case1.rainy day
あなたとの最後のキスは、最初のキス。
その日は朝から雨が降りそうで、振らなくて。高い湿度と厚い青灰色の雲に、誰もがモヤモヤと苛立ちながら過ごしていた。
何故、その日にしたのかは分からない。
特別な日ではなかった。誕生日でも祝日でも、ましてや何かの記念日でもない。
ただ、何ともない、普通で平凡な日を選んだ。
雨が降りそうで降らない。降水確率は40%だって、朝のニュースでは言っていた。
40%なんて当たるも八卦、当たらぬも八卦な信じるにも値しない、“もしかしたら” の曖昧な確率で、だから私は傘なんて要らないと高を括っていたのだ。
「好きです」
勇気と無謀は違う。この恋を知れば、人は必ずそう言うだろう。
顔見知り程度の認知度で、相手の事など知れる程度しか知れず、相手は自分のことなど何も知らない。
『そんなのが恋であるはずがない』
『その“好き” は軽すぎる』
誰もが口を揃えてそう言った。
初めて会った時から、ずっと、たった一年と言う短い期間でも、私は彼女が好きだった。
ずっと目で追っていた。彼女をずっと見つめていた。
彼女を知りたいと、知り得ることは何でも調べた。
それは。その心と行動は、一体、他の恋する人達と何が違うと言うのだろう?
誰かが言った。気持ちには、好きという感情には、重い軽いがあると言う。
大きい小さいがあると言う。
強い弱い。長い短い。上と下。
一体、誰と比べているのか。
一体、誰と比べられているのだろうか。
言われれば言われるほど、諭されれば諭されるほど、罵倒されれば罵倒されるほど、私は悔しくて、苦しくて、悲しくて……。
それでも、やっぱり、どれほどこの気持ちに優劣を付けられようと、私は彼女が好きなのだと胸を張って言った。自分では誇れるくらい大きな気持ちであると、そう思ったのだ。
「ずっと好きでした」
でも。現実はそうじゃない。
「……ごめんなさい」
彼女は私とは違った。当然だ。仕方ない。
名前すら覚えていない知らない他人からの告白など、受け入れ難いのは分かっていた。
分かっていたはずなのに、心が割れるほど痛くて、苦しい。
「あなたのこと、何も知らないから」
「これから知る……じゃダメですか?」
「あなたのこと名前すら知らないの」
「これから知れば良いじゃないですか」
知らない、は振られる理由にはならなくて、私はしつこく、醜く、無様に彼女に食い下がる。
それがどれだけ相手の迷惑になるか、分かっててやったのだ。
必死になって、その時口にした言葉が彼女をどれほど困らせるか、それも分かっていて口にした。
嫌われてしまうことも。それも理解した上で。
「ごめんなさい」
少し強めの語句に、私が、ではなく彼女自身が傷ついた顔をする。
本当は私が、勝手に好きになってごめんなさいと謝るべき所なのだろう。
けれど、私は何も悪くない。
だって、好きという気持ちは決して悪意ではないのだから。
だから悪くない。悪いことじゃない。そう最後の最後まで自分の中で言い訳をして、醜く足掻いて見せた。
「じゃあ」
でもね。好意は悪意に変わることもある。
それは哀しいかな。受け取る側がそう捉えれば、そうなるし、
自分でもそれは悪いことなのだと理解出来るほどの悪意だって存在する。
それでも、良かった。最初で最後の悪行でも良い。嫌われてもいい。憎まれても良い。
身勝手に、最後に大きな傷を双方に残してもいいと思った。
「キスして下さい」
彼女は驚きと同時に動揺した。
好きでもない相手とキスなんて出来るわけがないと思ったのかもしれない。
「これで、終わりにしますから」
もうあなたを追うことはしません。目も、足も、心も、あなたをもう探したりはしないから、最後にこの想いを遂げさせてほしい。
その願いはとても狡くて、厭らしい、相手を追い詰めるだけの願いだ。
「……」
ああ。ついに雨が降ってきた。
最初から強く。怒りに任せて。
鞭打つように。雨粒は大きく、重く、私の身体に打ちつける。
「……」
彼女が何かを口にした。
私は雨の音が煩くて、何も聞こえていなかった。
彼女の体が動く。私はどんな顔をしていいか分からず、ただ彼女を見上げた。
「さようなら」
その言葉を声にしたのはどちらだっただろう。
雨がうるさい。耳も頭も心臓も、痛くて痛くて堪らない。
たくさん濡れた。特に顔がたくさん濡れて、拭う意味さえ失う程、たくさん濡れて――
空を仰いで、声の限り何かを叫んでみたけれど、
力の限り、泣き声をあげてみたけれど、雨音はそれ以上に大きくて、
私の気持ちも、私の声も、彼女から遠ざけて掻き消した。
それ以来、私は雨が嫌いになった。
雨なんて大嫌い。その音も、その冷たさも、その味も。
だって。あなたとの最後のキスは、雨の味がしたのだから――