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14 『Mysterious Eyes』


 景色が使い捨てられるように後ろへ流れていく。生まれたと思ったら次の瞬間にはもう死んでいる。

 ビルばかりだった灰色の景色に少しずつ家々が混ざり始め、やがて緑色の樹々が増えてきた。


 メーターの料金がすごいことになっていた。

 運転手が俺をバックミラーでちらと見た。また料金が上がった。海に着く頃にはもっと上がっているだろう。


 何とか海岸でいいですか? と訊かれて、そこでいいですと俺は答えた。それ以外に車内での会話はなかった。三者三様が、それぞれ個別の世界で生きているようだった。


 しばらくすると海が見えてきた。その手前には砂浜があり、海と砂浜がくっきりと分かれていた。水と油を同じコップに入れたときのように、それらの境界線はわかりやすかった。


 タクシーが止まる。メーターに表示された金額を見て、俺は思わず噴き出した。運転手がその金額を払ってほしそうに、こちらを振り向いた。しかしそんな捨てられた子犬のような目をされても、ないものはどうしようもない。俺は金がないことを正直に伝えた。


 運転手はとてもうろたえた。

 そして俺は追撃のように、自分は犯罪者なのだと言った。


「この子を誘拐したんです」

 運転手は俺と花ちゃんを見て、さらに間抜けな顔をした。

「すみませんが、警察を呼んでもらえますか?」

 それに花ちゃんが、小さく息を吐いた。


 運転手は震えていた。俺を見る目は、殺人鬼でも見るようだった。そして世界にこれほど弱々しい声があるのかというくらいに小さな声で「降りてください」と言って、扉を開けた。


「お願いです。何もしないでください」


 外へ出ると潮の匂いがした。

 扉が閉まると、タクシーが勢いよく発進した。道路に黒い跡が残った。タクシーは蛇行しながら道路の向こうへ消えていった。


 二人で砂浜へ下りる。砂浜には海水浴に来ている人間がちらほらといた。

 波打ち際まで来ると、波の音がはっきりと聴こえる。海はもっと澄み切った色を想像していたのに、まるで沼のような色をしていた。


「ちょっと歩こうか」

 花ちゃんがうなずいた。


 波打ち際に沿って歩く。

 砂浜はゆるやかに弧を描いて向こうのほうまで続いている。

 靴のなかに砂が入ってきて気持ち悪い。花ちゃんも同じなのだろう、歩きにくそうだった。


 しばらく行くと砂浜が終わって土の地面になった。工事現場に入ったのだろう、そこらじゅうに重機が置いてあった。どうやら山を切り崩しているらしいが、何のためかはわからない。周りには誰もいなかった。


 地形が歪だった。異様に盛り上がっているところもあれば、クジラが何匹も入りそうな大穴が開いているところもある。

 切り崩された山の断面が見える。

 幾億年もの時間をかけて作り上げられた自然が、ほんのわずかしか生きていない人間によって壊されていく。


 太陽は雲に隠れて見えない。

 空は海と同様、濁った色をしていた。


 道が途切れていた。

 道の先は断崖で、これ以上進めなかった。


 波のぶつかる音が、遥か下から聞こえてくる。

 しかし海そのものはどこまでも静かなように見える。


「じゃあ花ちゃん。ここでお別れだ」


 何もない水平線の向こうを見ながら言った。

「短いあいだだったけど、一緒にいてくれてありがとう。すごく楽しかった」


 花ちゃんが何か言おうとしたが、俺はそれを遮った。

「見たかった海は見れなかったけど、俺は満足してる」

 彼女がどんな顔をしているかはわからない。

「俺は往くけどさ、ここで待っていればそのうち警察が来るから」


 花ちゃんは日常に戻る。しかし花ちゃんを取り巻く環境が劇的に変わるわけではない。いや、今回のことがきっかけで、さらに悪くなってしまうかもしれない。悲しいがそれはどうしようもない。

