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さて、あの一件があってからの翌日である。
俺は両腕に大穴を開けるような大怪我を負っており、本当ならば何針も縫ってしばらくは安静にしていなければならないような状態だっただろう。
無事元通りに腕が治るかもわからない、まず間違いなく傷跡が残り、最悪手に何かしらの後遺症が残ったかもしれない。少なめに見積もっても入院沙汰であるはずだった。
だが、次の日には普通に学校へと向かっていた。
(どうして、こんな事になったのか……)
家からバス停に向かう途中に、今現在になっても昨日起こったことが理解できていなかった。
無事に傷口が塞がっている両腕を見ても、現実味がない。
全てが夢だったのだとしたら、どれだけ理解がしやすい事か。
しかし残念かな現実である。
冷静になって思い出してみよう。
あれは昨日、家まで戻ってきた後――
****
「う、ぐ……」
リコに抱えられて、家まで戻ってきた俺たち。
悪魔を倒したとは言え、状態は無事とは言えなかった。
すでに血を流しすぎていたのか、俺の意識は大分ぼんやりしており、前肢どころか肩から先の感覚がもうない。
「鉄太さん、大丈夫ですか? しっかりしてください」
リコの声が大きな耳鳴りのようになって聞こえる。
返事をするような気力もなく、俺は居間のソファに寝かされた。
「鉄太! 大丈夫!? 寝ちゃダメよ!」
愛菜の声もボンヤリとだが聞こえる。
心配するな。大丈夫だ。そう言ってやりたいのは山々だが、口を動かすのも億劫だ。
「いけない、このままじゃ……愛菜さん、少し下がって!」
「え、でも……」
「早く!」
鬼気迫った感じのリコに気圧され、愛菜はソファから少し遠ざかる。
代わりにリコがもう一歩、ソファに近付いた。
「鉄太さん。これからあなたの英雄力を使って、あなたを超人化します。これからしばらくは辛い思いをするかもしれませんが、耐えてください」
「な、にを……」
この時はリコの言っている意味がいまいち理解できていなかった。
しかし、すぐに理解させられる。
「んむ」
「……はぁ!?」
俺の唇に触れる柔らかな感触。近い吐息、甘い臭い。
死の淵かと思われた俺の頭に、強烈な衝撃が届く。
「ちょっと、な、なな、なにやってんのよ!」
「ぷあ! これは救命行為です! 下がって!」
「呼吸は止まってないんだから、人工呼吸は必要ないでしょうが!!」
「いえいえ、これは人工呼吸ではありません。英雄の証たる私と、英雄候補である鉄太さんとの契約の証です」
「……いや、ちょっと言ってる意味がわかんないんだけど」
そうだ、愛菜。もっと言ってやれ。
「以前も話したように、私の姿や性格から、鉄太さんにも私を持つ資格のある英雄である可能性がありました。なので、これを機に、鉄太さんには正式に私のマスターになってもらおうかと思いまして」
「それと救命行為とどう繋がるのよ!?」
「まぁまぁ、見ていてください」
ニヤニヤと笑って、リコが立ち上がり、寝転がっている俺の身体の上に両手を掲げる。
『世界の中心を成す英雄の力よ。人を形作る主をなくした剣よ。世界を繋ぎとめるため、彼の者へと宿りたまえ。世界を救うために、彼の者へと宿りたまえ……』
それはリコの呟いた呪文のような言葉であった。
日本語でなかったのは間違いない。だが、それでも俺には意味が理解出来た。
これも、預言書の力だっていうのか。それとも俺が英雄候補である事が関係しているのか。
それを考える前に、俺は急に訪れた強烈なまどろみに落ちていく事になる。
目が覚めたのは日が落ちきってからの事だった。
「もう夜か……ん」
昼間に起きた事は全部が夢だと思ったのだが、俺がソファで寝ている事、傍らに愛菜が居眠りしている事、そして……
「あ、お目覚めですか、鉄太さん」
笑顔のリコが俺の血でベタベタに汚れていた服を着替えていること。それらが昼間の事が現実であったのではないかと、強く感じさせる。
だが、それにしてはおかしい。
腕の傷が跡すら残らずに消えている。
「な、なぁ、リコ」
「夢現を彷徨っているのでしょう。ですが、あなたが昼間体験した事は全て事実です」
俺が質問する前に、真剣な顔をした彼女に答えられてしまった。
現実であった。
あれが、全て。
「じゃあ、俺は……」
「ええ、あのコウモリ男と対峙して生き残っているんですから、大したものです。やはり英雄の素質を持っていたのでしょうね」
「そんな大層なものじゃない。俺は……」
無我夢中だった。どうしても愛菜を守りたかった。ただそれだけだったのだ。
別に使命感に駆られたと言うわけではない。俺がしたい事をしたら、そうなった。
とはいえ、今となっては現実味がない。
あのコウモリ男と戦った証拠の一つだったはずの傷跡が綺麗サッパリなくなっているのだ。
リコはああ言っているが、本当だったのだろうか?
