15 『君の思い描いた夢 集メル HEAVEN』
甲高い泣き声で目を覚ます。
隣の部屋の赤ん坊が泣いていた。
それに混じってヒステリックな怒鳴り声も聞こえてきた。しかしまだ言葉もわからない年齢だ、そんな風にされて黙るわけがない。結局赤ん坊は、もっと大きな声で泣きわめくのだった。
痛む腰をさすりながら、ゆっくり起き上がる。
外はすっかり明るかった。かなり長いあいだ眠っていたらしい。
鍋で沸かした湯に麺を放り込む。赤ん坊と母親はまだ泣いたり怒ったりしている。互いにセッションでもしているようだ。このライブはアパート中に響き渡っているだろう。俺はもう慣れたが、入居したての人ならあまりのうるささに発狂するかもしれない。
ほぐれた麺に、ワカメとモヤシと卵をぶちこんだ。
ラーメンを机まで運ぶ。床の本につまずいて転びそうになった。
手を合わせ、勢いよくすする。濃厚な味噌の味が口いっぱいに広がった。
携帯が鳴った。
ラーメンを食べる手を止め、電話に出る。
小田桐さんからだった。
『三嶋さん。次回作の構想は固まりましたか?』
相変わらず切れ味の鋭い声だ。この声を聞くと、別に怒られているわけじゃないのに怒られているような気になる。
売れっ子作家を数多く担当していて忙しいはずなのに、こんな売れない作家にまで声をかけてくれるなんて、やはり小田桐さんは優しい人だ。
しかしプロットの進捗は芳しくなかった。
三冊めまでは売れなくても何とか出してもらえた。
だがここからは違う。プロとして、しっかりと結果を出さなければいけない。
ここが勝負どころだ。決して負けるわけにはいかない。……そう気負ってしまうと、なかなかこれだと思うものを掴めなかった。構想はあるにはあるが、まだ雲のようにふわふわと宙を舞っている。
『ではまた打ち合わせをしましょう。近いうち編集部に来れますか?』
言い方は鋭いが、相手のことを想っているのは伝わる。
不器用な人なのだ。それがわかるまで、だいぶ時間はかかったが。
日程を調整し、話が一段落したところで、小田桐さんが言った。
『先週、花に会いましたよ』
「……そうですか」
『僕が三嶋さんの担当をしていると言ったら、とても驚いていました』
小田桐さんは少し寂しそうに笑った。
俺はパソコンの横に置いていた本に目をやる。
表紙には《綾瀬花》という名前が、そして本の帯には《史上最年少受賞!》と書かれていた。
「元気でしたか?」
『ええ、元気でしたよ』
テレビで見た花ちゃんはだいぶ大人びていたし、名字も変わっていたが、確かに花ちゃんだった。
「花ちゃん、すごいですね」
『……結局、僕は花のことを何もわかっていなかった』
小田桐さんは遠くを見るように言った。
『今さらわかったところで、遅いですけどね』
しかし最後は笑った。
電話を終えると、ラーメンの続きに戻った。麺は少しのびていたが、それでも美味しかった。
いつのまにか泣き声と怒鳴り声が聞こえなくなっていた。
●
七年前のことを、思い出す。
誘拐の罪で逮捕された俺は当然のごとく裁判にかけられた。判決は懲役三年の執行猶予二年。つまり初犯だし暴力的な行為はなかったから二年間何も悪いことをしなければ人として最低限度の暮らしを送ることは許可してやる、というわけだった。
だけどそこからが大変だった。親の金を盗み、あまつさえ小学生を誘拐した不肖の息子をこれ以上養ってやるとはさすがに母親も思わなかった。俺は何着かの汚い服と古いノートパソコンとともに家を追い出された。そしてこの家に辿り着いた。
何もない俺には敷金や礼金や保証人もいらない震度五くらいの地震で倒壊してしまいそうな気を抜くとすぐにゴキブリが出る夏は暑いし冬は寒いオンボロアパートくらいしか契約出来なかった。
でも、それでも、ここが自分の新しい居場所だった。
ゴキブリにももう慣れた。こいつらはハチやムカデのように人を刺したりするわけじゃない。ただ汚いだけなのだ。そう思えたら大丈夫になった。
そして俺は、小説を書き始めた。
まるで子どもの頃のように。
狂ったように。
