10 『晴れ時計』
太陽が空の目立つところに昇り、地上を明るく照らしていた。俺は頬を伝った汗をシャツの袖で拭った。
陽気で軽快な音楽が大きなスピーカーから流れている。サンバのリズムだ。コアラやカンガルーを模したキャラクターが、ようこそといった風に門の大きな看板に描かれている。入口の脇には顔を出して写真を撮るパネルがあった。俺は受付のお姉さんに、大人一枚、子ども一枚、と言った。
入園すると平日だというのに結構な人がいた。家族連れも多いので、ここなら花ちゃんがいても不自然に思われないだろう。
まさか山の上にこんな立派な遊園地があるなんて、電車から降りたときは想像もしていなかった。
入ってすぐの広場にステージといくつものテーブルがあった。おそらくあそこで食事をしながらキャラクターのショーなどを見られるのだろう。
ステージの脇に肌を大きく露出させた、黒人の女性が数人いた。彼女たちの焦茶色に煌めく肌を見ていたら「どうしました?」と花ちゃんに言われた。俺は「何でもないよ」とすぐ視線を外し「今日はいっぱい楽しもう」と明るく言った。
花ちゃんが「はい」と今までで一番の笑顔でうなずいた。
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まずはジェットコースターだ。花ちゃんは意外にも絶叫系は大丈夫なようで、列に並んでいるときから目を輝かせて轟音を立てて走るコースターと、甲高く響く悲鳴を聞いていた。俺はジェットコースターに乗るのなんて久しぶりなので、大丈夫なのか苦手なのかもわからなかった。コースターは地上高くまで上がった後、ぐねぐねとレールを疾走し、最後のほうで大きく一回転するようだ。
順番が回ってきていざ乗りこむと、急にどきどきしてきた。冷静に考えるとこれって実はすごく怖い乗り物じゃないのか? と係員に安全バーを下ろされながら思う。だって体を支えるのはこの頼りないバーだけだし、もし何かの誤作動でバーが解除されてしまったら、数十キロの速さでぽーんと投げ出されてしまう。
それにもしあの一回転するところでコースターが止まりでもしたら、十数メートルの高さから地面に叩きつけられてしまう。
そう考えるとこんな乗り物に好んで乗る人間の気が知れないが──もう遅い。コースターは動き出し、がたがたと音を立てながらゆっくりと最初の坂を上ってしまっていた。
高度がどんどん上がっていく。
まるで首吊り台の階段を上る囚人のような気持ちだった。
どう考えてもこれは罰だろう……。
そしてそんなごちゃごちゃした思考は、コースターが頂点から落ちるとすべて吹き飛んだ。
後ろの女性がガラスを引っかくような悲鳴を上げた。
全身に風を感じる。内臓がぐっと押し付けられて息が止まる。景色を見る余裕なんてない。どこを見たらいいのかもわからない。
隣の花ちゃんを見る。
花ちゃんも俺と同じように怖がっているかなと期待したが、花ちゃんは両手を上げて、大きく口を開けて笑っていた。
そんな顔もするんだ、と思った。
花ちゃんは全力でジェットコースターを楽しんでいた。
なのに言い出しっぺの俺がびくびくしていてどうする。そう思い、俺も腕を上げた。
コースターが一回転した。
世界がひっくり返った。
空が下にあって、人や緑や他のアトラクションが上にあった。
そんな景色を見たのは生まれて初めてかもしれなかった。
コースターから下りると「楽しかったですね」と花ちゃんが言った。俺は「そうだね」と苦笑した。
次はお化け屋敷に入った。
入口の看板に、心臓の弱い方はくれぐれもご注意くださいと書かれていた。
不気味な明かりに照らされたのれんをくぐると、おどろおどろしい空間が待ち受けていた。
なかなか雰囲気はよかった。
さてさてどんなお化けが出てくるやら。
まあ、どうせ大したものじゃないだろう。
怖がらせようと作っているのはわかるのだが、しかしここは小学生でも入れる場所だ。いくら頑張ろうが、出てくるお化けは所詮子ども騙しに過ぎないだろう。ここは一つ大人の余裕を見せたいところだ。
絶叫系では花ちゃんに軍配が上がったが、今度はそうはいかない。俺にもプライドというものがあるのだ。そう勇んで前を行く俺だったが、数十秒後、俺の本気の悲鳴が響き渡った。
