのように感じられた。
リーザロッテが、自身を含め誰にも厳しく、常に背筋をピンと張り一分の隙も見せぬ振る舞いをしていたあの義姉が、背に当てられたクッションに緩く体重を預け、まるで普通の年頃の娘のように微笑みながら俺にそう言ったのだった。
その信じがたい光景に俺は今度こそ完全に言葉を失った。目の前で起きたことが理解できず固まった俺に、リーザロッテの専属侍女のカリナがそっと耳打ちをしてきた。
「レイモンド様、その、お目覚めになられたときからこの調子なのです」
そう言うカリナの声にも多分に戸惑いが含まれていた。どうやらリーザロッテは彼女に対してもこのような対応をしていたようだ。
まだ考えられることがあるとしたら、何か理由があって俺を試すためあんな振る舞いをしていたのかと思っていたが、その極めて低かった可能性すら否定されてしまった。理解を越えた現実に戸惑い続ける俺たちを、リーザロッテの顔で優しい表情をしていた女が少し苦笑いをしながら見つめていた。
リーザロッテの劇的な変化は、初めは高熱による一時的な後遺症か何かと思われていた。いや、屋敷の誰もがそうとでも思っていなければ、目の前の現実をうまく飲み込むことができなかった。それぐらいリーザロッテはまるで別人のようになってしまっていた。
以前の彼女がまとっていたまるで吐息すらも凍らせるような厳格な雰囲気はその全てが溶け去り、春の暖かで柔らかい日差しのような笑みを自然と浮かべるようになっていた。
それまでのリーザロッテは使用人にも常に侯爵家のものとしての自覚を求め、厳しい言葉や態度を取ることが多かった。些細なミスも許さず、厳しく指摘する彼女に付いていくことができず、泣かされ辞めていく侍女やメイドが何人もいた。しかし今は一番地位の低いメイドに対してでも、小さなことでも『ありがとう』と礼を述べ、ミスも責めず『たまにはこういうこともあるわ』と許している、むしろ庇うように動くこともあるようだった。
そんな彼女に戸惑い続ける俺たちのことを全く気にすることなく、リーザロッテは熱から回復して1ヶ月経った後も、柔らかに微笑みながら誰にも分け隔てなく優しく接し続けていった。
そうすると周囲もやがてそのリーザロッテの変化を好意的に受け入れていくようになった。
その彼女の変化を一番最初に受け入れたのはカリナだった。専属侍女としてずっとリーザロッテと共にいる彼女は、最初こそリーザロッテのあまりの変化にむしろ恐怖で萎縮してしまっていた。今までは出来て当然、お茶の淹れ方から礼の仕方まで細かく目を光らせてきた主人が、ある日を境に急に「カリナのおかげで助かるわ」なんて笑いながら言ってくるのだ。それも仕方のないことだっただろう。しかし、カリナは徐々にリーザロッテのその優しさに心を開いていき、今では屋敷では義姉を「リーザ様」と呼ぶまでとなった。
聞いたところによると、リーザロッテは彼女に気さくに話しかけ続け、次第にカリナと色んな話をするようになったらしい。庭のテーブルセットでまるで友人であるかのように談笑している彼女たちを俺も何度か見かけていた。
さらにリーザロッテはカリナの妹が最近体調を崩していることを聞くと、自分の私財から費用を出してもいいからすぐに医者にかかるようカリナを説得したそうだ。最初はカリナも大袈裟だと思っていたが、リーザロッテが余りに心配してくれるので彼女の言葉に従い、妹を大きな診療所に連れていったそうだ。するとそこで妹には肺の病気の兆候が見られることが分かり、初期段階で有効な治療をすることができたそうだ。もしあのときにただの風邪などと思って放置して治療が遅くなっていたら、きちんと完治させることは難しかったかもしれないと医者に言われたらしい。
そこからカリナはリーザロッテを大切な家族の恩人としても、彼女を慕い、敬うようになっていった。
次にリーザロッテの変化を受け入れたのは彼女の両親だった。彼女の両親、つまり俺を養子として迎えた義両親は、良くも悪くも非常に貴族らしい人たちだった。情より家としての繁栄を優先する典型的な貴族であり、リーザロッテとの関係も実の親子であるはずなのにとても希薄なものであった。
王宮での権力争いに勝ち、幼い頃にリーザロッテを王太子となるであろう第一王子の婚約者に内定させ、そんな彼女に未来の国母となるための教育を抜かりなく施した。彼女を完璧な令嬢にするために必要なものは、彼女が望もうが望むまいが、全て惜しみ無く与えた。そこに親としての愛情が全くなかったとは言わないが、家の繁栄のために行われた部分が多かったのは間違いなかったはずだった。
そんな二人にリーザロッテは積極的に歩みより、声をかけ、時間を共有できるよう努力を続けた。父とより長く話をするため新聞を必死に読み込み、母との時間を持つため時間の許す限り社交の場に共に出るようにした。
