7 『涙のイエスタデー』
インターホンを押す。変な音が鳴る。
「いらっしゃい」
花ちゃんが笑顔で俺を迎えた。
しかしその笑顔はどこか嘘っぽく、笑顔の皮を張りつけただけのように見えた。
「暑かったでしょ。早く上がって」
今にも逃げ出したい気持ちを抑え、家へ入る。扉が閉まると同時に、違う世界が滅びたような気がした。
リビングに通され、ソファに座る。
昨日と同じように、また甘い匂いが漂っている。
「あなた」
花ちゃんが廊下で言った。
その声は完全に身内へのものだった。
少し経って階段を降りてくる音がした。
音は大きいものと小さいものがあった。
父親と娘が現れた。
男は普段着でも不快な印象が変わらない。
俺は男が持っているものに目を奪われた。
男が向かいに座る。娘はその横に座った。空気は甘いのにどこか淀んでいるように感じた。
「昨日はみっともないところを見せてしまい、申し訳ありませんでした」
男が言う。しかし申し訳なさは感じられない。男も申し訳なさそうな顔の皮を張りつけただけのようだった。
「いえ、別に……」
「お恥ずかしい限りです」
男は苦笑すると「そう言えば花江から聞いたのですが、三嶋さんはプロの小説家でいらっしゃるとか」と言った。
「え、ええ、まあ」
「プロの小説家とお話し出来て、花も喜んでいたと聞きました。ありがとうございます」
少女を見る。少女は俯いて、暗い表情をしている。
何かに怯えているようでもあった。
「ですが」と男の声が低くなった。「まさか娘がこんな小説を書いているとは思いもしませんでした」
男はテーブルの上にノートを置いた。
「これを花に書かせたのは、あなたですね?」
前に皿とコーヒーが置かれた。皿の上にはパウンドケーキが載っている。「砂糖とミルクはいる?」と花ちゃんが言う。言い方があまりに普通だった。どうして花ちゃんはこんなときに普通にしていられるのだろう。
花ちゃんも娘の小説を読んだのではないのか?
だったら、そんな態度でいられるはずがない。
花ちゃんは男の前にもケーキとコーヒーを置いた。男のほうには砂糖もミルクも置かなかった。
「あなたがそそのかしたんだ」
「……違います」
俺は何もしていない。
ただ、小説を書くのは楽しいと嘘をついただけだ。
その後はこの少女の才能だ。
「失礼ですが、三嶋さんはこれまでにどんな作品を?」
言葉が出てこない。
何も答えられない。
空っぽだ。
俺には何もない。
「花江。きみの友達は、やはり小説家ではないようだよ」
「……そうなの? なっちゃん」
その顔を俺は一生忘れないだろう。
それは初恋の相手に、一番向けられたくない顔だった。
俺はうなずく。
この瞬間、俺と花ちゃんは対等ではなくなった。
男がケーキを食べ、コーヒーをすする。甘い匂いがして美味しそうだ。いや絶対に美味しい。早く食べたいと胃が叫んでいる。
だが食べられない。
俺にこのケーキを食べる資格はない。
「娘がこんな小説を書いていたことには驚きました。これについては家族で話し合わなければいけません」
面倒事が増えて厄介といった風だった。
「だからあなたには、これ以上うちに関わってほしくない」
冷たい顔が、そこにあった。
「もう二度と、娘には会わないでください」
これは家族の問題だから、部外者のお前は引っ込んでいろ。そう言っているのだろう。
まったくその通りだ。
正論すぎて何も言い返せない。
俺なんかこのまま消えたほうがいい。
そしてこれまでと同じように引きこもって、小説を書くふりをし続けながら、いつの日か自殺するのがお似合いだ。
こんな人間は花ちゃんに悪影響しか与えない。
花ちゃんの人生に俺はいらない。
だけど、俺が綺麗さっぱり消えたとして、花ちゃんはどうなる?
これからも小説が書けるのか?
おそらく書けはするだろう。
誰でも小説らしきものは書けるのだから。
だがそれは小説とは似て非なる何かだ。
文章の羅列と小説は違う。
果たしてそれを教えられる人間がどこにいる?
その役目は、編集者の父親にも読書家の母親にも、きっと担えない。
家族で話し合う?
それが出来ないから、花ちゃんは小説を書くしかなかったんじゃないか。
「もっと、考えろよ」
「何をですか?」
「もっと……花ちゃんのことを考えろよ!」
「考えています。考えているから、こうした場を設けているんです」
「考えてない! お前がそんなだから、花ちゃんが苦しんでるんだろうが!」
「なっちゃん、落ち着いて──」
手が伸びてくるが、俺はその手を振り払った。
「うるさい! 何もわかってないくせに!」
俺は見た。花ちゃんの曇った表情を。影の差した横顔を──。
あれが旦那が帰ってきたときに妻がする顔か?
「もっと幸せになれよ……」
「あなたには関係ありません」
「関係ある!」
ないかもしれない。いや、ないだろう。
だが、あると言わなければすべてが終わってしまう。
「なあ頼むよ。花ちゃんを笑顔にしてくれよ。ちゃんと幸せにしてくれよ」
涙と鼻水がこぼれた。
「なっちゃん……」
「幸せの形はそれぞれ違います。どうしてそれをあなたに決められなければいけないのですか?」
「あんた、頭おかしいよ」
「頭がおかしいのはあなたのほうです。失礼ですが三嶋さん、お仕事は何を?」
「……何も」
「ですよね。そうだと思いました。社会経験が乏しそうですから。するとご結婚もされていませんよね。だからわからないんです。家族のために働くということが。僕は家族の幸せを願い、日々仕事をしています。どれだけ辛くても、家族のことを想って頑張っています。もちろん家に帰れないこともあります。ストレスから、つい妻と言い争いをしてしまうこともあります。ですが僕は花江の夫であり、花の父親です。二人の幸せを誰よりも考えています。その僕の前でよくそんなことが言えますね。あなたこそ、二人をどれだけ理解しているのですか? 僕たちが積み重ねてきた時間は、あなたごときに否定されるものではありません。もう一度言います。あなたには、関係ないんです」
「でも、それは……」
「どれだけ立派なことを言おうが、あなたが嘘をついて二人を騙していた事実は変わりません」
目の前が真っ暗になった。
俺の負けだった。
こんなにも絶望的に敗北したのは生まれて初めてだ。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
──なりたい自分になれていないからだ。
もしなりたい自分になれていたら、こんな激痛を伴う劣等感を味わうこともなかったのだ。
もう、なるしかなかった。
「……わかったよ」
「ご理解いただけましたか」
「じゃあ、嘘じゃなければいいんだな?」
「はあ?」
俺は立ち上がって叫んだ。
「絶対になってやる! なってやるよ、小説家に!」
俺は家を飛び出した。
「なっちゃん! 待って!」
花ちゃんの声がしたが無視した。
太陽の下を全力で走る。
止まらない涙と鼻水と汗を手で拭い続けた。
●
パソコンを立ち上げてワードを開くと、真っ白な紙が現れる。
ちかちかと、一文字めのところが点滅している。
キーボードに指を置く。
十本の指が、いつでも行けるぞと意気込む。
しかしいつまで経っても指は動かない。
視界がぼやけていく。
息が苦しい。
何から書けばいいのかわからない。
頭も真っ白になってしまう。
死にそうなくらい痛くて悔しいのに、一文字も書けない。
声にならない声が漏れた。
俺は頭を抱えてのたうち回った。