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6  『As the Dew』


 リビングには体が溶けてしまいそうなほど甘い匂いが漂っていた。


「花は?」

「……すぐ降りてくると思うよ」

「そう。座ってて、お茶入れるから」


 テーブルに案内された。幸せな匂いを堪能していると、少女が降りてきた。俺はとっさに目をそらした。「手を洗ってきなさい」と言われ、少女は「うん」とうなずいた。普通の親子のやりとりだった。

 だが今の俺には、それがすべて作り物のように見えてしまう。

 洗面所から戻ってきた少女が、俺の向かいに座った。


 クッキーと紅茶が運ばれてきた。

「口に合えばいいんだけど」

 花ちゃんが照れ臭そうに笑う。


 震える指でクッキーを掴み、食べた。

 軽快な音が口のなかで生まれた。


 その瞬間、天使が降りてくるのが見えた。ついにお迎えが来たように思えた。こんなに美味しいものを食べたのは、生まれて初めてだった。

 もしかしたら俺の人生のピークは、ここなのかもしれない。ならば晩節を汚すより、ここですっぱり終わらせたほうが美しいかもしれない。


 果たしてこれ以上の幸せが、今後の人生で訪れるのか?


 少女の小さな口も動いている。少女にとっては、母親のクッキーは日常のものなのだろう。

「美味しい?」

「うん」

 母親からの問いに、娘は答えた。

「ならよかった」


 あの物語のなかで出てきた両親は、娘が出す助けてというサインにも気づかない、ひたすら無力な存在として描かれていた。父親は仕事ばかりで帰ってこず、たまに帰ってくると母親と喧嘩ばかりしていた。

 母親は娘の理解者のように見えて、その実、親子とはこうあるべきだという理想を圧しつけるだけの存在として描かれていた。

 だから少女は、誰にも頼れず、最悪の選択をしてしまうのだ。


 現実と創作を混同してはいけないが、物語は機械が書いているわけじゃない。

 血の通った人間が書いている以上、どうしたって周りの環境に左右される。


 実際のところはわからない。

 少女が学校でひどいいじめを受けていて、それを誰にも相談出来ず、悩んでいるかどうかなんて──。


 ただ一つわかるのは、母親は知らないということだ。

 娘があんな小説を書いてしまうほどの衝動を抱えていることを。


 この子は何を考えているのだろう。

 世界がどんな風に見えているのだろう。


 一流の書き手は見えている景色が違うという。どう違うのだろう。それは俺には決してわからない感覚だ。

 世界は、見たままにしか見えない。


「二人で何の話をしてたの? ずいぶん楽しそうだったけど」

「本の、話をね」嘘は言っていない。「そうだよね、花ちゃん?」

 少女はうなずき、俺をじっと見つめた。

「そうなんだ、何の本の話を……」


 すると玄関の扉が開く音がした。

 さらに靴を脱ぐ音、廊下を歩く音──。

 そして俺は、その音がした瞬間、花ちゃんが悲しそうな顔をしたのを見てしまった。音はどんどん近づいてくる。リビングの扉が開いて現れたのは、スーツ姿の男だった。


「ただいま」


 背が高く、清潔感のある顔立ちをしていた。いかにも仕事が出来そうな風だった。しかしなぜかその姿が、生理的に受けつけなかった。


「おかえり」

 花ちゃんが言った。顔に差した影は消えていた。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ。仕事が一段落したから帰ってきたんだよ」