そうすると義父も義母も段々と『リーザロッテ』を一人の人間として、己の血を分けた娘として見るようになっていった。
彼女の努力の甲斐あって、それまでは家族など顧みることのなかった義父が急ぎの要件がない限りは朝食のテーブルに共につくようになり、今では他愛もない会話にも明るく応じるようになっていた。俺が引き取られた頃は夕食の時間に義父を見かけることなどなかったが、最近は夕食もたまにではあるが共にするようになっていた。
義母も以前は一人で済ませていた買い物にリーザロッテも同席させ、ときに二人で笑い声まで上げながら買い物をするようになっていた。教養を深めるためと理由を付けてにはなるが、共にオペラや演奏会に足を運ぶ姿も見られるようになった。
二人の態度を変えたのはもちろんリーザロッテの両親への想いによるところが大きいが、俺にはその他にも要因はあるように感じられた。リーザロッテは余程両親のことをよく観察していたのか、彼らの好きなもの、求めるものをピタリと言い当てていた。実際、リーザロッテの助言で領地の問題の解決の糸口が見つかったり、義父の命に関わるような事故も未然に防ぐことができたりしたことがあった。義母もリーザロッテの勧めてくれるものは流行するものばかりで、センスの良い娘のおかげでいつも流行を先取りでき、自分の立場が上がったと喜んでいた。
次にリーザロッテの変化を受け入れたのは、恐らく俺になるだろう。
それまでの俺たちの関係はよく師弟のようだと言われていた。十歳のときにこの家を継ぐため養子に迎えられた俺は、親戚の中では飛び抜けて優秀だとは言われていたが、高位貴族の子息となるには足りないところが多くあった。それをいつも指摘し、改善するよう厳しく接していたのがリーザロッテだった。彼女は一つ年下の俺に対しても容赦なく不足している点、誤っている点を挙げ、それを補い、直すように命じた。いつだか長く家に仕えている義父の執事に、「この家に来られたばかりの頃、レイモンド様は夜にもリーザロッテ様に呼び出されておりましたから、使用人の中には貴方が心を病まれてしまわないか心配していた者もいたのですよ」と言われたこともあった。それぐらい彼女の態度は非常に厳しく見えるものであった。
そういう環境で育ってきたこともあり、侯爵家の跡取りとなるため俺は日々勉強漬けの生活を送っていた。
その日もいつものように夜遅くまで起きていて、新しく発表された経済学の論文を読み込んでいた。すると日付も変わろうかという時間に、急に部屋のドアがノックされた。こんな時間に俺の部屋を訪れる人間などいないため、不思議に思いながらそれに応えると、「レイ、まだ起きてるの?」というリーザロッテの声が返ってきた。
急いで立ち上がりドアを開けにいくと、そこには湯気が立っているマグカップを持ったリーザロッテがカリナと共に立っていた。状況が理解できずドアノブに手をかけたまま立っていた俺に、リーザロッテがこう声を掛けてきた。
「ここ最近ずっと遅くまで明かりがついているからちょっと心配になっちゃって。跡取りって重責もあるかもしれないけど、レイには頑張りすぎないで、もっと自分のことも大切にしてほしいの。
ほら、レイはそんな素振りは見せてないけど睡眠不足は体に良くないよ。これを飲んでできるだけ早めに寝てね」
そう言ってリーザロッテは、俺に温かなカモミールティーの入ったカップを持たせた。
渡されたカップを持つ手から、じわじわと温かさが俺に移ってきた。柔らかな笑み、優しい言葉、温かなカモミールティー。どれもかつての『リーザロッテ』にはなかったものだった。
それまでも彼女が変わったことは理解しているつもりであったが、この言葉が相応しいかどうかは分からないが、俺はそのときに止めを刺されたような気分になっていた。リーザロッテは変わった。心のどこかに残っていた彼女の変化に対する疑念が、カップの熱に溶かされたかのようにすぅっと消えてしまった。
「ありがとう、義姉上」
その気持ちを認めるように、俺は普段は向けることのないような気を抜いた笑みで、彼女の言葉に応えた。
こうしてリーザロッテは屋敷の人間を始め、周囲の人々が持っていた『氷の華』のイメージをことごとく覆していった。
そこから二年ほど経ち、俺が十六歳になり貴族の学園に入学する頃には、以前のリーザロッテのことを語る人はすっかりいなくなっていた。
俺より一年先に学園に入学していたリーザロッテは、第一王子の婚約者であることを除いても、学園でも多く人望を集めていた。高位の令嬢に相応しい教養、所作を身に付けていながらも、驕ったところがなく、誰にでも等しく優しい女性。磨き上げられた美貌に優しい表情をたたえる彼女を、多くの生徒が素晴らしい令嬢だと支持していた。
