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3  『Over Drive』


 家は新築のように綺麗だった。

 壁も床も新しい感じがした。リフォームをしたのかもしれない。

 リビングに通された俺は、ソファに体を縮こませた。


 俺の前にグラスが置かれた。茶色い液体のなかに氷が何個か浮かんでいる。

 花ちゃんが「どうぞ」と消えそうなろうそくのような声で言った。俺も「どうも」と同じくらいの声で言った。

 そして少女は向かいのソファに座ると、置いてあった本を手に取り、読み始めた。


 何を読んでいるのか表紙を覗きこもうとしたが「家にある本、何でも好きに読んでください」と言われ、背すじが伸びた。花ちゃんはそれだけ言うと、また視線を本に戻した。


 リビングを見回す。今さら気づいたが、まるで家を支える柱のように、そこかしこに本棚が置かれていた。

 俺はソファの横の本棚に手を伸ばし、適当に本を取った。


 見たことも聞いたこともない、知らない作家の本だった。

 こんな偶然の機会がなければ、一生手に取ることもなかっただろう。


 俺はページをめくり、物語の始まりに自分を合わせた。


 この瞬間が好きだ。

 世界が組み上がる音がする。無数の光の粒子がどこからかやってきて、世界をかたち作っていくようだ。


 氷がグラスのなかで動いた。

 そのとき、花ちゃんがくすっと笑った。


 面白いシーンでもあったのだろうか。花ちゃんの顔が、わずかに赤くなった。それ以上見てはいけないと思い、俺は本に視線を戻した。


 すると、声をかけられた。


「おじさんって、ママの友達なんですよね、小学生のときの」

「……うん、そうだよ」

 俺は、それ以上でもそれ以下でもなかった。


「ママって、どんな子どもだったんですか?」


 少し考えて「本が、好きな子どもだったよ」と答えた。

「花ちゃんは、本は好き?」

「はい。大好きです」

 静かな川の流れのような声だった。


 それで会話は終わった。そして互いに、物語の世界へ旅立った。


      ●


 それは愛を知らない男女の話だった。


 人生で一度も人から愛されたことのない二人が出会い、惹かれていくという物語だった。

 俺は彼らのことを、まるで自分のようだと思った。


 花ちゃんと感想を語り合いたいと思った。


 ヒロインが死にたいと言い、主人公がその願いを叶えてあげようとする。愛しているのに、いや、愛しているからこそ、そうしてあげたいと主人公は決意する。しかし主人公は葛藤の末、ヒロインを殺さなかった。

 自分のエゴを押し付けて、ともに生きることを選んだ。

 一緒に生きようと告白するラストシーンは圧巻だった。


 読み終えたとき、体に不思議な浮遊感があった。

 いつのまにか外が薄暗くなっていた。少女はまだ下を向いていた。本の残りを見ると、後少しで読み終わるようだった。

 俺は棚にそっと本を戻した。


 花ちゃんは一向に帰ってくる気配がない。

 そこで、花ちゃんより旦那さんが先に帰ってくる可能性を考えた。花ちゃんが俺のことを説明してくれていたらいいが、もしそうでない場合、俺はただの変質者だ。通報されても文句は言えまい。