 俺はヒーローなんかじゃない。

 根本的な解決など出来るわけがない。


 俺に出来るのはただ一つ──逃げ方を教えることだけだ。


 俺は往く。

 先に往って、まだ逃げられる場所があるのだと身をもって教えてあげるのだ。


「じゃあ、さようなら」


 足を踏み出す。

 地面を踏めるのも人生で後わずかだ。


 自分が死ぬ姿を想像出来ない。

 落ちずにふわふわと飛んでいけそうだ。


 まあ想像出来なくても構わない。

 数秒後にはそれが現実になるのだから。


 想像出来ようが出来まいが、世界は容赦なく現実を叩きつけてくる。


 踏める地面はもうない。

 後一歩で人生が終わる。


 しかしその後一歩が踏み出せなかった。


「往かないでください」


 花ちゃんが俺の手を掴んでいた。

「往かせてよ」

 小学生の女の子の力だ。振りほどこうと思えば簡単に出来る。


 しかし出来ない。

 出来るわけがない。


 地面が欠けて小石ほどの粒が落ちた。だが粒は風に吹かれてばらばらになり、海までは辿り着かなかった。


「じゃあ、私も往きます」

「駄目だ」

「どうしてですか?」


 わかっているだろう。わかっていないはずがない。

 その理由を俺の口から言わせたいのだろうか。

 俺は身を引き裂かれるような痛みに耐えながら言う。


「だって花ちゃんは、俺なんかとは違って才能があるんだから」

「才能なんて、ありません」


 背すじが震えるような、冷たい声だった。


「あるのはただ、小説を書きたいという想いだけです」

「想いだけなら、俺にもあったよ」


 しかし実際に書けるのと書けないのとでは天国と地獄くらいの差がある。

 結局、書ける人間のことを天才と呼ぶのだ。


 俺は天才ではなかった。

 それだけの話だ。


「それなら、逃げないでください」

「想いだけじゃ、どうにもならないんだよ」


「どうにでもなります!」


 花ちゃんが叫んだ。


「だって三嶋さんは、私のヒーローなんですから!」


 手を強く握られた。


「小説を書くのは辛いことですか?」

 俺はうなずく。辛すぎて耐えられなかった。だから逃げた。

「でもあのとき三嶋さんは、確かに楽しいと言いました。あれは嘘だったんですか?」

「嘘じゃない。それだけは……」


 かつてはその魅力に取りつかれ、狂ったように小説を書いていた。そこには純粋なものしかなかった。


「もちろん、書けているときは楽しかったよ。書けているときは世界は自分のためにあって、自分は世界のためにあると思えてた。小説を書いているときが一番自分らしくいられた。でも、それがいつのまにか、書けなくなった。それだけを頼りに生きてきたのに、それすらも出来なくなったら、どうすればいいんだよ。死ぬしかないじゃないか」


 小説が書けないなら死んだほうがましだ。

 世界は命を大切にしすぎている。命より大切なものはないと、大勢の人が思っている。だが違うと思う。命より大切なものは、ある。命を守るあまり、本当に大切なものを守れないのは本末転倒だ。

 命は使うものであって、守るものではない。


「私もそう思います」

 その同意に、俺は驚いた。

「今まで生きてきて、小説を書いているときが一番楽しかったです。きっとあれ以上に楽しいことなんてこの世にないと思います。もし小説が書けなくなったらと思うと、怖くて死にたくなります」


 花ちゃんは占い師の老婆に、自分は何を書けばいいかを問うた。花ちゃんは自分が次に書くべきものを探していた。


「わかっていました。私が書いた小説は小説じゃないって。ただの妄想なんだって。だからもっと書いて、もっともっと書いて、いつの日か世界中の人たちに届くような《小説》を書きたいと思います」


「……すごいね。花ちゃんならきっと書けるよ」


 彼女はもう大丈夫だ。

 俺なんかがいなくても、一人で立派にやっていける。むしろ俺がいては邪魔になるだけだ。


「応援してる。俺の分まで頑張って」

「三嶋さんも、書きませんか?」

「……どうして?」


「小説には世界を変える力があります。いい小説を読んだ後は、読む前とで世界の見え方が違っています。自分がそこではないどこかへ飛ばされてしまったように感じます。それが世界が変わった証です。名作と呼ばれる小説は、その飛ばされる距離が遠いから名作と呼ばれているんです。もちろん、誰もがそんな小説を書けるわけではありません。でも、三嶋さんなら絶対に書けます」

 花ちゃんに手を引かれ、俺は振り返った。


「だって三嶋さんは、私の世界を変えてくれたんですから!」


 風のなかに砂が混じっていたのか、目が痛くなった。風はそのまま通りすぎ、後ろの林をざわざわと揺らした。


「だから小説でも、絶対に変えられます!」


 花ちゃんの熱が手を伝って昇ってくるのがわかった。


 目が痛い。

 胸が熱い。

 手に力が宿る──。


「一緒に、世界を変えましょう」


 花ちゃんのために小説を書こう、と思った。誰かに自分の書いた小説を読んでもらいたいと思ったのは、人生で二度めだった。


 一人で完結してはいけない。

 小説は読者がいて初めて小説になるのだから。


 俺は手を離すと、もう一度手を握った。


 世界には無数の小説がある。

 だからわざわざ自分が書く必要なんてないんじゃないかと思っていた。

 自分にしか書けない小説なんて、果たしてあるのかと。


 ある。見つけた。

 自分にしか書けないものは、ここにあった。


 今なら書いて伝えられる。

 今なら、きっと大丈夫だ。


 心から、そう思った。


      ●


 俺たちは崖に腰を下ろし、水平線を眺めた。

 崖の下では相変わらず、波が激しくぶつかっている。

 花ちゃんが足をぶらぶらさせているのが、視界の端に見えた。


 俺は沈み始めた太陽と、のっぺりとした雲と、遠くを走る漁船を見ながら、何を書こうかと考えた。

 そして物語が出来ると、書きたいと思った。


 そんな風にそわそわしていると、遠くからパトカーの怒鳴り声が聞こえてきた。


 こうしていられる時間は、後数分もないだろう。

 だから俺は「書くよ」と言った。


 それに花ちゃんが「私も書きます」と返してくれた。


 それだけで、何もかもが十分だった。


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