13 『まぼろし』
新聞を棚に戻し、売店を後にする。
世界は今日も通常進行だ。
俺は花ちゃんに「お待たせ」と言い、駅の改札へ向かった。
電車はそこそこ空いていた。昨日と同じくボックス席に座る。電車が走り出すと山の上の観覧車が見えなくなった。
俺たちは少しずつ話し始めた。
あらためて訊くと、花ちゃんはやはり相当の読書家だった。さすが本だけはいくら買ってもいいという教育を受けているだけはある。その量からして当時の俺を遥かにしのいでいた。
出来る人間は小さい頃から違うのかもしれない。俺はただ《人よりちょっと本が好きな子ども》に過ぎなかった。俺は打ちひしがれたが、花ちゃんがそれに気づいた様子はなく、楽しそうに本の話を続けた。
すると俺が小学生の頃に読んだ本の名前が出てきた。どうしてそんな古い本をと思ったが、訊けば花ちゃんはその本で夏休みの読書感想文を書いたらしい。かなり昔の本だから今の小学生が手に取ることなんてほとんどないはずだ。
俺が驚いていると「良い悪いに時代は関係ありません」と返ってきた。十歳の少女とは思えないほど言葉に重みがあった。
終点は人であふれていた。
前に進めないほどではなかったが、人の波に上手く乗っていかなければいけなかった。
この人たちはどこへ行くのだろう?
学校? 会社? それとも遊びに? そのどれでもない人が、果たしてどれほどいるやら──。
階段を上っていたら、背中に強い衝撃が生まれた。後ろから誰かにぶつかられたようだ。ぶつかってきたのは若い男だった。男はこちらを振り返りもせず、一気に階段を上がっていった。
改札が近づいたので、ズボンのポケットに手を回す。
そこで猛烈な違和感が生まれた。
何度もポケットに手を突っ込む。
投げ込まれた餌に群がるうなぎのように、隅々まで指を巡らせる。
小銭が小さく音を奏でる。
しかし、あるべきものがそこにない。
体が急速に冷えていくのがわかった。
花ちゃんが首を傾げて、そんな俺を見つめていた。
●
今すぐ目の前のロータリーに飛びこんで、バスの車輪に頭を差し出したい。頭を潰されたらどんな人間も生きてはいられまい。しかも一瞬で粉々になれるのだ。きっと痛みを感じる暇もなく逝けるだろう。
電車に乗ったときは確かにあった。
だから、あの後ろからぶつかってきた男が、俺の一万円札や五千円札や千円札を盗んだのだろう。まったく気づかなかった。
花ちゃんの息遣いが聞こえる。何か言おうとして、しかし言葉を吞み込んだのがわかった。
今彼女がどんな顔をしているのか、想像すると顔を上げられない。
俺は何がしたかったのだろう。
「ちょっといいですか?」
声が降ってきた。低い声で、俺はマラソンの授業で走るのが遅い生徒を怒鳴りつけていた高校のときの体育教師を思い出した。
顔を上げると色黒で厳つい顔をした中年の男がいた。男は紺色のベストを着て、腰には無骨な無線を下げていた。
男は警察だと名乗り、パトロールをしているのだと言った。さっきからお前はずっとこのベンチで俯いているが何かあったのか、しかも隣には小学生くらいの女の子もいる。ちょっと事情を訊かせてもらえないか、とのことだった。
突然のことに思考が渋滞した。
ここで嘘の言葉を巧みに積み上げられるようなら、そもそもこんな人生にはなっていない。
「あなた、名前は?」
「……三嶋夏樹です」
「何か身分を証明出来るものはある?」
「……ありません」
「じゃあその女の子とは、どんな関係なの?」
「……娘です」
男は明らかに疑っていた。このままでは交番に連行されるかもしれない。そうなったら終わりだ。
「お嬢ちゃん、そうなの?」
大丈夫、本当のことを言ってごらん、という風に、男は花ちゃんに目線の高さを合わせた。
しかし花ちゃんは「はい、そうです」と言った。
そして立ち上がり、俺の手を取った。
「パパ、早くしないと映画が始まっちゃうよ」
それはあまりに自然な振舞いだった。
「本当に、娘さんなんですか?」
「ええ、血は繋がっていないんですが……娘なんです。ちょっと気分が悪かったので、休んでいたんです」
「パパ、早く行こうよ」
「わかったよ、花」
俺は引っ張られるままに歩き出し「すみません、ご心配をおかけしました」と頭を下げた。男は追ってこなかった。
あてもなく歩く。
太陽がまたすっかり高く昇っていた。急に立ち上がったので頭がくらくらしている。数メートル先の光景でもぼんやりと揺れている。しっかり見えるのは花ちゃんの手だけだ。
「ありがとう」
「気にしないでください。まだ、一緒に海を見ていませんから」
「……ごめん。もう行けない」
ポケットには小銭しかない。花ちゃんが振り向く。悲しそうな顔をしていた。
「終わり、なんですか?」
所詮俺はこの程度だったのだ。人生を賭けても何も得られない。無様につまずいて、すべてを台無しにしてしまう。
虚無──今までと同じだ。
過去と未来は地続きだ。過去で駄目だった人間が未来で上手くいくはずがない。
俺の夢が叶ったことなんて一度もなかった。
それが俺の運命なのだ。
──でも、まだ一つ。
まだ一つだけ、出来ることがある。
俺は「いや、まだ終わりじゃない」とタクシーを止めた。ともに乗りこむと俺は「ここから一番近い海まで」と運転手に伝えた。運転手は怪訝そうな顔をしたが、車を走らせた。花ちゃんは外と俺を交互に見た。
車内は冷房が効きすぎているのか、肌寒かった。
体が震えた。




