2 『忘れ咲き』
本について話すときの、彼女の笑顔が好きだった。
俺はその笑顔を自分で作りたいと思い、ある日小説を書いてみた。
すると世界が変わった。
頭のなかでふわふわしていたものが、文字の連続によって形になったのだ。
それは後にも先にもない、衝撃的な体験だった。
一晩中ノートに小説を書き続けた。止まらなかった。止められなかった。
そしてその小説を、彼女に読んでもらった。
ノートを渡すとき、すごく手が震えた。
もちろん、小学生が衝動にまかせて書いたものだ。
出来はお察しだった。
それでも、それがそのとき自分に出せる全力だった。
全力で、彼女を楽しませようと書いたのだ。
『すごい面白かった!』
彼女はそう言ってくれた。そして『続きはないの? もっと読ませて!』と続けた。
その日から俺は、小説を書くことに取りつかれた。
俺は書いた。書きまくった。心配した親が、執筆は一日一時間と決めたりもした。まあ守るわけがなかったが。
書いて、読んでもらって、書いて、読んでもらって、とそんな日々が続いた。
ノートはどんどん増えていった。
しかし終わりは突然やってきた。
彼女の転校というテコ入れで。
しかし小説を書くという行為は麻薬に似ている。一度その快感を味わったら、二度と抜け出せない。書くことからは逃れられない。
俺はそれからも小説を書き続けた。
俺の人生は小説とともにあった。
ただ、ひたすら、書き続けた。
やがて新人賞にも応募するようになった。
プロの小説家に、なりたくなったのだ。
そこから、俺の地獄が始まった。
●
扉を叩かれるたび、心臓に痛みが走る。
扉が小刻みに震えている。
母親が何か叫んでいる。
ガラスを引っかくような声が、扉の向こうから聞こえてくる。
一つ一つの声がまるで銃弾のようだ。
俺はその銃弾の雨を、布団をかぶってやり過ごす。
自分の居場所が日に日になくなっているように感じる。
いや、ようにではない。それは現実だった。
俺は自分で思っているより、遥かに追い詰められているのだろう。
世界の終わりはそう遠い未来の話ではないのかもしれない。
俺はさらに体を丸めた。
本当にダンゴムシのようだった。
音と声が止んだ。そしてしばらくすると、玄関の扉が開く音がした。俺は母親がパートに出たことを確認すると、そっと部屋を出た。家のなかはオーケストラが演奏を終えた直後のように静まっていた。
用を足しながら一息つく。
心が休まるときが母親がいないときしかない。
母親が家にいるときは、ほんのわずかな物音も立てられない。
どこに地雷が埋まっているかわからない生活だった。
階段を下り、キッチンへ向かう。昨日の昼から何も食べていない。パンを三枚焼いて、その上にマーガリン、イチゴジャム、マヨネーズをそれぞれ塗って食べた。水もいっぱい飲んだ。
ソファに座り、テレビをつける。だがこの時間はワイドショーばかりで面白くなかった。自分と関係ない人間が関係ない場所でどうなろうが知ったことじゃない。
ニュースは俺の世界に何の影響も与えない。
ふと花ちゃんのことを想った。
花ちゃんに、会いたかった。
俺は一週間ぶりのシャワーを浴びに、風呂へ向かった。
●
外は相変わらず灼熱のままだった。
家を出て五分も経たないうちに汗が噴き出てきた。
道路に干上がったミミズが落ちていた。
どうしてこんなところで死んでいるのだろう。
自分で這い出てきたのだろうか。ずっと石の下にいれば身を焼かれることもなかったのに。
俺は記憶を辿り、歩いた。
足が、彼女の家の場所を覚えていた。
三十分ほど歩くと、懐かしい家が見えてきた。表札には《小田桐》とあった。普通の一軒家だが、こんな一軒家に住めるのは普通のことではない。きっと旦那さんはちゃんとした人なのだろう。ちゃんとした人でなければちゃんとした家には住めない。
俺は家を買うどころか、借りることすら出来ない。
インターホンを押す。屁のような間抜けな音がした。昔と変わらない音に、口角が少し上がる。しかしすぐ重力に負け、垂れ下がった。
俺はじりじりと焼かれながら、ため息を吐いた。いくら待てども誰も出てこない。もう一度押すが結果は同じだった。
だがそのとき、扉が勢いよく開いて、花ちゃんが飛び出してきた。
「す、すみません。今立て込んでて──」
慌てた様子だった。まるで学校に遅刻しそうな子どもみたいだった。「あ、なっちゃん。いらっしゃい!」俺は突然のことに気の利いた挨拶も出来なかった。
そして彼女は一瞬だけ考える素振りを見せた後、顔を明るくした。
「ちょうどよかった!」
花ちゃんが近づいてくる。
「な、何が?」
声が裏返ってしまった。しかし花ちゃんはそんなことはどうでもいいと言うように、俺の手を取った。
「お願い! ちょっと花のこと見ててくれないかな?」
隣町に住んでいる彼女の母親が、救急車で病院に運ばれたのだそうだ。なので病院へ行かなければいけないのだが、状況が状況だけに娘は連れていかないほうがいいかもしれない。だけどいつ帰れるかわからないから、家に一人で置いておくのも心配だ──と困っていたところに俺がやってきたというわけらしかった。
さすがにそれは俺を信用しすぎではないかと思ったが、背に腹は代えられない状況なのだろう。
また扉が開いて、小さな顔が見えた。
少女がじっと、こちらを値踏みするように見ていた。
俺は承諾した。
「よかった。ありがとう!」
花ちゃんは娘に振り返り「花、ママはおばあちゃんのところへ行ってくるから、お留守番お願いね。この人の言うことをよく聞いてね」
少女はうなずいた。
そして花ちゃんは車に飛び乗って、本当に行ってしまった。後には俺と少女だけが残された。
蝉が騒音をまき散らしている。
数メートルの距離を挟んで、見つめあう。
すると少女は何も言わず、家のなかへ戻った。
俺はその後を慌てて追った。
家に入ると太陽の光も蝉の鳴き声も、別世界のことのように感じられた。