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エッチとスケベ

 黒田が登板回避? どういう事だろう。紗綾の話によると黒田が好投したはずである。


 初めて密室殺人のミステリー小説を読み始めた少年のように僕は混乱していた。





「へー。そりゃ大変だ。いいかヒロ、しっかり俺の目を見て俺の話を聞くんだぞ。お前の体験している事は確かに不可解極まりない。でもな、全て夢の中の話なんだぞ。そう! 言うなればおとぎ話の世界だ。あんまり悩み過ぎるのもなんだと思うけどな」


 今は金曜日の昼休みである。親友の諒太が僕を諭さとすようにそう言った。


「そうだな。確かに夢だもんな」


「まあ、心配するな。なにせお前にはこの名探偵『明智諒太』さまがついてるんだからな」


 諒太はそう言って厚い胸をピンと張ってみせた。


「ありがとう、諒太。でもお前、明智じゃなくて斎藤さんだよな」


「あ、うん。斎藤さん……だぞ」


 三・四年前は毎日のようにテレビに出ていたお笑い芸人の真似をした。そろそろ『あの人は今?』という特番に取り上げられてもいい頃である。僕は特に面白い芸人だとは思わなかったけれど、妹の結菜はお腹を抱えて笑っていた記憶がある。


「Hey, guys. そんな顔して What's up?」


 なんで混合言語なんだよ。英語とスペイン語を混ぜたスパングリッシュてのは聞いた事があるけれど、流石にジパングリッシュはねえだろ。


 もちろん、このジパングリッシュの使い手は京香である。


「どうしたもこうしたもねえよ。ヒロがさあ、黒田の値が高騰して掃除当番を会費制にしたとか、訳わかんねえ事言い始めてさあ」


 頭の回路をどう繋げばそれだけわざとらしい間違いができるのだろう。


 しかもどうやったら黒田が高騰すんだよ。黒田は円やドルじゃねえっつうの!


「お前は馬鹿か」と僕は呆れ顔をした。


「馬鹿ってなんだよ、馬鹿って!」


「馬鹿だから馬鹿って言ってんだよ!」


 諒太と僕の会話に業を煮やした京香はテーブルに両手をどんとつき、僕に向かって身を乗り出してきた。


「ちょっと! 最初から説明してよ。どういう事?」


 僕は目の前で大きく開いた胸の谷間にうっかり目をやってしまう。


 僕の視線に気づいた京香ははっとした表情をした。慌てて胸を右手でふさぐとすっと椅子に腰を下ろす。


 そして睨むように横目でちらりとこちらを見た。


「見たでしょ」


「見てない」


「見たね」


「見てない」


「……」


「……」


 ほんの数秒沈黙が流れた後、僕たちは同時に口を開いた。


「見たね!」「見てない!」


 また重い空気が流れる。諒太以外は。


「ん? お前ら、どうした? 見たとか見てないとか」


「ヒロの……エッチ」


 諒太の声など一切聞こえなかったかのように京香はぼそりと呟いた。


「ヒロがエッチ? どゆこと? まさか、ヒロ、お前。京香のおっぱい見えたのか? チキショー! 俺も見てー!」


「うるさい! 諒太のスケベ!」


 京香が諒太の頭をバシッと叩く。


 僕がエッチで諒太がスケベ。この差はなんなのだろう。そんなどうでもいい事を考えていると再び京香が本題へと戻す。


「で? 黒田がどうしたって?」


 僕は京香に事最初から実を伝えた。





「なるほどね。好投したはずの黒田啓一投手が好投どころか投げてさえいなかった訳ね。でもそれってさ、日にちが少しずれてるって事かもよ」


 日にちがずれてる。確かにそうとしか考えられない。そして僕はつい余計な事を口走ってしまう。


「そうそう。それにさ、紗綾の家に代々受け継がれてきたっていう日記が僕の部屋にあるんだけどさ、僕がその日記に何かを書くと紗綾が返事を書いてくるんだよ。あれがまた不思議なんだよね」


「そんな訳ねえだろ。まあ明日お前ん家に行った時にでも見せてくれよな」


 諒太の言葉に僕ははっとした。しまった。なんとか最初のページだけは見られないようにしなければ。





 その夜、僕は寮母さんの作ったハンバーグを食べた。あまりに美味しくて、急遽食事をキャンセルした寮生の分のハンバーグまで食べさせてもらえた。


「寮母さん、ご馳走さまでした。こんな美味しいハンバーグの時にキャンセルで余ったなんてラッキーです。お腹苦しいくらい食べちゃいました」


「岡君が食べてくれてよかったわ。お粗末様でした」


 部屋に戻り、 諒太と京香の前で余計な話をしてしまった事を後悔しながら赤ワインを揺らす。


 ――日にちがずれている。かあ。


 今日は二〇一九年七月五日の金曜日である。そうだ、野球の結果を確認しておかなければ。そう思い夜のニュースをみる為テレビのリモコンを押した。


 スポーツコーナーが始まり僕は食い入るように画面に注視した。けれど、一年後に控えた東京オリンピックでメダルを期待されている選手の特集が組まれており、野球の情報はまだ始まらない。


 僕は二杯目のワインを注ぎその時を待つ。


『続い……てはプロ野球のぞうほう……情報です』


 不馴れな新人女子アナウンサーががっつり噛みながらプロ野球コーナーへと移っていった。


 広島対阪神の試合は、広島のエース野村が好投し勝利したようだ。阪神の鳥谷監督は「今日の野村君には手も足もでなかった。また明日、今日の反省を活かして戦います」と言葉少なに報道陣の元から去っていった。


 僕は日記を取り出し紗綾へ向けて鉛筆を走らせる。



 ▽ ▽ ▽



 紗綾、今日って七月五日だよね? 


 カープ勝ったね。野村投手が好投したみたいだね。


 おめでとう!



 △ △ △



 そう日記に書いた直後、僕のお腹の異変に気づいた。食べ過ぎである。僕は鉛筆を耳に挟み、日記を抱えながら部屋を出た。各部屋にトイレはついていない。共同トイレなのだ。


 トイレに駆け込み個室に入る。普段個室にこもる時はスマホをいじって時間を潰している。けれどそのスマホは部屋に置き忘れ日記を持ってきてしまったのだ。


 僕はさっき書いたページを開く。するとすでに紗綾から返事がいていた。



 ▽ ▽ ▽



 変な質問するのね。七月五日だよ。


 今日は野村さんが頑張ってくれました。イェイ!


 最後はストッパーの中崎さんがしめて、中日相手に四対一で快勝!


 今年こそ優勝だー!


 また後で逢おうね。



 △ △ △



 確かに七月五日と書いてある。日にちがずれている訳ではなかったのだ。


 しかも中日? 阪神じゃなくて?


 僕は何がなんだかわからなく、ボーっとしながら部屋へと戻っていった。


 ベッドに横たわり紗綾の事を考えた。次第に眠気に襲われ眠ってしまったようた。


 翌朝、夢を見なかった事に、僕は気づいた。

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