11 『僕らだけの未来』
俺たちはソフトクリームを食べながら、大きくそびえ立つ観覧車に向かって歩く。
駅から見えるほど観覧車は大きい。
きっとフリーフォールから見た景色より、もっといい景色が見られるに違いない。期待のおかげか、溜まったはずの疲労をまったく感じない。
「ちょっと、そこのお兄さん」
すると、やけにしわがれた魔女みたいな声がした。
声のほうを向くと、まだ暑いのに紫色のフードをかぶった老婆がいた。老婆の前にはきらきらと輝く水晶玉があり、テーブルの脇に汚い文字で《占い・一回500円》と看板があった。
不気味だったので通り過ぎようとしたら「待ってよ、そこのかっこいいお兄さん」と言われたので足を止めた。
老婆と目が合う。
老婆はにやりと笑った。
「よかったらお兄さんのこと、占わせてよ。時間は取らないからさ」
「すみません、急いでますので」
占われるのが嫌というわけじゃない。
金ならある。500円なら全然払ってもいい。
だが今はなるべく他人との交流は避けたい。
俺は花ちゃんに目で合図し、老婆から離れようとした。
「お兄さんたち、訳ありだね?」
老婆が口角を上げ、歯を見せた。
「どういう意味ですか?」
「言ってもいいのかい?」
何だこの老婆は……。
俺たちのことを知っている?
いや、ありえない。
警察はもう動き出しているだろう。犯人の目星もついているだろう。だがその犯人の顔写真までは公開していないだろう。顔写真に使えそうな写真など、この世にないからだ。
「まあ、人に話したりはしないから、安心してよ」
もう日も暮れる。後は観覧車に乗って、この楽しかった日を締めくくろうと思っていたのに、とんだ落とし穴があった。
「そんな怖い顔しないで。旅の思い出に、ちょっと寄るだけ。そっちのお嬢ちゃん、占いに興味はないかい? 今ならお嬢ちゃんの分はおまけしてあげるよ」
花ちゃんが目をそらすように俺を見上げる。
……もちろん、適当に言っているだけだろう。訳ありという言葉に、誘拐犯とその被害者という意味を当てはめるにはかなり無理がある。だけど単なる冗談だと無視するには、この老婆は不気味すぎた。
「わかりました。ちょっとだけですよ」
「毎度あり」
老婆はテーブルを挟んだ椅子を指した。座れということらしい。俺はソフトクリームを一気に口のなかへ入れた。
脳の奥が痛くなった。
「私には、人の未来が見えるんだ」
水晶玉を撫でながら老婆が言う。撫で方がいやらしかった。
訊くとその水晶玉に人の未来が映し出されるらしい。
ただ、いつの未来が見えるかはわからないと言う。
しかしその未来は、確かに訪れるものらしい。
老婆は語り始めた。
彼女は数年前まで東京で活動していて、常連にはスポーツ選手や漫画家、企業家や政治家まで、様々な人がいたらしい。しかしあるとき雑誌で取り上げられたことがきっかけで占いの依頼が殺到するようになった。それで活動しづらくなった彼女は、やむなく東京を離れ、各地を転々とするようになったらしい。
しかし油断ならない老婆だ。でたらめを言っている可能性は十分にある。
俺は全身から汗が噴き出るのを感じながら「花ちゃん、先に占ってもらいなよ」と言った。
まるで余命宣告を聞きたくないから耳をふさぐ末期がんの患者みたいだった。
いきなりの提案に花ちゃんは動じず「わかりました」と答えた。
老婆は逃げた俺に何も言わなかったが、その目は明らかに俺を見下していた。
「じゃあ見るよ、お嬢ちゃん」
老婆が水晶玉に手を置いて、もう片方の手を花ちゃんに向けた。手は大きく、花ちゃんの頭など鷲づかみに出来そうだった。
そして何かぶつぶつと唱え始めた。
小声なので何を言っているのかはわからない。お経だと言われたらそう聞こえるし、ラテン語の呪文だと言われたらそう聞こえる。
しかしそれを聞ける雰囲気ではない。老婆の顔は真剣そのものだった。