そんな学園生活の中で、リーザロッテは婚約者であるミカエル殿下との関係も大きく変えていた。
以前のリーザロッテと殿下は、お互いに非の打ちどころのない婚約者同士ではあったが、その仲は非常に政略による婚約者らしいものであった。表だって非難されるような無作法は一つもなかったが、かと言って二人は仲睦まじいような関係にも全く見えなかった。まるで仕事上のパートナーのような二人の関係性を心配する声は確かにあったが、二人ともそれをかき消して余りある程の優秀さを示していたので、周囲から直接何かを言われるようなことはなかった。
そんな二人の関係を崩したのは、やはりあの変わったリーザロッテだった。彼女はそれまで半ば事務的に行っていた二人のお茶会を、すっかり婚約者同士の席に変えてしまったのだ。
リーザロッテは侯爵家自慢の庭でそのときに一番景色の良い場所にお茶会の席を作り、厳選した茶葉と流行りのお菓子を用意して殿下を迎えた。そしてその席でそれまで主に語られていた時事問題から話題を変え、自分のことを語り、そしてミカエル殿下のことをもっと知りたいと思っていることを伝えた。それまで行われていなかった二人での外出もしてみたいと、少し恥ずかしげにしながらもミカエル殿下に伝えていた。
そんなリーザロッテの変化を受け、それまで淡々と論議でもしているような場であったお茶会の席に柔らかな笑い声が上がるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そんなリーザロッテの変化に合わせるように、ミカエル殿下の彼女への態度も目に見えて変わっていった。殿下は何もない日に花やカードを届けたり、定期的なお茶会以外でもうちの屋敷を訪れたりするようになった。
殿下がエスコートのときにリーザロッテへ向ける笑顔もとても甘いものとなり、それに少し照れながらも応えるリーザロッテとの姿は、二人とも見目麗しいこともあり周囲から羨望の眼差しで見られることとなった。いつしか二人はお互いを想い合う理想の婚約者同士だと言われるようになっていった。
そんな順風満帆の二人であったが、その関係に影を落とす存在が現れた。彼女はロザリーといい、俺と同じ年に入学した生徒で、子爵令嬢であったが教会から『星読みの巫女』の称号を与えられた女性だった。何でも二年ほど前に星読みの才能に目覚め、この王都で起こることを次々と言い当てたそうだ。
ロザリーはその星読みの能力によるものか、ミカエル殿下に近しい高位の令息と次々と懇意になっていった。騎士団長の息子や宰相の息子など、将来殿下の側近になることが約束されている令息たちが、次々と彼女と親しくなり、その虜となっていった。
彼らは口々に彼女ほど俺を分かってくれる存在はいないと言っていた。聞けばロザリーは彼らの心中にあったコンプレックスを言い当て、それを認め、彼らの求める言葉を与えていったようだった。中には昔からの婚約者を蔑ろにして、彼女にのめり込んでいる人もいるようであった。
確かに彼女は一般的な美醜で言えば、整った顔立ちをしていた。低い背に女性らしい華奢な手足、艶やかで柔らかなブロンド、瞳の大きい少しあどけなさを感じさせる顔立ちをたまらないと言う男子生徒は何人もいた。
あの潤んだ瞳で見上げられると胸が鳴るよなんて誰かが言っていたが、俺にはなぜか彼女のその見透かすような瞳がどこか怖くも見えていた。
そうして側近候補の令息たちと親しくなったロザリーは、彼らを足掛かりに次は俺やミカエル殿下にも親しげに話しかけてくるようになった。
俺はロザリーとクラスが同じということもあり、授業の合間などによく話しかけられるようになった。
そんな中、ある日の放課後に図書館の奥にある専門書がある棚のところで一人調べものをしていると、そこにロザリーがやってきた。そこは一般的な学生向けの本は置いていない場所なので、普段から人気のない静かな場所であった。そんな静寂な空間に明るい笑みを浮かべたロザリーがいるのは、どこか場違いであるように俺は感じていた。
「レイモンド様、こんなところでお会いするなんて偶然ですね!」
そんな俺の様子を全く気にするとこなく、ロザリーは明るく話しかけてきた。彼女はお世辞にも成績はよくなかったので、『こんなところ』にある専門書に用があるようには思えなかった。そのため、俺は内心少し警戒をしながら彼女に答えた。
「そうですね。ロザリー嬢も何か専門書を探しに来られたのですか?」
「私たちクラスメートなんだし、そんな改まった言葉なんて使わないでよ。私のこともロザリーって呼んで。
えっと私は本を探しているんじゃなくて、レイモンド様の姿が見えたからちょっと来てみただけなの」
「折角のお言葉ですが、私はクラスメート全員にこのように接しています。なので、お気持ちだけいただいておきます。
