8 『今宵エデンの片隅で』
部屋はカーテンの隙間から差し込む月明りで薄暗い。
この部屋で俺は人生の大部分を過ごしてきた。
しかし何の思い出も、思い入れもない。
ここはただ時間を無駄遣いしただけの場所だ。
扉を開けて、同じように薄暗い廊下へ出た。
階段が軋む。その音に驚いたが、寝ている母親には届かなかったようだ。息を吐き、静かに降りていく。
和室はカーテンが開けっ放しだったので、月明りだけでも十分に部屋のなかが見えた。
奥にあるタンスの前にかがむ。そこには主に母親の服などが収められているが、俺はその最下段をそっと開けた。
きちんと畳まれた服のさらに奥──小さな黒い金庫があった。
金庫を掴み、月明りにかざした。
ダイヤルを回し、四桁の暗証番号を入力する。
番号は、俺の誕生日だ。
金庫が開いた。そこには目もくらむような大金──はなかったが、今の俺には十分すぎるほどの金が入っていた。俺は約二十枚の一万円札を、すべてズボンのポケットにねじこんだ。
玄関で靴を履きながら思う。
糞みたいな人生だったと。
自分は何のために生まれてきたのだろう、と。
いや、理由があって生まれてくる人間なんていない。
きっとみんな、その理由を見つけるために生きていくのだ。
俺は見つけられなかった。
それだけの話だ。
音を立てないよう、扉を開ける。
むわっとした夜の空気に包まれた。
遠くで小さく、蝉が鳴いていた。
●
小田桐家に明かりはない。
他の家々と同じように、生気を感じない。
家の横に回り、柵に足をかける。
そして一気に体を持ち上げ、一階の屋根に上る。
腕が痛い。ほんの少し力を出しただけなのに、異様に疲れた。
足を滑らせないよう、ゆっくり立ち上がる。視線が高くなるだけで、景色が一変した。怖いけれど、不思議と気持ちよかった。
屋根の上を、腰を低くして沈む。
あの部屋の前まで来た。カーテンが閉められていた。
俺はこの部屋の主にだけ聞こえるよう、静かに窓を叩く。
失うものなど何もない。
それがこれほど気楽だとは知らなかった。
夢や希望を捨てたとき、人はかくも楽しい気持ちになれる。
半端にそれらを持ってしまうから、生きるのが辛くなるのだ。
そうして窓を叩き続けていると、カーテンが小さく揺れた。
カーテンの隙間から、少女が顔を覗かせた。
花ちゃんが、とても驚いたような顔をしていた。彼女の不安を和らげようと、俺は微笑む。しかし引きつって不気味な笑みになったかもしれない。
ゆっくりと窓が開けられた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「はい。……おじさんこそ、お元気でしたか?」
なぜとか、どうしてとか、花ちゃんはそういうことを訊かなかった。
「まあ、何とかね」
俺は元気だった。今日も元気だったし、きっと明日も元気だろう。
「明日は、学校?」
花ちゃんはすべてを諦めたような顔をした。
それは少なくとも、夏休み最後の日に小学生がしていい顔ではないだろう。
「学校、行きたくない?」
花ちゃんは静かにうなずいた。
「じゃあ、俺と一緒に逃げよう」
俺は手を差し伸べた。
俺は花ちゃんに、そんな顔をして生きてほしくない。
花ちゃんは俺の手を見た。
考えているのだろう、この手の意味を。
この手を取ることの意味を──。
「逃げてもいいんだよ」
逃げて、逃げて──逃げまくった先に見える景色も、きっとあるから。
それを一緒に見に行こう。
「ありがとうございます」
花ちゃんは言って、俺の手を取った。彼女の手は小さくて、柔らかくて、温かかった。
「俺のほうこそ、ありがとう」
●
町は死んだように静かだ。
街灯がちかちかと点滅していなければ、時が止まっているのかと思うほどだ。
しかしそんな静寂も、駅へと続く大通りに出たら、少しずつ破られていった。
新聞配達のバイクや大きなトラックが、たまに横を走っていく。遠くに見える山々の稜線が淡く輝きはじめていた。澄んだ空気を吸い込むと、今まで感じていた体の重さが嘘のように消えていった。
互いに手ぶらだった。
自由だと感じた。
電柱の下で蝉が死んでいた。
終点までの切符を買い、ホームのベンチに座る。
俺たちの他には誰もいない。
花ちゃんがあくびをした。
俺たちは無言のまま始発を待った。
やがて抑揚のない音声が流れ、電車が大きな音を立てて滑り込んできた。
乗りこむと、適当な席に座った。さっきまでの固いベンチとは違って柔らかい。電車がゆっくり速度を上げていく。
色々なことが頭のなかでぐるぐると回転している。
電車が揺れる。
その規則的な揺れを感じていると、まぶたが重くなってきた。
窓の外を見ると、朝日が空を照らしはじめていた。