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9  『夢みたあとで』


 誰かに呼ばれている。

 そのせいで、今まで見ていた夢の内容が吹き飛んだ。


 とても幸せな夢を見ていた。

 どんな夢なのかはわからない。けど、それは自分の理想をすべて詰め込んだような、何もかもが都合のいいものだったことだけはわかる。

 もう一度見ようと力をこめるが、どんどん意識がクリアになっていく。


「起きてください。三嶋さん」


 小学生の行進のような不揃いの足音が鼓膜を揺らす。

 止まった電車から大勢の人間が降りているのだった。

「三嶋さん」

「……ああ、ごめん。起きたよ」


 変な体勢で寝てしまったせいだろう、首と腰が痛かった。

 動かすとぱきぱきと音が鳴った。外はだいぶ明るくなっていた。


 部屋のベッド以外で起きるのは久しぶりだった。あの温かくて柔らかくてダニだらけのベッドが、途端に恋しく思えた。


「降りようか」


 駅のホームには、スーツ姿のサラリーマンや、鞄とは別に大きなバッグを持った学生たちでごった返していた。そんななか、小汚い恰好の男と水色のワンピースの少女は人目を引くようで、ちらちらと視線を感じた。

 俺たちは早歩きで人ごみに紛れた。


      ●


 熱々のうどんをすすりながら、向かいの花ちゃんを見る。

 花ちゃんは小盛りのかけそばを行儀よくすすった。何でも好きなものを食べていいと言ったのに、花ちゃんは一番安いかけそばを注文した。俺は大盛りのきつねうどんに、コロッケとかき揚げ、そしてちくわの天ぷらを注文した。


 美味すぎて涙が出てくる。

 空っぽだった心が満たされていく。


 終点で人が多いからなのか、朝早くから開店していて助かった。

 客は他に若いスーツ姿の男が一人いるだけだったが、男は携帯をいじっていて俺たちのことなんか見もしなかった。


 不思議な気分だ。

 現実なのに現実感がない。


 俺がこんなことをしたと知ったら、彼女は悲しむだろうか。それとも、怒るだろうか。あるいは、軽蔑するだろうか。

 どれも正解のような気がした。


「これからのこと、だけどさ」

 互いに食べ終わったところで、そう切り出した。

「花ちゃんは、これからどうしたい?」

 少女が困ったような顔をした。

 いきなりそんなことを訊かれても、という風だった。


 なので俺は「よかったらさ、海を見に行かない?」と提案した。


「海……ですか?」


 それはおぼろげに考えていたことだった。

 水平線の彼方まで何もないような、穏やかな海が見たかった。


「今年は海に行った?」

「海、行ったことないです」

「……そうなんだ」


 小田桐家は家族で海に行くこともなかったのか。

 しかし俺も、海に行ったことはなかった。


 父親が生きていた頃、海に行こうと言われたことがあったが、そのときの俺は小説を書くことにしか興味がなく、その誘いを断った。それ以来、父親は二度と海に行こうとは言わなかった。


 今思えば、あのとき自分の世界を狭めるようなことをせず、素直に行っておけばよかったのかもしれない。


「だから行ってみたいです。見てみたいです、海を」

 強い目だった。

 その強さがあの頃の俺にあったなら、と思った。

「じゃあ決まりだ」


 目標が決まると力が湧いてくる。

 俺は久しぶりに──本当に久しぶりに、希望を胸に抱いた。


 俺たちはこの国の果てへ向かうことにした。そこから海を見るのだ。

 きっとそれこそが、俺たちが求めている景色なのだ。


 電車に乗りこむと、今度はボックス席に座った。

 新幹線や飛行機は使わない。


 これは逃避行である前に、旅なのだから。


      ●


 視界からビル群が消えて、山や田んぼが目立つようになった。

 優しい色合いの景色だ。

 空には雲一つない。


 車内に視線を戻すと、駅を出た頃にはあれだけいた人が、がらりといなくなっていた。電車が揺れる音だけが響いている。車内に殺気や緊張感はかけらもない。


 花ちゃんは向かいで、俺と同じく駅の売店で買った文庫本に目を落としていた。少女は石になったように微動だにしない。移り変わる景色のなかで、そこだけ時が止まったようだ。


 しかしよく見るとわずかに目が動いているし、ページをめくるため、たまにそっと指を動かす。それでちゃんと時が流れているのだとわかる。


 不安そうな様子はない。

 こんな状況でも本が読めるというのは、ある意味すごい。

 俺なんかよりよっぽど肝が据わっている。


 ……今頃、娘がいなくなったことに気づいた両親たちが慌てている頃だろう。おそらく警察に通報しているだろう。そして駅の防犯カメラや目撃証言などをもとにどんどん追っ手がやってきて、やがて俺は捕まるだろう。

 だが、その前に俺たちは果ての海へ辿り着く。


 花ちゃんが垂れた髪を後ろへかき上げた。

 一瞬白い首すじがあらわになり、見てはいけないものを見てしまったように感じた。


 手もとの小説に目を落とす。

 俺だったらどんな風に書くだろうか、と思った。

 どうしてそう思ったのか。


 書けるはずもないのに。

 書けなかったから、今ここにいるのに。


 まったく救いがたい。

 あれほど痛い目にあったのに、まだ懲りていないようだ。


 受け入れなければいけない。人生は思い通りにはならない。お前のような凡人は身の程をわきまえて生きていかなければいけない。

 そう自分に言い聞かせる。

 何度も何度も、まるでぐずる子どもを叱る親のように。


 やがて花ちゃんが長い息を吐いた。

 どうやら読み終わったらしい。


 心なしか、目がきらきらしていた。

「面白かった?」

 彼女は本を閉じて「はい、とても」と言った。「買ってくださって、ありがとうございました」


 しかし次の言葉が出てこなかった。

 話したいこと、訊きたいことはたくさんあるはずなのに、それらがまったく出てこない。言葉が便秘を起こしているようだ。

 カーブに入り、体が傾く。

 俺は尻に力を入れて、バランスを取る。


「綺麗な景色ですね」

 花ちゃんが今さらそんなことを言った。読書に集中していて、景色なんて見ていなかったのだろう。


 花ちゃんも外にいるより家で本を読んでいるほうが好きなタイプだろう。

 それを否定する気はないし、俺もそうだったから気持ちはわかる。


 だが、それではいずれ行き詰まるだろう。


 本から得られる刺激はある。

 しかし本以外から得られる刺激のほうが、きっと大きい。


「花ちゃん。次の駅で、ちょっと降りてみない?」

 少女は驚いたようだったが、うなずいてくれた。


 次の駅で降りるといっても、何があるかはわからない。もしかしたら何もないかもしれない。大した名所も名産物もなく、変わり映えのしない景色が延々と続いて退屈な時間になるかもしれない。

 でも、それでいい。それでこそ人生だ。


 次の駅の名前が上から告げられた。棒読み気味の声も相まって、外国にいるような気になった。


 二人して立ち上がる。

 さて、ここには何があるやら──。


 そこで気づく。

 俺はどうやら、わくわくしているらしかった。


 扉が開くと、軽やかにホームへ降りた。

 隣で花ちゃんが、小さく笑った。


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