ロザリー嬢、私が見えたから来たということは、何か私にご用でしょうか?」
そうきっぱりと伝えると彼女は口ごもりながらも「……まぁまだゲージたまってないよね」とよく分からないことを言っていた。俺がそれを少し不思議そうに見ているのに気付くと、パッと表情を変えてこう言ってきた。
「えーっと!用事!用事とかは特にないんだけど、ちょっと話せたらなと思ってきたの」
「話、ですか」
「そうそう!レイモンド様ってすごくお勉強頑張ってるから少し息抜きもしてほしいなって思って。頑張りすぎるとしんどくなっちゃうから」
「お気遣いには感謝しますが、これは私が自分に必要だと思ってしていることです。無理はしておりません」
そう思っていることは間違いなく俺の本心であった。そのためはっきりとそう言ったのだが、ロザリーは不気味なほど自信に満ちた表情で俺にこう言ってきた。
「本当はそう思ってないよね。心の中では辛いと思っているのでしょう?厳しいお姉様に叱られながら、誰にも顧みられることのない勉強漬けの日々なんて」
そう言った後、ロザリーは慈母のような微笑みを浮かべながら俺を見てきた。けれど俺の脳裏には先ほどロザリーが見せていたまるでチェスの勝ち筋が見えているようなそんな表情がこびりついていた。
捉えようのない、不気味な気持ちが心の中でうごめいていた。それを振り払うかのように、俺はロザリーにこう尋ねた。
「姉、というとリーザロッテのことを言っているのですか?」
「そうそう!リーザロッテ様って他人に厳しくて、すごく冷たい方なんでしょう?レイモンド様はこんなに努力してるのに、もっと勉強しなさいって言ってそれを全然認めてくれないなんてヒドイです」
あんな表情まで浮かべて何を言い出すかと思っていれば、ロザリーは随分と見当外れなことを言い出した。
彼女が揺るぎない確信を持っているように見えたのはただの俺の思い過ごしであったのか、そう思い少しホッとしながら彼女にこう返した。
「それは誤解ですよ。恐らく貴女は昔の義姉の噂を聞かれたのでしょう。今義姉は私のこともよく気遣ってくださいますし、私の勉学のことも認めてくれています」
「嘘よ!だってあのリーザロッテなのよ?」
ロザリーは自分の発言を全く疑っていないかのように、そう大声で言いきった。誰に、いつの話をどう聞いたのかは知らないが、彼女は教会が称号を与えているが子爵令嬢に過ぎない存在である。第一王子の婚約者であり、侯爵令嬢であるリーザロッテをそんな風に言うのは、さすがに彼女が社交界に疎いとしても問題があった。
「ロザリー嬢、今日ここで聞いたことは貴女が誤った噂を信じてしまったということで、私は聞かなかったことにします。しかし次はそうしません。今後は噂の真偽は確認してから口にされることをすすめます」
俺はそれだけを言うとロザリーに背を向けて、調べものの続きに取りかかった。そんな俺を呆然と見つめながら、彼女はシナリオが、ルートが潰された、あの女もまさか、などと理解できないような内容をポツポツと小声で呟き続けていた。
そこからもロザリーは何度か俺に義姉を批判するようなことを言ってきたが、周囲の反応からもそれが誤りであると感じたらしく、しばらくすると俺には付きまとわなくなった。
しかしロザリーは俺に構わなくなった一方で、ミカエル殿下には頻繁に声をかけにいっているようであった。
殿下は他の令息のように彼女に前のめりにはなっていなかったが、国の重要な未来を見るかもしれない星読みの巫女を蔑ろにはできないのか、表面上は優しく接しているように見えた。殿下の周囲に彼女に好意的な人間が多いこともあり、気がつくと殿下の側にロザリーがいることが多くなった。昼食時、休み時間、放課後、ミカエル殿下の隣にロザリーを見かけることが徐々に増えていった。
そんな殿下とロザリーに、リーザロッテはふいに不安げな顔をすることもあったが表立って何かを言うことなどはなかった。俺もリーザロッテのことを気がかりには思っていたが、声をかけても彼女は「大丈夫よ」と微笑むばかりであった。息がしにくいようなそんな空気を感じていたが、表面上は穏やかな日々が続いていた。
そんな状況の中で、変化は突然現れた。
あるときを境にミカエル殿下はリーザロッテとの時間を取らないようになってしまったのだ。定期的なお茶会は変わらず我が家で開催されるが、それまで学園で行っていたような昼食を共にしたり、同じ馬車で学園から帰ったりすることがぱったりとなくなっていった。
またそれとは対称的に、ロザリーがミカエル殿下の側にいる時間はどんどん増えていった。今では昼食時、殿下の隣の席は彼女の指定席のようになっていた。