「おじさんって」

 本が閉じられたと同時に、また声をかけられた。

「小説家なんですか?」

 少女が俺を見ていた。彼女の目に俺が映っているのが嬉しかった。


 ──小説家。

 なりたいと思っていた。

 いや、思っている。

 昔も、今も。


「……そうだよ」

「小説を書くのって、楽しいですか?」

 心なしか、彼女の目が煌めいているように見えた。この煌めきも、いつか失われることになるのだろうか。


「楽しいよ」

 そう答えたが、しかし同時に、果たしてそうだろうか、とも思った。


 小説を書くのが好きだった。

 小説を書いているあいだは、色々なことから解放されていた。

 夢中で書いた。それが自分に与えられた天命なのだと思っていた。

 だけど今は、そんなマグマのような熱い気持ちは、体のどこにもない。


 心が痛い。

 まだ痛むだけの心があることに驚く。

 俺は目をそらし、じっとその痛みに耐えた。

 すると少女が息を大きく吸ったのがわかった。


 そして「私にも、書けますか?」と言った。

 小さくも力強い声だった。


「書きたいの? 小説を?」

 少女は頬を赤く染め、膝の上で拳を握り、うなずいた。


 人は時に、食事をするよりも睡眠をとるよりも、そして性欲を処理するよりも、何かを表現したいと強く思うことがある。

 昔の自分がそうだった。

 しかしその欲求は長くは続かない。それは単なる一過性の、いわば若気の至りのようなもので、ずっと持ち続けられる人はそうそういない。


 だが俺は、あの味を知っている。

 小説を書くという麻薬の味を……。

 だから、人生を完全には捨てきれずにいた。


 だから俺は──花ちゃんにこう言ってあげたい。

 止めたほうがいいと。将来、自分が苦しむよ、と。


「書けるよ。書きたいと思えばね」


 今日ほど死にたいと思った日はない。

 こんな人間に生きている価値があるのだろうか。

 俺は無垢な少女の背中を押してしまった。その先に、地獄の大穴が待ち受けていると知りながら──。


 扉が開く音がした。

 二人して、その音のほうに向く。

 どちらが帰ってきたのだろう。

 果たして帰ってきたのは、花ちゃんだった。


「ごめんね、遅くなっちゃって」

 ほっと息をつく。

「ただいま。ちゃんといい子にしてた?」

 少女はうなずく。花ちゃんは娘が本を持っているのを見て、一瞬だけ悲しそうな顔をした。


「なっちゃん、ありがとうね。おかげで助かったよ」

 彼女の母親は急性くも膜下出血だったが、一命は取りとめたらしい。今は意識もはっきりして、安静にしているようだ。


「おばあちゃん、大丈夫なの?」

 少女の声が震えていた。

「大丈夫だよ」花ちゃんは、母親の声で言った。「明日お見舞いに行こうね。花の元気をおばあちゃんに分けてあげよう」それに娘は「うん」とうなずいた。


「そうだ、なっちゃん。よかったら夕飯食べていってよ」

 嬉しくて涙が出そうなお誘いだった。

 まともな食事にありつける機会なんて、小説家になるまでないと思っていた。俺は快諾しようとしたが、しかしもう一人の自分に肩を掴まれた。もう一人の自分が、とても悲しそうな顔をしていた。

 その表情の意味を、俺は察してしまった。


「いや、今日は帰るよ」

 俺の幸せと彼女らの幸せはイコールではない。それに気づいてしまった。

「……そっか。じゃあまた今度ね。今日のお礼だけはさせてほしいから」


 玄関で靴を履いていると、花ちゃんに連絡先を訊かれた。しかし俺が携帯電話を持っていないことを言うと、すごく驚かれた。連絡を取り合う人間なんていないし、だいいち料金を払えないからだ。

「小説家っぽいね」と言われ、メモを渡された。

 そこには何桁かの数字が書かれていた。

「私の番号だから、来るときは連絡してね」

 俺はそのメモを受け取ると、大事にポケットにしまった。


 そして扉を開けようとしたら「また、来てください」と小さな声がした。振り向くとリビングから少女が顔を出していた。

「……うん、また来るよ」

 俺は人生で一番頑張って笑みを浮かべ、逃げるように外へ出た。


 むわっとした空気が皮膚に張りついた。なめくじのようにねっとりとした空気だった。俺はその空気を切り裂きながら進む。

 足は速かった。

 本当に逃げているようだった。


「なっちゃん」


 後ろから声がした。しかし俺はそのまま歩き続けた。そんなことをしたって何の意味もないのに。

「待って」

 足音が近づいてくる。

 逃げるなら今しかない。全力で走って逃げれば、彼女と言えど追いつけないだろう。だが俺は立ち止まり、振り返った。


「どうしたの」

「ごめんね、呼び止めちゃって」

 花ちゃんの胸がゆっくりと上下していた。

「あのさ、花のことなんだけど」と花ちゃんは息を整えて言った。「なっちゃん、花とどんな話をしたの?」

「どんなって……」


 話も何も、ほとんど話していない。お互いずっと本を読んでいただけだ。

 どこかで犬が吠えはじめた。まるで防犯ブザーのようだった。


「あ、責めてるわけじゃないんだよ。むしろ、逆」彼女は笑みとともに言った。「あの子、あまり人に懐かなくてさ。いつも本ばかり読んでて。もちろんそれはいいことなんだけど、私としてはもっと人と関わってほしくてさ」


 自分がそうじゃなかったから? とは訊かなかった。

 その言葉は自分にそのまま返ってくるからだ。


「だからさっきびっくりしたんだ。あんな風に言う花、初めて見たから」

 少女の言葉を再生する。

 澄んだ声に、また魂を震わされた。

「ちゃんと、母親やってるんだね」


 子どもの頃は自分のことだけ考えていればよかった。それでどうにかなっていた。しかし大人になってそれではどうにもならなくなってきた。大人になるというのは、そういうことなのだ。


「まあね。偉いでしょ」

「……昔の、花ちゃんの話をしたよ」


 母親と同じと言われて喜んだ少女の顔を思い出す。花ちゃんに「どんな話?」とか「どんな反応だった?」と訊かれたが「秘密」とはぐらかした。こうして話していると昔に戻ったような気がする。


「じゃあ、そろそろ」と俺は言った。これ以上の幸せは体に毒だ。

「そうだね。また遊びに来て。花も喜ぶよ」


 また歩き出す。足が重い。

 しばらく歩いて振り返る。まだ花ちゃんがいた。花ちゃんが手を振った。俺は背中を丸めて、歩く速度を上げた。


 蝉が鳴いている。鳴いているのは一匹だけだった。

 他の蝉はどうしたのか。どこか別のところへ飛んでいったのか、それとも死んだのか、それはわからない。


 俺はまた嘘をついた。

 彼女に、娘が小説を書きたがっていることを話さなかった。


 分厚い雲が空にかかっていて、月も星も何も見えなかった。ため息と一緒に、内臓まで吐いてしまいそうだった。


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