 それに花ちゃんは「そう」とだけ返した。

 男は何か言いたげだったが、それを飲み込んだのがわかった。


「その人は?」

 鋭い視線を向けられて、体が固まった。

「友達」

 花ちゃんは面倒そうに言った。喧嘩を売っているような態度だった。こんな彼女を見るのは初めてだった。

 男は小さく息を吐いて「失礼しました。花江の夫です」と素性を明かした。


「どうも……三嶋です」

 男は、俺を上から下まで舐めるように見て「ごゆっくり」とにこやかに言った。まるで値踏みされたようだった。


「楽しく話してたんだから、あなたは二階に行ってて」

 花ちゃんがあからさまに刺々しく言った。

「何だよ、その言い方」男の声に怒りが宿った。「疲れて帰ってきて、どうしてそんなことを言われなくちゃいけないんだよ」

 しかしそれを花ちゃんはあざ笑うように「疲れて? 好きでやってることでしょ。自分だけが辛いなんて思わないで」と言った。


「ああ、わかったよ」男も相手を見下すように言った。「邪魔者は大人しく消えてやるさ。友達と仲良くするのはいいけど、程々にしろよ?」

「どういう意味?」

「どういうも何も、そのままの意味さ。母親が男と遊んでばかりだと、娘の教育にもよくないだろ?」

「なっちゃんはただの友達だから。変な想像しないで」

 花ちゃんが椅子から立ち上がる。

「いつも家にいないのに、こういうときだけ父親面しないで。あなたがいないほうが花の教育に悪いでしょ」

「……仕事が忙しいんだよ」

 男が大きく舌打ちをした。


 互いにいらつきを隠そうともしていなかった。

 俺はどうすればいい? 藁にもすがる思いで少女を見た。

 しかし少女はこの状況においても、普通にクッキーを食べていた。


 二人の言い争いは止まらない。

 暴力こそないが、殴る蹴るだけが暴力ではない。言葉の暴力というものもある。殴る蹴るだけなら体が傷つくだけで済む。だけど言葉は心を傷つけるから、怖い。

 二人とも、俺や娘のことなど目に入っていないようだ。


「じゃあ、俺は帰るよ!」


 俺は早足でリビングから出て行く。花ちゃんに引き留められるが「いや、実は締め切りが近くてさ。小説、書かなきゃ……」と言った。


「ありがとう。クッキー、美味しかった」


 皿の上にはまだクッキーが残っている。

 ぜんぶ食べられないのが無念だった。


 俺は小田桐家から飛び出すと、太陽の下を走った。少しでも早くあの場所から離れたかった。

 だがすぐ走れなくなる。足を止めると汗が噴き出てきた。後ろを振り返る。花ちゃんはいない。それにほっとした自分を見つけてしまった。


      ●


 猛烈に腹が痛い。

 腹のなかで何匹ものスズメバチが暴れているようだ。

 痛みのあまりベッドの上で震えることしか出来ない。


 腹が減りすぎて公園のゴミ箱から漁ったハムサンドを食べたのがよくなかった。

 空腹は一時紛らわせたが、その代償は大きかった。


 扉が荒々しく叩かれた。

 またいつものが始まったと思い、布団を深く被った。

 しかしすぐ音が止んだ。


「電話よ、あんたに」

 暴言以外の言葉を聞いたのは久しぶりだった。

「……誰から?」

「小田桐さんって方よ」

 花ちゃんが俺に何の用だ? いや、花ちゃんではなく旦那という可能性もある。番号は彼女が知っているのだから。

「どっちの小田桐?」

「知らないわよ、そんなの。早く出なさい」

 不機嫌そうに言うと、母親は降りていった。


 力を振り絞り、体を起こす。

 更なる痛みが走る。心が折れかけたが、電話に出なければいけない。

 歯を食いしばり、一歩ずつ進む。進むたびに、目の前がちかちかと点滅する。部屋を出て、落ちないよう、ゆっくりと階段を降りていく。


『今日はごめんね。みっともないところ見せちゃって』

 電話の主は花ちゃんだった。

 窓の外を見ると、だいぶ暗くなっていた。

『うちの人も、申し訳ないって』


 旦那の顔が浮かぶ。しかしどうしてか、あの男が誰かに謝っている姿がまったく想像出来なかった。

 俺なんかに謝るくらいなら、娘に謝ってほしい。

 両親の喧嘩を見せられて、子どもが何も感じないと思っているのか?