フリーフォールが落ちるのが視界の端に見えた。
すると水晶玉の中心に光が生まれた。どういう仕組みだ? 何か光る仕掛けでもあるのだろうか? 老婆と水晶玉を交互に見る。そのあいだにも光はどんどん大きくなり、ソフトボールくらいの大きさになった。小さな太陽のようでもあった。
老婆はその光を見て、何度もうなずく。
何が見えているのだろう。もしかしてそれが未来なのだろうか。だとしたらそれはどんな未来なのか。
「お嬢ちゃん、何か文章を書いているね? 詩とか、小説とか」
「はい」
「そうかい。なら、これからもそれを続けるべきだね」
老婆は花ちゃんに向けていた手をどけて、優しそうに微笑んだ。
「驚いたよ。こんなに輝かしい未来が見えたのは初めてだ。お嬢ちゃんはその分野で大成功を収めるだろうね」
日本、いや世界を変えるほどのね、と老婆は続けた。
「世界を──」
花ちゃんが呟く。そして何か言葉を発しようとしたが、言葉を詰まらせた。老婆は孫娘に接するように「大丈夫。ゆっくりでいいよ」と言った。
言われて安心したのか、花ちゃんは老婆を見据えて「私は、何を書けばいいですか?」と問うた。
小さくも力強い声だった。
「何でもお嬢ちゃんの好きに書きなさい。それがそのまま世界のすべてになるから」
「わかりました。ありがとうございます」
何がわかったのだろう。
俺のような凡人には花ちゃんの心はわからない。
花ちゃんが席を立ち、俺を見上げた。
老婆が「お兄さんは? どうする?」と馬鹿にしたように笑った。
「三嶋さん。見てもらいましょう」
どうしてそこまで言うのだろう。俺のことなんかどうだっていいだろうに。
「見たくないんですか?」
真っ直ぐな目が突き刺さる。
それによって心の奥に秘めていた本音がマグマのように溢れてきた。
……自分の未来を見たい。
俺も花ちゃんのように、世界を変えるほどの小説家になると言われたい。
俺は老婆に向き直ると「お願いします」と言った。
椅子に座ると、老婆が先程と同じように水晶玉に手を置いて、もう片方の手を俺に向けた。しわくちゃの手が目と鼻の先にあった。
老婆がお経かあるいは呪文のような言葉を唱え始めると、世界から少しずつ音が遠ざかっていく。
水晶玉が光り始めた。この光が俺の未来だ。どうして光っているのかはわからないが、綺麗なことには変わりなかった。光はどんどん大きくなっていく。俺はその光を、初恋の相手のように見つめた。
すると光が小さくなっていく。
ソフトボールくらいだった大きさが野球ボールくらいに、さらに止まらず、ピンポン玉くらいに──。
そして線香花火が終わるように光が消え、喧噪が戻ってきた。
沈黙が流れ、老婆がため息を吐いた。
「残念だったね。未来は見えなかったよ」
「見えなかった?」
「光が消えただろう? 近いうちに死ぬ人間は、こうなるのさ。やっぱりお兄さんたち、訳ありだったね」
悪寒を感じて振り向く。
そこには花ちゃんがいるだけだった。
花ちゃんが悲しそうな顔をしていた。
老婆のもとを後にする。口止め料も兼ねて二回分の代金を渡した。おまけしといてあげるのに、と老婆は言ったが、俺は聞かなかった。
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観覧車はすぐに乗れた。
乗りこんだ最初こそ俺の口数は多かったが、薄っぺらい言葉しか出てこなかった。花ちゃんが愛想笑いをしてくれているのがわかった。観覧車が一番上につく頃には、互いに黙り込んでしまった。そこから見えた景色はフリーフォールから見えたものとはまったく違った。
世界の流れがゆっくりになったようだ。
俺は壮大な景色と自分の小ささを比べた。
観覧車を降りて遊園地から出るまで、俺たちは一言も話さなかった。橙色の空に、淡く紺色が混じっていた。




