1 『夏の幻』
公園は昔と変わっていなかった。
遊具や砂場の位置、公衆トイレの色──。
でも広さは違うように感じた。
昔より、狭く感じた。
水飲み場を見つけると、砂漠で遭難した人のように駆け寄る。そして蛇口をひねり、大きく口を開けて水を飲んだ。水は生ぬるかったが、今はそんなことはどうでもよかった。腹いっぱいまで飲むと、近くのベンチに座った。固い木製のベンチだったが、座り心地は良かった。
風が頬を撫でた。
公園には誰もいない。深呼吸をすると、ねっとりとした空気が肺に満ちた。
足が震えている。古本屋まではまだまだ歩かなければいけない。金がなくバスに乗ることも出来ないから、自分の足で行くしかない。
そこで、憂鬱が煙のように立ちこめてきた。
俺は本当に、あの古本屋へ行きたいのか? 別に時間を潰すだけなら、こうしてベンチでぼうっとしているだけでいいのではないか? 喉が渇いたら水も飲めるし……。母親と喧嘩なんかするんじゃなかった。
とにかく夜までは家に帰らないほうがいい。夜になれば母親もいくらか落ち着いているに違いない。
いや落ち着いていてもらわなければ困る。
俺が食事にありつけるかどうかはあの人の気分次第なのだから。
今日は失敗してしまった。俺は母親をなるべく怒らせず、ひっそりと生きていかなければいけなかったのに、つい口答えしてしまった。おかげでこのざまだ。
だが情けないとは思わない。
俺は夢を叶えるために、何としても生きなければいけないのだ。
……ずっと自分の殻に閉じこもっていたい。ひんやりと湿った石の下で、ダンゴムシのように這いつくばっていたい。
しかし世界はそれを許さない。
世界にはその石を容赦なくどけて、そのダンゴムシを無理やり日なたに引きずり出そうとする謎の勢力が存在するからだ。
止めてくれと思う。
ダンゴムシが犬のように走れるか?
鳥のように空を飛べるか?
昔は、走れると思っていた。飛べると思っていた。
だが現実は首を絞めるように少しずつ迫ってきて、俺から選択肢を奪っていった。もう俺に出来ることなんて数少ない。
しかし、それでいい、とも思う。
あれもこれも出来たら、きっとどれも出来ないまま終わってしまっていただろうから。
最後に残った、たった一つの《それ》さえ出来たらいい。そして《それ》が出来たら死んでもいい。《それ》を成し遂げるために俺は生まれてきたのだと、胸を張って死ぬ。
そんな素晴らしい死に方が、他にあるか?
──誰かが、公園に入ってこようとしていた。
俺はベンチから腰を浮かし、いつでも逃げられる体勢を取った。
世界は悪意に満ちている。油断していると思わぬところから攻撃を受ける。
だから世界は苦手なのだ。
侵入者は二人組だった。
母親と娘だろうか。手を繋いでいて、仲が良さそうな印象だ。
親子はこちらへ近づいてくる。
俺に気づいていないのだろうか?
もし俺が凶暴な野獣だったらどうするのだろう。
自分たちが攻撃の対象となる可能性を、まったく考えていないのだろうか。
ふと少女のほうを見て、天使が俺を迎えに来たのかと思った。
少女は可憐さを凝縮したような笑みを女性に向けていた。
愛らしさを感じ、懐かしさに殴られたような気になった。
記憶が勝手に再生される。昔のことは出来れば思い出したくない。あの頃の俺が今の俺を見たらどう思うだろうか、と考えてしまうからだ。
しかし思い出の洪水は止まらない。
駄目だとわかっていても、自分の意志では止められない。
小さな虫が光に吸い寄せられる気持ちがわかる。
温かくて、きらきらしたものに、ただの命が抗えるわけがないからだ。
女性のほうと目が合った。
彼女は訝しげな顔をした。
当たり前だ。公園に入ったら汗だくの男が娘をじっと見ているのだから。のん気に懐かしさに浸っている場合ではない。俺は自分が悪い存在になる前に逃げようと立ち上がる。そこへ女性が探るように、しかしある種の確信に満ちた声で、言った。
「もしかして、なっちゃん?」
俺はよく訓練された犬のように動きを止めた。
心の一番奥が揺れていた。
そんなはずがない。
彼女がここにいるはずがない。
しかし俺をそう呼ぶ異性なんて、この世に一人しかいなかった。
「……花ちゃん?」
人違いであってほしかったし、人違いであってほしくなかった。
「やっぱり、なっちゃんだ」
彼女の顔が、より光に照らされた。
「久しぶり」
それは間違いなく花ちゃんの笑顔だった。
「……久しぶり」
まさかこんなところで再会するとは思ってもみなかった。
「元気だった?」
「まあ、何とか」
声がかすれていた。しばらく使っていないからか、喉が整備不良を起こしていた。
「今は何をしてるの?」
一瞬の沈黙の後「小説家を……」と俺は答えた。
彼女はそれを聞くなり「すごい! 夢を叶えたんだね! おめでとう!」とますます笑顔になった。
だから俺は、目指しているんだけど、という続きを言えなかった。
「どんなの書いてるの?」
「まあ、色々と……」俺は目をそらした。「花、さんは、今何をしてるの?」昔のようには呼べなかった。
「さんなんて付けなくていいよ。何か変な気分」と花ちゃんは笑った。「私は、ママやってるよ」
彼女の手の先を見た。
小さな少女と、目が合った。
「……すごく、似てるね」
「そうだね。最近ますます似てきたなあって思うよ」
彼女は「ご挨拶しなさい」と少女に促した。少女が「初めまして。小田桐花です」とわずかにお辞儀をした。
綺麗で長い黒髪は母親ゆずりだった。細くて、触れたら花のように折れてしまいそうだ。訊くと小学四年生らしい。俺が花ちゃんと離れ離れになった頃と同じだった。
「可愛いでしょ」
彼女は自慢げに言った。
「……うん、本当に、可愛いね」
少女は顔を赤くして、母親の後ろに隠れた。そして母親の手を引っ張る。その娘のいじらしい感じに彼女はくすっと笑って「じゃあなっちゃん、私たちは行くね」と穏やかな声で言った。
「今度ゆっくり話そう。昔と同じところに住んでるから、よかったら遊びに来てね。家の場所、覚えてる?」
俺は覚えていると答えた。
忘れるはずがなかった。
「よかった。じゃあまたね」
手を振りながら歩いていく彼女。すると、娘のほうも手を振ってくれた。小さな手がひらひらと、まるで蝶のように舞った。
俺は二人の姿が見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を見つめていた。
一人になると、大きく息を吐いた。
蝉の声が、よりうるさく聴こえた。
またベンチに腰を下ろす。
そして、時間について考えた。
少女は自分の名字を、小田桐だと言った。つまり今、花ちゃんは綾瀬花江ではなく、小田桐花江なのだ。
俺が知っている花ちゃんは、もういないのだ。
立ち上がると、もう一度水を飲んだ。ぬるい水がするすると体に入っていく。そして顔を上げたとき、俺は自分が泣いていることに気づいた。
●
古本屋は潰れていた。
いや、古本屋だけでなく、記憶にある他の店や建物があらかたなくなっていた。
代わりにあったのは死の塔のようにそびえ立つマンションたちだった。
駅前も変わっていた。ひと昔前までは閑散としていた駅前は綺麗に整備され、バスやタクシーが多く停まっていた。
足もとがぐらつく。
まるで自分だけが時の流れに置いていかれたように感じた。
俺は引き返すと、他の居場所を求めて、あてもなく歩き出した。