そのことについて、周囲の生徒たちは様々な憶測を口にしていた。中にはミカエル殿下のお心がロザリーに移ってしまったというものや、リーザロッテはかつての「氷の華」のままであり、殿下が愛想を尽かしたというものまであった。そんな心ない噂が囁かれる中でも、リーザロッテは微笑みを絶やさず、完璧な令嬢として振る舞い続けた。
人前ではそうして気丈に振る舞っていた彼女であったが、夜自室で一人そっと泣いていることもあることは、俺とカリナだけが知っていた。
そんな日々を二か月ほど続けたある日、リーザロッテに更に追い打ちをかけるような事件が起こった。ロザリーが東棟の階段から落ち怪我をしたのだが、あろうことか彼女は「リーザロッテ様に突き落とされた」と証言をしたのだった。
もちろんリーザロッテは否定をしたが、運悪くその日彼女も音楽室へ向かうため東棟におり、さらに一人で行動をしていたため証人が誰もいなかった。ロザリーが階段から落ち、自分が疑われていると聞かされた彼女は、普段はあんなに気丈であるのにそのときは不自然なほど怯えを見せていた。俺が「義姉上がそのようなことをなさらないことは、私も含めみんな分かっていますよ」と声をかけても、小さく震えるばかりだった。
噂が噂を呼び、ロザリーは足を少しくじいただけであったが、事件は学園中を巻き込む大きなものとなっていた。勝手な憶測が飛び交い、真偽のほども分からない噂があちこちで囁かれた。その中には『リーザロッテは殿下からの寵愛を奪われた嫉妬からロザリーを殺そうとして、階段から突き落とした』など、彼女をひどく貶めるものも多くあった。
そうした噂を受け、一部の生徒からはリーザロッテを傷害の罪で処分すべきであるという声まで上がるようになった。そのため、ミカエル殿下をはじめとする生徒会はこの事件の真偽を明らかにするため、公聴会を開くことを決めた。誰でも参加できるという形をとったため、その日公聴会が行われた大講堂には、おそらく全生徒と思われるほどの人数が集まっていた。
「ではこれより先日女子生徒が階段から落ちた事件に関する公聴会を行う」
生徒会長の宣言により公聴会は始まった。最初に被害者であるロザリーが壇上に姿を現した。左足に包帯を巻き、ミカエル殿下の手を借りながら辛そうに歩く彼女の姿を、多くの生徒が同情的に見つめていた。
「皆様、このような場を設けて下さりありがとうございます。私はあの日、東棟の三階へ上がり切ったところでリーザロッテ様にお会いしました。ご挨拶をしようとしたところ、リーザロッテ様は……無言で私の胸を押し……ぐすっ、ご、ごめんなさい。私、あのとき、すごく怖くて……」
はらはらと涙を流しながら訴える姿は、さながら悲劇のヒロインといったところであった。華奢な肩を震わせて泣くその姿は、庇護欲を誘う彼女の容姿と相まって、非常に痛々しく見えるものであった。
「ロザリー嬢、あの日君がリーザロッテを見かけたことは間違いないんだね?」
ミカエル殿下が彼女を支えながら、そう問うた。
「はい、間違いありません」
ロザリーは涙でしっとりと潤んだ瞳で殿下を見つめ返しながら、そうはっきりと言った。
次に壇上に姿を現したのはリーザロッテだった。今や学園内の空気はロザリーに傾いていた。そのため俺は付き添いを申し出たが、彼女に断られてしまった。壇上で一人、多くの生徒からの好意的ではない視線を浴びながらも、彼女はまっすぐと背を伸ばして立っていた。
「私はあの日、調律後のピアノの音を鳴らしてみてほしいと音楽の教諭に頼まれたため、確かに東棟の三階にある音楽室へと向かっておりました。しかし誓ってロザリー様にはお会いしておりません」
「リーザロッテ、君の言葉にも間違いはないのだね?」
殿下がまっすぐに視線を向けながらリーザロッテにそう問うた。彼女はその視線をしっかりと見つめ返しながら「ございません」と答えた。
二人の意見を確認した後、ミカエル殿下はおもむろにこう語りだした。
「実はロザリー嬢が階段から落とされるということは彼女から事前に聞かされていた。星読みの力で見たのだという。彼女が星読みを外さないとは聞いていたが、こうして事実となったことに驚いている」
その殿下の言葉に、集まっていた生徒たちからも驚きの声が上がった。ロザリーが星読みの巫女であることは誰もが知っていたが、こうしてその予知を目の当たりにするのは皆初めてであった。
「彼女は『落ちる』とは言わず『落とされる』と言っていたので学園内でも可能な限り護衛をつけていたのだが、その目をかいくぐり事件が起きたことは残念でならない。
そしてその犯人が私の婚約者であったとは、残念でならないよリーザロッテ」
殿下は厳しい視線とともに、リーザロッテにそう言い切った。
「……そう判断された理由をうかがってもよろしいでしょうか?」
