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12 『君という光』


 とても年季の入った外観だった。

 壁には二階までべったりとツタが絡みついている。

 近づくと木が腐ったような臭いがした。


 建付けの悪い扉を開け「すみません」と言った。奥のほうからテレビの音だろう人の笑い声が聞こえてくる。俺はもう一度「すみません」と言った。すると床を踏む音がして、太ったおばさんが笑いながらやってきた。


「いらっしゃいませ」

 おばさんの顔がてかてかと輝いていた。

 部屋は空いているとのことで、俺たちは是非もなく泊まることにした。渡された名簿に適当な名前と住所を書いた。

 それでチェックインは終わりらしかった。


「東京から来られたんですか?」と前を歩くおばさんに訊かれた。おばさんが踏むたびに階段がきしんだ。

「ええ」

「親子でご旅行ですか?」

「まあ、そんなところです」

 花ちゃんは物珍しそうに、壁にかけられた古そうな絵を見ていた。絵は何枚もあって、山や川、森といった自然の風景が見事なコントラストで描かれていた。


 部屋は二人が泊まるには十分な広さだった。

 窓から家々の明かりが見える。俺たちは座布団を敷いて座り、おばさんが煎れてくれた薄いお茶を飲んだ。

「どうぞ、ごゆっくり」

 おばさんは言うと、部屋から出ていった。階段のきしむ音がここまで聞こえた。


 沈黙が部屋を包む。

 一刻も早くこの針でちくちくと全身を刺されるような空間から逃れたかった。


 風呂に入ることにした。男湯には俺以外いなかったので広く使えた。足を伸ばせる大浴場なんていつぶりだろう。少し熱めのお湯が気持ちよかった。

 体を洗いながら、女湯のほうを見る。

 あの壁の向こうで、花ちゃんも同じように体を洗っているのだろう。俺は泡をシャワーで勢いよく流した。

 部屋に戻ってぼうっとしていると、花ちゃんも戻ってきた。

 花ちゃんは浴衣に着替えていた。


 夕食が部屋に運ばれてくると、美味そうな匂いが満ちた。

 おばさんが明るく料理の説明をしてくれた。

 しかしそんな説明も俺の耳には響かなかった。何々の天ぷらもどこそこの魚も味がよくわからなかった。ただ腹が膨れていく感覚しかなかった。


 テレビをつけると『シミュラクラ現象』と声がした。そのすぐ後に別の声が『正解です』と言った。『何でもない模様が人の顔に見える現象を何と言うか。シミュラクラ現象、正解です!』

 クイズ番組のようだ。どうやら一般正解率五パーセントの難問を、出演していた小説家が答えたらしい。司会のスーツを着た初老の男が『さすがですね、先生!』とその小説家を褒めた。小説家は『たまたまですよ』と謙遜した。嬉しさが顔ににじみ出ていた。


