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5  『百年の孤独』


 花ちゃんに続いて階段を上る。

 前を行く小さなふくらはぎを見ていたら、足を踏み外して転びそうになった。


 階段にも本棚が置かれていた。本の量は上がるたび増えていき、入りきらなかったのだろう本が二階の廊下に積まれていた。


 通された部屋は本に囲まれた、本好きによる本好きのための空間だと一目でわかった。

 可愛らしいベッドと勉強机がなかったら、とてもじゃないが女の子の部屋とは思えないだろう。部屋のなかに本があるというより、本と部屋が一体化していると表現したほうがよさそうだ。


「好きなところに座ってください」

 言われたので床に正座した。絨毯が柔らかかった。

 そして部屋を見回し、あらためてその異様さに驚く。俺も子どもの頃からよく本を読んでいたが、ここまで凄まじい量ではなかった。


「すごい量だね。よくお小遣いが足りるね」

「本だけは、お小遣いとは別なんです」

 本だけは好きなだけ買っていいらしい。とんでもない教育方針だった。

「お父さんは何をしている人なの?」

「編集者をしています」


 なるほど、それなら土壌は豊かだ。

 人の資質は生まれた環境に大部分を左右される。誰もが誰かのようになれるものではない。俺が納得していると、何やら照れ臭そうに「目を、つぶってください」と言われた。

 また突然のことに戸惑うが、俺はそのお願いというより命令じみた言葉に、素直に従った。


 世界が闇に包まれた。

 何をされるのだろう。期待もあったが、不安のほうが遥かに大きかった。俺はさらに強く目をつぶる。本棚をいじる音が聴こえる。何冊か抜き出しているのだろうか。


 そして花ちゃんが目の前に座った。

 静かな息遣いを衣擦れの音で、それがわかった。


「目を開けてください」


 力を抜くと、目に光が差し込んだ。

 花ちゃんが、やはり俺と同じように正座をしていた。これから将棋の対局でも始まるようだった。

 目を下にやると、花ちゃんが何かを持っていた。


 ノートだった。

 花ちゃんはそのノートを差し出して、言った。


「小説を書きました。どうか、読んでください。お願いします」


      ●


 人は誰でも一作は小説が書けるという。


 自分のことを書けば、それだけで一冊の本になるかららしい。


 確かにそれは正しい。生きていれば必ず何かはあるからだ。学校で、職場で、家庭で、あるいは旅先で……。何もないはずがない。何もないと思っていても、そこには《何もない》があるのだから。


 自分語りは、物語になる。

 しかし、だからと言って、誰もが小説を書けるわけではない。


 誰が最初にそんなことを言ったのかは知らないが、その誰かはきっといい死に方はしなかっただろう。


 どうしてそんな無責任なことが言えるのだろう。

 歯切れのいい言葉を並べて、夢を見せるようなことを言って、何様のつもりだろう。


 書きたいと思って書けるものではない。

 新しい世界を一から作るのだ。

 それは、普通の人間には決して出来ないことだ。


 だから必要なのだ。エネルギーが。

 自分を前へと進ませる原動力が──。


 花ちゃんの字は綺麗だった。パソコンで書いたように、とても読みやすかった。難しい漢字も使いこなしていて、ませた子だなと思うより、物知りな子だなと思えた。


 基本的には、読書量に比例して語彙は増えていく。

 十歳の子どもが書いた文章とは思えなかった。


 花ちゃんとちらと見る。彼女はじっと俺を見つめていた。彼女の拳が膝の上で握られていた。

 俺はノートに視線を戻す。


 きっとこの子は、これまで相当のエネルギーをため込んできたに違いない。

 それを今回初めて、小説という形で放出したのだろう。


 小説を書きたいという衝動はダムの決壊に似ている。

 表現欲はもう限界だと思ったところから一気に噴出するのだ。


 間違いなく才能がある。

 これを読んでそう思う。


 もちろん拙いところはある。決して、完璧な小説ではない。しかしこの小説には細々とした欠点をすべて吹き飛ばすような熱がある。作者の想いがこれでもかと詰め込まれている。

 瑞々しい衝動が、一文一文から伝わってくる。

 震えを禁じ得ない──。


 だが、これを小説と認めることに、抵抗もあった。


 学校でいじめられている少女が、ある日復讐を決意し、いじめていた相手や、見て見ぬふりをしていたクラスメイトを全員、惨たらしい方法で殺害した後、自分も死ぬという物語だった。


 少女はそうするしかなかった。

 頼れる人が、誰もいなかったから。

 誰も少女のことを理解しようとはしなかったから。


 少女はいつも一人だった──。


 ノートを閉じる。静かに息を吐く。全身に疲労感がのしかかっていた。それはいい読書をした後の心地よい疲労感とはまったくの別物だった。


 どうして彼女は、こんな小説を書いたのだろう。


 クラスメイトを惨殺していくシーンは圧巻の一言だった。特にラスト数ページは息をするのも忘れた。

 いったいどれほどの衝動を抱えていたら、こんな文章が書けるのだろう。

 花ちゃんは口を一文字に結んで、何かを待っているようだった。


 言いたいことはたくさんある。

 訊きたいこともたくさんある。

 でも何から話せばいいのかわからない。


 そして何とか口を開きかけたそのとき、扉がノックされた。


「花、なっちゃん。クッキーが焼けたよ」


 すると少女が「隠してください」と小声で言った。俺はその意味を瞬時に理解し、ノートを隠せる場所を探した。


「どうしたの? 入るよ」

 扉が開かれた。そして花ちゃんは俺たちを見て首を傾げた。

「何してるの?」

「……ダンゴムシの、モノマネ」


 どう見てもダンゴムシのモノマネをしているようにしか見えないだろう。いや、苦しいか。さすがにその言い訳はどうかと自分でも思う。しかしそこに援護があった。


「お上手ですね!」

「そうだろう? おじさんはダンゴムシのモノマネが世界一上手いんだ!」

「はい! そっくりです!」


 わざとらしく笑う俺たちに「楽しそうだね」と言って花ちゃんは部屋から去った。

「早く降りてきてね」

 階段を降りる音が響く。

 音が聴こえなくなると、俺はダンゴムシのモノマネをやめて、腹からノートを取り出した。


「……ありがとうございます」

「隠してるんだ? 小説書いてること」

 ノートを受け取り、少女がうなずく。


 俺の腹が鳴った。

 もう空腹が限界だった。

「じゃあ、下に降りようか」

 立ち上がり、部屋から出て行こうとする俺に、花ちゃんが言った。


「……どうでしたか?」


 とても真剣な表情だった。そして俺の言葉を聞くまで絶対に逃がさないという鉄の意志を感じた。

 もちろん、逃げるつもりはない。

 この表情からは、絶対に逃げてはいけないと思う。


 しかし俺はどこまでも臆病で、卑怯者だった。


「面白かったよ」


 俺は花ちゃんの目線から逃れるように、部屋を後にした。

 階段を駆け降りる音は、彼女にも聴こえていただろう。


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