殿下の厳しい言葉と表情に、今にも倒れそうな顔になりながらもリーザロッテは殿下にそう言葉を返した。そんなリーザロッテに殿下はこう答えた。
「ロザリー嬢はこれまでも一度も外すことなく未来を言い当ててきた星読みの巫女だ。彼女の星読みに恐らく間違いはないだろう。そしてそんな彼女がリーザロッテ、君は危険な人物であると私に常々言ってきていたんだ。ここからは確認が必要だが、ロザリー嬢、君はリーザロッテに突き落とされるところまで未来を読んでいたのではないかい?」
ミカエル殿下はリーザロッテに向けていたものとは正反対の、まるで愛おしいものでも見るような視線でロザリーに言葉を促した。その視線に頬を染め、殿下にそっと体を寄せながら、ロザリーはこう答えた。
「……はい、実はそこまで見ておりました。けれどもあのリーザロッテ様がそんなことをするとは信じられなくて。それにリーザロッテ様の婚約者であるミカエル様にこんなこと言えなくて。ごめんなさい」
そう言ってロザリーは両手で顔を覆いながら涙を流した。そんな彼女をじっと見つめた後、ミカエル殿下は大講堂に控えていた女性騎士に目線で合図を送った。それを受け、女性騎士が二人壇上へと上がってきた。その流れを見守っていた誰もが彼女らはリーザロッテの身柄を拘束するのであろうと思っていた。
しかし壇上に上がった騎士たちは、殿下に寄り添っていたロザリーの手をつかみ、動きが取れないようにして引きずるように殿下からその体を遠ざけていった。
「ミカエル様!?」
驚きながら大声で叫んだロザリーに、先ほどの甘い視線は夢であったのではないかと思わせるほど表情をガラリと変えた殿下がこう告げた。
「ロザリー嬢、君は侯爵令嬢を貶めるため故意に偽証をした。だから拘束をさせてもらったよ」
「ミカエル様どうして!?私の言葉を信じてくれていたじゃない!?」
「君の星読みは間違いないかもしれないとは言ったが、君の言葉を信じたとは言ってないね」
冷めた視線のまま、ミカエル殿下はそう言った。
「普段の言動から君がリーザロッテをよく思っていなかったのは分かっていたよ。だから君の星読みを受けて念のため君にも護衛を付けたが、リーザロッテにも同じく密かに王家の者を付けていたんだよ。ここ最近特に君の彼女への言動は激しくなっていたから彼女を守るために付けていたが、それがこんな風に役に立つとは思っていなかったよ。
その護衛の者があの日、リーザロッテは君に会わなかったと証言している。被害者でも加害者でもない、王家に仕える第三者の証言がある。リーザロッテが無実なのは間違いないだろう。
君も教会が認める巫女だ。この件は内々で済ませようと思っていたが、君が大騒ぎをして懇意の令息たちを利用してあんなに嘘の噂を広めてしまったからね。事態は既に収拾の付かないところまで広がっていたし、その噂の中にはリーザロッテを貶めるものも含まれていた。だから大勢の前で君の嘘を暴き、私の婚約者の名誉を回復するためこうして一芝居打たせてもらっただけだよ。私は初めから君の言葉など信じていない」
ミカエル殿下はロザリーにそれだけを言うとさっと背を向け、リーザロッテの元に行き彼女の手をそっと取った。
「リーザ、すまない。目的のためとはいえ、君には随分と辛い思いをさせてしまった。証言を引き出すために酷いことも言ってしまった。これらは全て、噂を広げられる前に止めることができなかった私の責任だ。申し訳ない」
ミカエル殿下の言葉を受け、それまで凛とした姿勢を崩さず立っていたリーザロッテの瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。殿下に指でそっとその涙を拭われて初めてリーザロッテは自分が涙をこぼしたことに気付いたようだった。
瞳に涙を溜めたまま、リーザロッテはか細い声で殿下にこう聞いた。
「……では、殿下は私を嫌いになってはいらっしゃらないのですか?」
「君を不安にさせてしまったね。彼女を油断させるために校内では君に距離を取ってしまったが、いつだって私が想っているのは君だけだ。嫌うことなんてありえはしない。リーザ、君は私のただ一人の女性だ」
そう言ってミカエル殿下はリーザロッテを腕の中に閉じ込め、守るかのようにぎゅっと彼女を抱き締めた。リーザロッテは初めはただ抱き締められるままであったが、やがて目に溜めていた涙をぼろぼろと流しながら、殿下の上着をぎゅっと強く握り返した。
壇上には彼女の小さな嗚咽だけが、静かに響いていた。
「ふざけないで!!ミカエルも私のものよ!!そこは私の場所なの!悪役令嬢はとっとと退散しなさいよ!!」
誰もが寄り添い合う二人を静かに見守っていた中、場違いな大きな罵声が大講堂に響き渡った。声の主は怒りに顔を醜く歪ませたロザリーだった。彼女は騎士に押さえつけられながらも、全力で抵抗をしながら叫び続けた。
