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4  『世界はまわると言うけれど』


 パソコンを立ち上げ、ワードを開くと、真っ白な紙が現れる。

 ちかちかと、一文字めのところが点滅している。


 キーボードに指を置く。

 十本の指が、いつでも行けるぞと意気込む。


 全身に力を入れる。しかし指はまったく動かない。

 何か書けばそれが第一歩になるのに、書けない。

 何を書けばいいのかわからない。

 紙と同じように頭が真っ白になってしまう。

 目の前に大きな壁があるようだった。


 パソコンを閉じる。今の俺にとって小説を書くという行為は、苦痛以外の何物でもなかった。それは現実を忘れられるものだったのに、いつしか現実を思い知らされるものになっていた。


 気づけばベッドに横になっていた。

 何度めかもわからない深いため息が漏れた。俺は頭から布団をかぶった。


      ●


 目を覚ますと、まず物音を確認する。

 足音、扉の音、水の音、テレビの音──そのすべてが聞こえなければ、部屋の外に出られる。

 恐る恐る部屋から出て、トイレへ向かう。

 床が軋み、その音に心臓が跳ねた。

 もしまだ母親が家にいて、今の音を聞きつけたらと思うと、身がすくむ。


 トイレを済ませ、階段を下りる。

 リビングにも人の気配はない。止めていた息を、静かに吐く。何か食べようと、キッチンへ向かう。


 そこで思考が淀んだ。

 初めそれは、単なるマグネット式の飾りに見えた。

 しかしよく見ると、その飾りには鍵穴があった。


 どうして冷蔵庫のすべての扉にこんなものがくっついているのだろう、と考えて、そしてその意味に気づいた瞬間、自分の血の気が引いていく音を確かに聞いた。

 俺はその飾りのあいだに爪を入れ、引きはがそうとするが、飾りは強力な接着剤で固定されているように、びくともしない。これ以上やると爪のほうが負けてしまいそうだ。


 脳が警鐘を鳴らしていた。

 どうやら鍵を使わない限り、この飾りは取れないようだ。

 そしてこの飾りを取らない限り、冷蔵庫は開けられないようだ。


 とりあえず水を飲む。それで腹は膨れたが、こんなものは一瞬だ。俺はキッチンを行ったり来たりする。パンでもお菓子でもいい。何か、何かないか。


 しかし母親の俺対策は完璧だった。

 食べ物は何一つ見つからない。


 事態は俺が思っているより深刻なのかもしれない。

 これはもう、母親からの宣戦布告に等しかった。


 俺は思考を回転させる。

 ぎこちない回転だったが、何とか回った。


 そして一つ、逆転の秘策を思いついた。

 俺は急いで部屋に戻り、このあいだもらったメモを取ってきた。


 電話に手を伸ばす。

 そこで手が止まった。しかし止まったのは一瞬だった。


 震える指で、俺は一つ一つボタンを押していく。

 呼び出し音が鳴る。胃が痛い。この痛みは空腹だけが原因ではないだろう。


『はい。もしもし』


 花ちゃんの声がした。

 俺は意を決して口を開いた。ちゃんと話せているだろうか。ちゃんと伝わっているだろうか。不安でいっぱいだった。だがその不安は杞憂だったようで『大丈夫だよ』と彼女は快諾してくれた。

 今日は花ちゃんも、そして娘の花ちゃんも家にいるらしい。

『じゃあ、待ってるね』


 電話を置くと、長い息を吐き、俺は小説家だ、と暗示をかけた。何度も、何度も、その言葉を繰り返した。


      ●


 インターホンを押すと、相変わらず間抜けな音が響いた。シャツの袖で汗を拭いていると、花ちゃんが出てきた。

 お互いそれなりの年齢になったのに、彼女は不思議と若々しく見える。

 それはきっと、歩んできた人生がまったく違うからだろう。


「いらっしゃい。暑かったでしょ」

 リビングに通される。エアコンが効いていて、天国のようだった。体がソファに心地よく沈む。

 冷風に癒されていると、麦茶を出してくれた。俺は麦茶を一気に飲んだ。一息つくと「この前は、本当にありがとうね」と言われた。


 お礼を言われるようなことはしていない。

 俺は「本、勝手に読んじゃってごめん」と謝った。


「全然大丈夫だよ。何でも好きに読んで」

 娘と同じことを言っていた。俺はソファの横の本棚に手を伸ばし、あの日読んだ本を取り出した。

 花ちゃんが、にやりと笑った。

「どうだった?」

「面白かったよ」


 あの日の心地よい浮遊感はまだ忘れられない。いい本は読んだ後も、ずっとその余韻が残るものだ。


「愛を知らない二人が、愛を与え合うって設定がよかった」

「そうだよね。愛の形は一つじゃないって教えてくれるのが、その本の一番素敵なところだよね」

「二人が幸せになってくれて、本当によかったよ」

 また花ちゃんと本の話が出来るとは思わなかった。


 本をめくり、著者のプロフィールを見る。あのときはちゃんと見ていなかったが、見ると俺より年下だった。

「まだ若いよね。それがデビュー作なんだよね」

 確かにそう書かれている。

 そしてデビューして間もないのに、いくつも大きな賞を取っていた。読むのが嫌になる経歴だった。

 しかし、これが現実だ。


 そのとき洞窟の奥で魔物が唸ったような音がした。俺の腹の音だった。花ちゃんが小さく笑った。

「これからクッキー焼くんだ。よかったら食べてよ」


 ……幸福が怖い。

 これほどの幸福の代償は何になるのだろう、と考えてしまうからだ。

 幸福に慣れていない人間は、かくも脆い──。


 するとリビングの扉が開いて、一人の少女が顔を出した。

 目が合うと、少女は頭を下げた。


「また、来たよ」

 そう言うと、少女はうなずいた。

 うなずいた、だけだった。何を話せばいいかわからない。もう間が持たなかった。そこに助け舟が出された。


「よかったね、花。おじさんがまた遊びに来てくれたよ」

 少女が顔を赤らめた。

「この子ね、あれから『おじさんはいつ来るの? いつ来てくれるの?』って何回も私に訊いてきてね──」

「マ、ママ! それ以上言わないで!」

 大きな声で母親の声をさえぎった。


「ごめんね」

 母親が舌をぺろっと出して謝った。


「ママのいじわる」

「クッキーがあるから、それで許して」

 少女は頬を染めたままうなずいた。そして俺のほうを向き「おじさん」と言った。言われて背すじが伸びた。

「私の部屋に、来てくれませんか?」

「えっ」

「お話ししたいことがあるんです」


 花ちゃんのほうをすがるように見る。しかし花ちゃんはにやにやしたままで「よかったら相手してあげて。本の話がしたいのかもね。クッキーが焼けたら呼びにいくから」と言った。

「なっちゃん、すっかり懐かれちゃったね」


 少女が俺の服の裾を引っ張った。小さな手には確かな力があった。そのままリビングから連れ出される。

 俺はただ、困惑するだけだった。


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