 そんなだから、娘があんな小説を書いてしまうのだ。

 俺は人生で初めて花ちゃんに苛ついた。


『それでお願いなんだけど、明日、またうちに来てくれないかな?』


 背後で床が軋む音がした。

 振り向くと、廊下の暗闇のなかに人影があった。

 母親が、俺のことをじっと見ていた。

 その目はまるで、家族を殺した犯人を傍聴席から睨む遺族のようだった。


「明日?」

 声が裏返った。

『どうしたの?』

「いや、何でも……」

 視線を前に戻した。


『うちの人がね、明日仕事が休みなんだ。それで、なっちゃんに話したいことがあるんだって』

「話したいこと?」

 腹痛と不気味な目線のせいで、話に集中出来ない。


 旦那が俺に何の用だ。それなら家に呼ばなくても電話でいいのではないか?

 花ちゃんが『明日、大丈夫?』と言った。

 質問の答えになっていなかった。


 嫌な予感がした。

 だが花ちゃんの声は否定を許していなかった。


「……大丈夫だけど」

『よかった! 明日もお菓子を用意しておくね!』


 花ちゃんの笑顔が、電話ごしにもわかった。


『だから、絶対に来てね?』


 電話を終えると、重力が何倍にもなったように感じた。どうしてそう感じたのだろう。明日も花ちゃんの手作りのお菓子が食べられるのだ。それは喜ぶべきことのはずだ。


 ……部屋に戻ろう。

 戻って、明日にはこの腹痛が収まっていることを願おう。

 そして階段を上がろうとしたら「待ちなさい」という声に足が止まった。


 もちろん止まる必要はない。そんな声は無視してさっさと部屋に戻ればいい。

 しかしそれは《母親の声》だった。

《母親の声》に逆らえる子どもは、この世にいない。


「最近ふらふらと出歩いてるみたいだけど、どこ行ってるの?」

「どこだっていいだろ」

 小さく舌打ちをした。


「よくないわよ。あんたみたいな辛気臭い男が外を歩いてたら、警察に通報されるじゃないの。止めてよね、警察のお世話になるのだけは。恥ずかしいから」

「用がないなら戻るぞ」

 俺は今度こそ階段を上がろうとした。


「あんた、誘拐とかしてないでしょうね?」

「は?」

 言っている意味がわからない。

「引きこもりのあんたが外に出る理由なんて、それくらいしかないじゃない。あんたみたいなのが小学生を誘拐して、ニュースになるのよ」

「……お前に俺の何がわかるんだよ」


 凡人として生きることを疑わない人間に、俺の気持ちがわかるものか。


「何よその口の聞き方は!」

「うるせえクソババア!」

「誰のおかげで生きてられると思ってるのよ!」

「親が子どもを養うのは当たり前だろ! 偉そうにすんな!」

「じゃあ今すぐ死になさいよ!」

「ああ死んでやるよ! お前も道連れにしてやるけどな!」


 隣の家まで聞こえているかもしれない。

 だが関係ない。一度剣を抜いたら、どちらかが倒れるまで戦わなければいけない。


「あんたのせいで私がどれだけ苦労してると思ってるのよ! あんたなんか産むんじゃなかったわ!」

「誰も産んでくれなんて頼んでねえよ!」

「この疫病神! 何でお父さんが死んで、あんたみたいなクズが生きてるのよ!」

「そんな風に育てたのは誰だよ! お前だろうが!」


 俺が悪いことくらい、わかっている。

 でもそれを認めるわけにはいかない。

 認めてしまったら、俺は死ななければいけないから。


「小説を書いてるなんて言ってるけど、いつになったら小説家になるのよ!」

「それは……」

「どうせ何も書いてないんでしょ! わかってるのよ! 才能なんかないんだから、いい加減諦めて働きなさい!」

「名作を書くのは時間がかかるんだよ! いいから黙ってろ!」


 階段を駆け上がり、部屋に飛びこんだ。

 母親が何か叫んでいたが、布団を被って耳をふさいだ。

 それで何も聞こえなくなった。


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