「あんたも転生者なんでしょ!?勝手にシナリオ改変しやがって!ミカエルもあんなに優しかったのに私にこんな酷いことをするし、レイも私のことも好きになってくれないし、何してくれてんのよ!!あんたさえ、あんたさえいなければ全員私のものだったのに!ふざけんじゃないわよ!!」
名が挙がったことで、近くにいた生徒たちが俺を振り返り視線を寄越してきた。しかし俺にも彼女が何を言っているかはさっぱり理解できなかった。
確かにロザリーは以前に俺に気のあるような素振りは見せていて、俺がそれに答える気がないことを示すとひどく驚いていた。思い起こせば、彼女は自分が選ばれることを、あの日見せたチェスの勝ち筋を知っているような顔をしていたように、確信していたように見えた。必中の星読みの巫女としての自信が彼女をそうさせているのかとも思っていたが、壇上の彼女を見る限り、何か俺たちには理解できない根拠を彼女は持っていたのかもしれないと思った。
そんな意味不明なことを喚き続けるロザリーに、殿下は先ほどよりさらに凍てつくような視線を向けて、こう言った。
「黙れ。君を邪険にせず丁重に扱っていたのは私の意思ではなく、陛下より全ての星読みを当てる巫女をそう扱えと言われていたからだ。しかし君はついさっき星読みを外した。いや、星読みを偽りリーザロッテに冤罪を被せようとした、と言った方が正しいのだろう。
利己のために嘘をつき、星読みの結果を歪める君の予知を信じる人間はもういない。君は自分の持っていた『星読みを外さない巫女』という貴重なカードを自ら溝に捨てたのだよ」
「違う!!あの女がおかしいの!!あいつが私を突き落とすことが真実だったの!正しいシナリオは私なの!」
ロザリーは髪を振り乱しながらそう叫んだ。その目はやはり不相応な自信によって恐ろしさを感じさせるほどギラついていた。追い詰められた人間が苦し紛れに嘘を付いているのではない、彼女の中ではそれが真実なのであろうと思わせる狂気がそこにあるように感じた。
そこまでの反応はさすがに予想していなかったのか、殿下はやや眉を寄せるような表情を見せた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに表情を戻すと、ロザリーを押さえていた騎士に向かってこう命令した。
「……彼女は錯乱しているようだ。連れていけ」
殿下の言葉を受け、女性騎士たちがロザリーを抱えるようにして大講堂から連れて出ていった。大講堂の重い扉が閉まるまで、彼女はリーザロッテへ恨み言を叫び続けていた。
こうしてロザリーの狂言による階段からの落下事件は一応の幕を閉じたのであった。
あの公聴会からロザリーの処遇に関する手続きが終わるまで、リーザロッテは学園を休んでいた。ロザリーは最後までリーザロッテへの恨み言を言い続けていたし、学園にはロザリーを慕っていた人間が多くいたため安全のためとミカエル殿下よりそう頼まれたからだった。
リーザロッテが学園を休み始めてから数日後、事後処理を終えたとのことで、ミカエル殿下が我が家にやって来た。
「リーザ、君には最後まで迷惑をかけたね。やっと全てが終わったので、今回のことを君にきちんと説明をさせてもらいたいんだ」
そう前置きして、殿下は今回の事件のことをリーザロッテと俺に説明をしてくれた。
ロザリーが親しくなった殿下の側近候補の令息たちを足掛かりに殿下に近づいたのは俺も知っていたが、彼女が殿下の側にあれ程近寄れたのには教会からの圧力もあったのだそうだ。
未来を必ず言い当てる巫女の力を盾に、教会側は王家にロザリーをミカエル殿下の伴侶とするよう求めてきたそうだ。星読みの巫女が王妃となれば教会の権威も上がる、そう考えてのことだろう。
彼女の『必ず当たる予知』というのは王家も蔑ろにはできない程の力であった。その時点ではその話を完全にはね除けられる要素がなかったため、ミカエル殿下は彼女を受け入れたように振る舞っていたそうだ。ロザリーが何人もの令息と親しくしていたことも知っていたし、近くに置くことで彼女では王子妃にはなれない何か決定的な理由を見つけたいという意図もあったそうだ。
しかしそうしてロザリーと過ごしていると、彼女が会話の端々でリーザロッテを悪く言うことに殿下は気付いたそうだ。初めは「リーザロッテ様って冷たい方なんですよね」というぐらいの表現だったが、彼女がロザリーの言うような人柄ではないことを指摘していくと、次第に言葉がキツくなり、最後の方は「リーザロッテは悪女のはずだ。悪女でなければならない」といったようなことを言い出したそうだ。その剣幕にただならぬものを感じた殿下が密かにリーザロッテの護衛を手配していたため、今回の冤罪を証明できたそうだ。