朝から晩までは食品工場や物流倉庫で日雇い労働をし、帰ったら泥のように眠りたいのをこらえて小説を書く。そんな生活を半年ほど続けて、とうとう一本の小説を完成させた。そして俺はその小説を、とある出版社の編集部へ持ち込んだ。
小田桐さんに、読んでもらうためだった。
しかし当たり前だが、小田桐さんは突然現れた俺を快くなど思わなかった。今さら何をしに来たんですか、と胸ぐらを掴まれた。あんなことをしておいて、よくも僕の前に姿を現せましたね。
小田桐さんと花ちゃんは離婚していた。
あんなことがあって家族三人でこれからも仲良く──とはいかなかったのだろう。家族はバラバラになった。
娘は花ちゃんが引き取っていった。
俺のせいだ。
俺が、小田桐家を崩壊させてしまった。
だから──俺はこの人に自分の小説を読んでもらいたかった。
お願いします。俺は土下座をした。どうか読んでください、と。
許してほしいとは言わない。俺は一生許されないことをした。だけど俺に出来ることは小説を書くことだけだった。
だから罪は小説を書くことで償おうと思った。
その土下座を見て、小田桐さんがどう感じたのかはわからない。
しかし、彼は読んでくれた。
そんな程度で救われた気になってはいけなかったが、そのとき俺は心の底からほっとした。
だが読んでもらえたはいいものの、返ってきた感想はひどいものだった。
文章が拙い、構成が悪い、キャラクターに魅力がない、その他色々……。
小説を成す要素のほぼすべてをけなされた。
一言で表せば『つまらない』だった。
電話ごしで俺は泣いた。
いい年した大人がぼろぼろと涙をこぼした。
そこまで言わなくてもいいじゃないかと。せっかく頑張って書いたのにそんな言い方はないじゃないかと。
しかし小田桐さんは厳しかった。
こんな手合いの戯言には慣れているのだろう。
プロの世界を舐めるなと一蹴された。
比喩ではなく目の前が真っ暗になった。
俺の努力はすべて無駄だったのか。やはり無理だったのか──。
諦めの感情が吐瀉物のようにせり上がってきた。
しかし俺はその吐瀉物をぐっと飲みこんだ。
もう逃げたくなかった。
あらゆることから逃げてきた俺だったが、小説からだけは逃げたくなかった。
俺はすぐ次回作に取りかかった。
そして何回もそんなことを繰り返した。
書いては読んでもらい、ぼろくそに言われ、また書いては読んでもらい、ぼろくそに言われ……。
だけど俺は何を言われても諦めなかった。
書くのを止めなかった。
そして三年後──新人賞の佳作を取ってデビューした。
小田桐さんには、おめでとうございます、とだけ言われた。それはここがゴールなのではなく、ここからがスタートなのだという小田桐さんなりの激励だったのだろう。そしてそれは、事実そうだった。
確かに念願のデビューを果たした。
プロの小説家にはなった。
しかしそれで世界が変わったかと言うと、そんなことはなかった。
ちゃんとした受賞ではなく佳作ということもあってデビュー作の発行部数はものすごく低かったし、話題になって売れることもなかった。
それでもどうにか二冊め、三冊めと出せたのだから、今のところは生き残れていると言っていいのかもしれない。
つまりあのとき遊園地で怪しげな老婆に突きつけられた占いは、見事に外れたというわけだった。
何が近いうちに死ぬだ。
俺は生きている。
ちゃんと、こうして、ここに──。
生活は苦しい。売れない小説を書き続けるのは肉体的にも精神的にも辛い。七年経って俺もますます老いた。常に目や腰が痛いし、立ち上がるときについ、よっこらしょなんて言ってしまう。
でも自分で選んだ道だ。
辛いが──嫌ではなかった。
●
ポストを開けたが、何も入っていなかった。
毎日開けるたびに期待して、そして裏切られる。
俺は後何回こんなことを繰り返すのだろう。
しかし俺はもう知っている。
諦めずにやり続ければ、いつか必ず何らかの成果が出るのだと。
俺は母親の幸せを強く祈った。