やっとの思いでお化け屋敷を出た頃には、俺は号泣する寸前まで追い詰められていた。九死に一生を得た気分でいると「三嶋さん、怖がりすぎです」と花ちゃんに笑われた。お化けより俺の悲鳴のほうにびっくりしたらしい。
「何で花ちゃん大丈夫なの?」
「だって作り物じゃないですか」
「いや、そうだけどさ……」
何が心臓の弱い方はくれぐれもご注意ください、だ。
心臓の弱い方ならもれなく死んでいるだろう。何度心臓が止まりそうになったかわからない。
白い服の女が後ろから追いかけてきたところなんて、小便を漏らす勢いで怖かった。
「さあ、次に行きましょう」
ジェットコースターとお化け屋敷で何かのスイッチが入ったのか、花ちゃんは人が変わったように明るくなった。
いや、もしかしたらこの花ちゃんこそ本当の花ちゃんなのかもしれない。
──なんて、的外れもいいところだ。
本当も何も、すべてが花ちゃんなのだから。
色々と不思議な存在ではあるが、本質はただの十歳の女の子だ。
それだけは絶対に忘れてはいけない。
俺はふらふらになりながらも、彼女の隣を歩いた。
その後もバイキングに乗ったり空中ブランコに乗ったりと、絶叫系を中心に攻めていった。そのたびに俺の胃が引き締まったが、花ちゃんの楽しそうな笑顔を見られたのでよしとしよう。
気がつくと昼をだいぶ過ぎていた。
俺は屋台で買ったものを、白いテーブルの上に並べた。
熱くなった椅子に座り、いただきますと手を合わせる。
ホットドッグとカレーライスとフライドチキンとポテトとコーラの匂いが焼けたアスファルトの匂いと混ざり、食欲をそそった。
花ちゃんがポテトをかじる。ハムスターがひまわりの種を食べているようだった。俺はフライドチキンにかぶりつくと肉を引き千切った。
今の俺たちは周りからどう見られているだろうか。周りと同じように、家族に見られているだろうか。学校を休んで遊園地へ遊びに来た、父親と娘に見えているだろうか。
……くだらない、と思った。
ありえたことならともなく、ありえないことを妄想するのはただの自慰行為だ。俺はもう、そんなもので気持ちよくなっていい年齢ではない。
だが、そのとき自分がもう一人現れて、自慰行為、上等じゃないか、と言った。俺にはもう失うものは何もない。つまり何をしてもいいし、悲しまなくてもいいのだ、と。
コーラを勢いよく飲んだら気管に入った。
せき込む俺に「大丈夫ですか」と花ちゃんが言った。俺は大丈夫と涙目で言う。そう、まだ大丈夫のはずだ。
「……三嶋さん?」
今日だけで彼女に対する印象がだいぶ変わった。
彼女は大人しいだけの少女ではない。
見かけによらず絶叫マシーンやお化け屋敷が大好きな、普通の女の子だった。
笑顔をいっぱい見た。
その笑顔の隣にいられて、本当によかったと思う。
俺は顔を上げて「花ちゃん、次はあのコーヒーカップに乗ろうか」と言った。
花ちゃんの顔が太陽の光に照らされて、本当に輝いているように見えた。
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コーヒーカップでははしゃぎまくり、カップを限界以上に回した。ゴーカートでは華麗な運転テクニックが冴え渡り、何度も壁にキスをした。「三嶋さんって車の免許はお持ちなんですか?」と訊かれ「いや、持ってないけど」と答えると「でしょうね」と言われた。メリーゴーランドではさすがにはしゃがなかった。後ろの馬車を振り向くと、花ちゃんが恥ずかしそうに笑った。本物のお姫様みたいだった。巨大迷路では盛大に道に迷った。ギブアップ用の出口を見ながら頭を抱えていると、花ちゃんが横の壁を押した。そうしたらその壁が動いて道が現れた。軽快に進む彼女の背に、俺はついていくしかなかった。フリーフォールからは来るときに通った町が見えた。小さく、降りた駅も見えた。その向こうでは太陽が沈みかけて、空が橙色に染まり始めていた。花ちゃんもこの景色に見惚れているようだった。
そして俺たちは勢いよく落ちていった。俺は悲鳴を上げて、容赦のない落下と上昇を楽しんだ。




