無の思い出
私の目の前は暗かった。
いろんな方角を向いている筈なのに、明るいところはなかった。
どこを向いても黒、黒、黒。
刺激の無い暗い世界に私はいた。
どうしてここにいるのか、ここがどこなのか、今まで何をしていたのか。
思い出そうと考えるより先に、不安が頭を覆いかぶさっていく。
その不安は、目の前の景色と一緒に消え去った。
真っ暗だった風景は、まるで晴れていく霧のように薄くなり、草木の生い茂る温かな緑園へと姿を変えたのだった。
その風景にどこか懐かしさを感じた。
遠い昔にここに来たことがある、そんな気がしたのだ。
「懐かしいと思わない?」
背後から声が聞こえた。
その声は透き通っていて、ハープの音色のように柔らかかった。
振り返ったその先には、白いキャミソールとワンピースを纏い、オパールを溶かしたような白い髪色にアメジストを磨いたような深い紫色の瞳の女性が素足で立っていた。
「……アナタは?」
その女性に見覚えはないが、その容姿に酷似している女性を、私は知っている。
こんな特徴的な容姿をした人間はそうはいない。
それが女性となれば、私の記憶に浮かんでくる人物は一人しかいない。
「私? 私の名前は───アリシア」
「……アリシア」
その名の人物を見たことはない。
だが、学校の魔法歴学の授業で必ず名前がでてくる。
魔法というものを生み出したされる偉人と紹介されることもあれば、世界に大災害を巻き起こした悪人として紹介される時もある。
我々魔法使いの間では前者だが、世界では魔法に排他的な人が多い故に後者が圧倒数を占める。
「千年程前にいたかどうかも怪しい人物の名を騙るなんて馬鹿にしているのでしょうか?」
「信じるかどうかはアナタ次第よ。それに私の存在を肯定して欲しくて私はここにいるんじゃないの」
彼女はそういうと私との距離を徐々に縮めていく。
そして、再び私の背後に回る。
「この景色、アナタは見覚えがあるんじゃないの?」
そう言われて私は周りを見渡す。
確かに私はこの景色を懐かしく感じた。
でも、どこで見たかまでは記憶に無い。
「私は……私はこの景色に見覚えはないです」
そう、と彼女は呟いた。
彼女はその紫の瞳で私を見つめる。
まるで蛇に睨まれた蛙のように私は身体を動かせなくなった。
私は嘘は言ってない。
でも、この懐かしい気持ちはなんのだろう。
ふいに彼女の隣に少女が現れた。
自分と同じ夕焼け色のような燃える緋色の髪を首まで伸ばし、灰色のブラウスと水色の灰色のスカートに身を包んでいた。
「アナタは大事なものを忘れているわ。この景色も、この娘のことも」
そのとき、世界は崩壊を始めた。
緑園は徐々に泡となって消えていき、世界は闇を取り戻していく。
「アナタが思い出さない限り、『白き世界』は牙を向く……」
世界の半分が黒く染まった。
全てが黒くなったらどうなるのだろう、という不安が私の心を掻き乱した。
「ちょ、ちょっと待って!!!」
二人の姿が掠れていく。
追いかけようと走っても、距離は縮まらない。
「待って……」
知らない少女なのに、知らないはずなのに、消えてほしくなかった。
あの少女が大切な人なのだと、記憶は知らなくても心は分かっていた。
「待って、お姉ちゃん!!!!!」
無意識に叫んでいた。
呼ばれた少女、姉が微笑んだ。
「やっと思い出してくれたんだね。じゃあ、もう大丈夫!
でも、もうお別れだね……」
そう言って姉は隣の女性、アリシアと共に闇に溶けていった。
「あっちの世界でもよろしくね。」
一人取り残された暗闇の空間に姉の声が木霊する。
そして私の意識は光に包まれていった。