「教会の『全ての予知を当てる巫女』というのは強力なカードだった。それを覆すために彼女を油断させるためとはいえ、君には随分辛い思いをさせてしまった。本当にすまなかった」
「いえ、殿下からこうして直接真実を聞かせていただけたのです。私はもう大丈夫です」
リーザロッテはいつものように微笑みながらそう言った。しかし心労が積もっていたせいかその言葉の中には彼女らしくないミスが含まれていた。『もう大丈夫』と言うことは、あの時点で大丈夫ではなかったと白状するようなものだった。もちろん殿下もそのことに気付き、何かを言いたげにしていた。リーザロッテにどう声をかけるべきか、慎重に言葉を選んでいる殿下に俺は助け船を出すことにした。
「夜中にこっそりと泣いていたくせによく言います。カリナも心配していましたよ」
自身に我慢を強いすぎるところは、リーザロッテの変わらぬ悪癖だった。心配されているということを実感すればいい、そう思いながら俺は彼女にそう言ってやった。
俺の目論見通りかそれ以上か、それを聞いたミカエル殿下はリーザロッテの手を掴んで離さなくなってしまった。手袋越しのエスコートは経験があっても、こんなに間近で手を握られるのは初めてなのだろう。しっかりと素手をとられどう対応すればよいか分からず慌てていたリーザロッテは、「君に一人涙を流させてしまっただなんて、私はどう償えばいいだろうか?」と真顔の殿下に言われ更に真っ赤になってしまっていた。
そこからもミカエル殿下は手を握ったまま、リーザロッテをいかに想っているか、心配をしているかを甘い視線と共に切々と語りかけてくれた。目の前で義姉が口説かれているのを見るというのは何とも言いがたいものでもあったが、頬を染めるリーザロッテがここ最近見られていなかった幸せそうな顔をしていたので、多少の居づらさには目をつぶることにした。照れて困った顔の合間に、久しく見れていなかったリーザロッテの心からの笑顔も見ることができた。
本当に終わったのだな、二人のやり取りを見ながら俺は改めてそう感じていた。
その後落ち着いたミカエル殿下から聞いたところによると、リーザロッテに冤罪を被せようとしたロザリーは、学園を退学し国内の北の最果てにある修道院に入ることになったそうだ。彼女のそれまでの星読みの実績を以て何とか今回の件を揉み消そうと教会も彼女にのめり込んでいた一部の令息たちも奔走したそうだが、全校生徒とも言える大勢の人間の前で偽証をし、さらにあれほどの醜態を示していたため王家からの要求を覆すことはできなかったようだ。
こうして意図せぬ方法ではあったが、結果的にロザリーがミカエル殿下の婚約者となる話も流れた。
その後リーザロッテが学園へと戻ってからも、しばらくはバタバタとした日々が続いた。ロザリーに与し、リーザロッテの悪口を大手を振って吹聴していた者の中には、彼らの実家と我が侯爵家との繋がりが断たれたことで後継者から外された者もあると聞いた。侯爵家としての面子もあるが、今やすっかりリーザロッテを大事な娘として扱っている義父がどうやら手を回したらしかった。
あとロザリーに入れ込んでいた令息たちも何人かは領地に帰らされたり、学園に残っても殿下の側近候補から外されたりしていた。『早めにふるい落としができたよね』と殿下は笑っていない顔で笑いながらおっしゃっていたので、この方も今回の件でかなり腹を立てていらっしゃったことが改めて窺い知れた。
リーザロッテはロザリーが修道院に入れられたと聞いてからしばらくは、何かを考え込むような様子を見せていた。しかしミカエル殿下や俺たち家族、カリナたち使用人、学園の友人たち、彼女が自らの力で関係性を築いてきた多くの人たちに支えられ、徐々に元の明るさを取り戻していった。
リーザロッテが回復するまで、殿下は献身的に彼女を支え、守っていた。そして状況が落ち着いてからは見てるこちらが気恥ずかしくなるときがあるほど彼女を溺愛するようになった。
「今の彼女に必要なことをしているだけだよ」と殿下はおっしゃっていたが、そんな二人の仲睦まじさもあって、彼らが学園を卒業するころにはロザリーの件などすっかり風化し、二人は前以上に理想的な婚約者同士として多くの羨望の眼差しを集めるようになっていた。
そんな二人は学園を卒業して二年後、一年の準備期間を経て結婚した。ミカエル殿下の立太子の儀と同時に行われた結婚式は国中が祝福するそれは盛大なものであった。
プラチナの髪を結い上げ、繊細なレースに縁取られた純白のドレスを着るリーザロッテは、身内の贔屓目を抜いても非常に美しかった。
そして何より愛する人に寄り添い、寄り添われる幸せが彼女をより一層輝かせていた。
人々の祝福の中心にいる、穏やかで優しい微笑みをたたえる義姉を見て、俺は小さく涙を流した。