 俺はチャンネルを変えた。花ちゃんは特に何も言わなかった。ニュースが映ったので、ボタンを押す指を止めた。


 世界はどう変わっただろうか。

 小学生の女の子が一夜にしていなくなったのだ。

 話題性は十分のはずだ。


 俺たちは黙ってニュースを見た。

 しかし見ていくうちに、ニュースは終わってしまい、やがて別の番組が始まった。特に見たいとは思わなかったが、そのままつけっぱなしにした。


 花ちゃんが大きなあくびをした。

 俺も眠かった。


「そろそろ寝ようか」

「……はい」

 テーブルを脇にどけて布団を敷いた。

 電気を消して布団に入っても、部屋は窓からの月明かりで薄暗いままだった。


 やがて天井の模様が見えるようになった。天井に顔が浮かび上がってきた。

 視線を感じる。整形のしすぎで顔が崩れてしまった人が、天井に張りついているようだった。

 俺は本能的な恐怖を覚えた。


「三嶋さん」

「……どうしたの?」

「ありがとうございます」

「何が?」

「私を、連れ出してくださって」


 お礼を言うのはこちらのほうだった。

 君のおかげで、俺がどれほど救われたか。


 だから俺は、天井の模様をしっかりと見つめて言った。


「花ちゃん、ごめん。小説家だって嘘ついて」


 嘘をつくのは悪いことだ。

 そんなこと小学生でも知っている。


 嘘をついたら謝らなければいけない。

 ようやく俺は、人として大切なことに気づけた。


「気にしてませんよ」

 言われ、力が抜けた。今なら死ぬように眠れそうだった。

「小説を書いたことは、あるんですか?」

「うん、あるよ。もうずっと書いてないけど」


 最後に書いた小説がどんなものだったか、それすらも思い出せない。よくもまあ、それで小説家だなんて嘘をつけたものだ。


「三嶋さんが初めて書いた小説って、どんなだったんですか?」


 初めて書いた小説。

 花ちゃんに読んでほしくて書いた小説。

 自分の原点──最後に書いた小説のことは忘れても、最初に書いた小説のことは覚えていた。


「よかったら、読んでみたいです」

「ごめん。どこにやったか、わからないんだ」

「……そうですか」


 あの頃はただ純粋に楽しかった。

 それがどうして、小説を書くのが辛いことになってしまったのだろう。


 俺はそれ以上考えるのを止めて、目を閉じた。


      ●


 月明かりが朝日に変わっていた。

 雀の鳴き声が聞こえる。

 呼吸に合わせて胸が上下していた。


 体を起こす。こんなにも体が軽い朝は初めてだった。


 花ちゃんの寝顔が隣にあった。その表情は安らかで、息をしていなければ死んでいるように見えたかもしれない。俺は静かに布団を出た。


 きしむ階段を下りると、味噌汁の匂いがした。俺は外灯に吸い寄せられる虫のようにその匂いを辿った。

 一階の途中に小さな中庭があった。

 隅に植木鉢が並んでいて、そこからまるで虹のような色とりどりの花が咲いていた。端にはプチトマトがあった。昨日の夕食にプチトマトを食べた気がする。あれはもしかしたらあそこで獲れたものかもしれない。


 建物の陰からおばさんが現れて、手にしたじょうろで植木鉢たちに水をかけていった。

 何となくその光景をガラス越しに見つめる。


 おばさんは楽しそうだった。

 きっとこれまで丹念に世話をしてきたのだろう。

 その甲斐あって花は綺麗に咲いたし、プチトマトは立派に実った。


 おばさんの努力は報われたのだ。


 おばさんがこちらに気づき、小走りで近づいてきた。胸と腹の肉が揺れる。サンダルが小さいのか、足でぱんぱんだった。どうやって履いたのだろうか。おばさんが窓を開け「おはようございます」と会釈をした。

 朝食の用意が出来ているので、食堂へ行けば食べられるらしい。わかりましたと言い、部屋に戻ろうとしたら「娘さんと仲直りは出来ましたか?」と訊かれた。喧嘩していると思われていたらしい。

 俺は小さく笑い「ええ、もう大丈夫です」と言った。


 部屋に戻ると花ちゃんが起きていた。

「……おはようございます」

 髪が跳ね散らかっていた。

 寝顔は静かだったのに、寝ぐせは激しかった。


      ●


 ご飯と味噌汁と焼き鮭と卵焼きと海苔とプチトマトを食べて、幸せな気持ちになれた。俺はおばさんを呼び、ご飯と味噌汁のおかわりを頼んだ。食べ終わったときには苦しくて吐きそうだったが、不快感より満足感のほうが大きかった。花ちゃんはそんな俺に呆れたような顔をしていたが、馬鹿にしている風には見えなかった。


 チェックアウトのとき、おばさんに中庭で咲いていた花の名前を訊いてみた。

 おばさんは嬉しそうに答えてくれたが、初めて聞く名前の花だったので、メモでも取っていないとすぐに忘れてしまいそうだった。

 でも忘れられるなら、それはそれでいいと思った。


「またぜひお越しください」


 背中にそう言われたが、俺は何も答えなかった。

 たぶん、もう二度と来ることはないだろうからだ。


 外へ出ると、朝日が熱とともに降り注いだ。

 ふと、自分が死ぬとき最後に思い出すのは、あの花たちのことになるだろうと思った。


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