case3.cigarette butt
死がふたりを分かつとも、何人たりとも、どんな困難でさえも自分達ならば乗り越えていけると思っていた。
それこそ、病める時も、健やかなる時も。
最初の切っ掛けなんて多分、他愛のないものだった。
だから、その時もまたすぐに、いつもの様に仲直りが出来るものだと、そう思っていた。
時期や環境、その他諸々の変化が、人の人生を左右するのは世の理。仕方の無いことである。
きっとその時の私達には、喧嘩を長引かせるつもりなんて更々無かった筈だ。
ただ、あの時、あの瞬間から、何故だか昨日まで許せていた事が許せなくなってしまっていた。
仕事の疲れ、季節の変わり目、人付き合い、生理。
日々のストレスに苛立ちが隠せなくなっていた。ひりついた空気は日に日に状況を悪化させ、気づいた時には不満という形で爆発していた。
口論に次ぐ口論。悪態の応酬。醜い喧嘩。
手は出なかったものの、毎日一時間を優に超える大喧嘩を繰り広げていたと思う。
感情のあまり泣くこともあった。相手を許すことができなくて、無視して、無視して、無視をしていたら、いつしか目を合わせることも出来なくなっていた。
あんなに好きで一緒に居たのに、互いが誰よりも遠い存在になってしまっていた。
険悪な空気が嫌で、家に帰らない日もあった。それは相手も同じで、一日中、部屋に明かりが灯らない日もあった。
私達は、何をそんなに怒っていたのだろう。
何故、そんなにも許せなかったのだろう。
その答えは今もまだ理解できないままだ。
「ねぇ」
ヒステリックに喚いて、泣いて、暴れて物を巻き散らかした部屋の隅で私は膝を抱えて座っていた。
その対角線であの子も疲れた顔をして、壁に背を預けて項垂れている。
もうどちらも何を語る元気も、何をする気力も無くなっていた。
ああ。もう終わりなんだな。
そんな思いが胸にストンと落ちてきた。
泣き腫らした目は赤く、瞼は熱を持って腫れぼったい。
多分、今の私はかなりの不細工なんだろうなぁって、自嘲を浮かべてしまう。
あんなに調和をしていた私の趣味に合わせた可愛いパステルカラーの食器と、あの子の趣味に合わせたシンプルでモノクロな家具は、今は何もかも不協和音を奏でて、幸せだったこの部屋での思い出を全て醜いものへと塗りつぶしていく。
「こんなんじゃ、ダメだよね」
やっと言葉を交わし始めた。最初に切り出したのは私。
あの子はそれに応えて静かに頷く。
「このまま一緒にいても、お互いに傷つけ合うだけよ」
もう相手の嫌な所にしか目がいかなくなった。
好きだった所が見えなくなって、好きだった筈の何かはどこかへと消えてしまって、思い出せない。
嫌いになったわけじゃない。と思う。多分。絶対。
言うならば、好きだと思えなくなった。のだと思う。多分。そう。
「ごめんね……」
「ごめん」
あの子が思い腰を上げ、ゆっくりと私へと近づいてくる。
ふわりと、そんなあの子から漂ってきたのは、随分と昔に止めたはずの煙草の匂いだ。
苦いくせにどこか甘くて、私はこの匂いが嫌いだった。
『嫌なら止めるよ』
そう言って止めてくれたのに。
(……これで終わりだ)
少し前まで愛していた。この部屋で何度一緒に笑って、抱き合って、どれほどキスをしたのか、数えるのも馬鹿らしい。
このままずっと、おばあちゃんになるまで幸せに暮らせると思っていたのに。
死がふたりを分かつまで、一緒に居られると思っていたのに。
(……好きだったわ)
本当に好きだった。
だから、いつかまた、この自分の置かれた状況が、自分を取り巻く環境が、そしてこの心の整理がついたなら、以前のような二人に戻れるのかもしれない。
なんて、都合が良すぎるだろうか。
ゆっくりと降りてくる唇に目を閉じる。
(……にがい)
煙草の苦味とバニラの甘い香りに、私はそっと眉を寄せた。
あんなに好きだったあなたとの最後のキスは、
私を嫌うあなたの拒絶と、私の嫌う甘くて苦い煙草の味で、
ほんと、笑っちゃうほど最悪なキスだった。