久しぶりに会った小田桐さんは、日々しおれていく俺とは対照的に、さらに精悍になっていた。人生は顔に出ると言うが、その通りだと思う。まだ現場で働きたいらしいが、近々副編集長になるらしい。その功績に俺の本は含まれていないだろうが、自分のことのように嬉しかった。
打ち合わせはまあまあの収穫があった。
とりあえず方向性は見えてきた。話せてよかった。
やはり向かい合って話をするというのは、充実度から見て全然違う。
人が書いて人が読む以上、人と話すというのは小説を書く上できっと大きな意味があるのだろう──。
「三嶋さん」
建物を出たら、誰かに呼ばれた。
とても聞き覚えのある声に、俺は振り向く。
大きくなった花ちゃんが立っていた。
「お久しぶりです」
制服姿だった。受賞会見でもそのブレザーを着ていた。
「……久しぶり」
七年ぶりだった。
訊くと花ちゃんも打ち合わせのようだった。
「三嶋さんは今終わったところですか? じゃあちょっと歩きませんか?」
打ち合わせまではまだ時間があるらしい。
俺は曖昧にうなずく。
俺たちはそのまま人の流れに乗った。
太陽がビルとビルのあいだに体をねじこもうとしていた。
●
本屋の前を通ると、店頭に花ちゃんの本が派手に展示されていた。彼女が映ったポスターも貼られていた。売れ行きは絶好調のようで、早くも百万部を突破したらしい。今の俺には想像もつかない数字だった。
「本当におめでとう。すごいね」
「ありがとうございます」
花ちゃんは謙遜するでもなく自慢するでもなく、ただ受け入れた。
さっきから視線を感じる。
もちろんそれはすべて花ちゃんに向けられているものだ。花ちゃんはもう街を歩いていて気づかれるくらいには有名人だった。
「三嶋さんもすごいですよ。三冊も書き上げて」
「いや、別に全然すごくは……」
三冊と言ってもかろうじて出せただけだ。それに売り上げは花ちゃんの本に比べたらゴミみたいなものだ。
俺の本は、誰にも読まれていない。
そこで気づく。
「もしかして、俺の本……」
「はい。読んでますよ、もちろん」
初めて自分の本を読んでくれた人に出会った。
それを一般的には、読者と呼ぶ。
俺の読者──。
「……どうだった?」
「面白かったです」
身が震えた。
その一言が欲しくて、俺は今まで小説を書いてきたのだ。
「でも、売れなきゃ意味ないよ」
売り上げこそ正義だ。これは趣味じゃない、仕事なのだ。売れなければ様々な人に迷惑がかかる。売れなければ、自分の居場所はない。プロとして作品を発表する以上、そこには売れる義務が生じる。その義務を果たして初めて小説家として認められるのだ。
「それは違います」
花ちゃんが立ち止まり、俺を見上げた。
彼女の目は、七年前と変わっていない。
どころか、さらに輝きが増していた。
「売り上げがすべてではありません。三嶋さんの小説は面白いです。私にはちゃんと届いています。自分が書いた小説を信じてください。目先の数字にとらわれず、面白いと思ったものを全身全霊で書いてください。私たちにはそれしか出来ないんです。いいえ、それ以外のことを考えてはいけないんです。だって私たちは小説家なんですから」
彼女はどれだけ俺の先を往っているのだろう。
その背中はまるで見えない。
「読者はちゃんと、ここに、います。だからこれからも書き続けてください」
「……ありがとう。書くよ」
俺たちはまた歩き出す。
「ママも三嶋さんの本、読んでますよ」
「何て言ってた?」
「なっちゃんらしくて、面白いねって言ってました」
「そっか」
それだけ聞ければ十分だ。
俺は自分を信じて書き続ければいい。
その先には花ちゃんがいるのだから。
「これからは、ライバルですね!」
花ちゃんはきらきらと笑った。
まるで少女のように──。
いや、大人びて見えても、彼女はまだ少女だった。
「うん、一緒に世界を変えよう!」
小説にはそれだけの力がある。
少なくとも俺と花ちゃんは、そう信じている。
アスファルトの隙間から、花が咲いているのを見つけた。俺は、もう少しだけ生きてみようと思った。そして、小説を書こうと、今日も思った。
〈了〉