「なぁ、リコ」
「お話は後にしましょう。もうそろそろ夕飯の時間ですよ」
勝手に台所に立っていると思ったら、そういう事か。
暖かい食事が並べられたダイニングテーブル。
しかし、そのほとんどが冷凍食品なのは何故だ……。
「いや、すみませんけど、私には料理機能はついてないですから」
「なんだよ、自信満々で台所に立ってたくせに」
「これなら私が作った方が良かったかもね」
俺の隣に座っている愛菜もどこか渋い顔をしている。
「な、なんですか、二人して! これでも頑張ったんですよ!」
「頑張った形跡が、白飯を炊いた所ぐらいにしか窺えない……」
「ヒドい! 鉄太さんは冷凍食品を解凍するのに愛が要らないと仰いますか!」
「レンチンに愛が注げるなら大したもんだな」
不貞腐れるリコを弄りながら、俺は目の前の冷凍食品のコロッケを食べる。
うん、普通に冷凍食品。工場で作られた愛を感じる。
「それよりも、リコに色々説明してもらうんでしょ? さっさと話を進めましょう」
「そうですね。私の料理の腕は横に置いておきましょう」
愛菜に話題を変えられ、まんまとそこに乗っかるリコ。
まぁ、これ以上突っ込んでもリコが心に傷を負うだけだからな。
「じゃあまず、俺の傷が治ったのはどういうことなんだ?」
「それはですね。鉄太さんを英雄化したんです」
「英雄化……これがあの、肩こり腰痛に効くと言われる英雄化か……」
「そんな効能はありません。中途半端に説明を端折ってしまったのは謝りますから、変なボケ挟まないでください」
「ふむ、わかればよろしい。続けて」
偉そうな俺の態度に若干イラッとしたのか、リコは珍しく眉間にシワを寄せてから一つ咳払いを挟む。
「こほん、それでは英雄化とは何か。それをご説明しましょう。そのためにはまず、英雄力から知っていただく必要があります」
「英雄力……」
コウモリ男と対峙した時、頭の中に響いてきた声も言っていた。
あれが俺に宿っているらしいが、それは一体どういったものなのだろうか。
「英雄力とは……まぁ、私もいまいち良くわかってないんですけど、英雄たる資質らしいです。今後、英雄として大成する可能性があるよ、的な」
「随分ふんわりとした説明だな、おい」
「そう言うモノがある、と言うことしか知識としてはないんですよ。ですが、私を含め色んな存在が英雄力を感じる事が出来ます。例えば、お二人が見てきた悪魔たち。あれらも英雄力を感じ取る事が出来るでしょう」
「うーん、つまり、気とかオーラとか霊圧みたいなものってことかしら?」
「愛菜、その喩えは的確かもしれないが、チョイスはどうかと思う」
気やオーラはまだ普遍的だとしても、霊圧てお前……。
「挙げていただいたものの、どのように取っていただいても多分、想像からは離れないでしょう。特殊な人間が持つ、特殊な能力の原動力。それが英雄力だと言われています。これが高ければ英雄として大成、もしくは大悪党として名を馳せるでしょう」
「特殊な能力って一言にいうけど、俺は何が出来るようになったんだよ? 空を飛べたりするのか? まさか傷が早く治るってだけじゃないだろうな?」
「もちろん、鉄太さんの治癒能力は付随能力だと思って良いです。本質はまた別――私のマスターである事が最大の能力だと言って差し支えありません」
「リコのマスター……?」
「以前にも話した通り、私は英雄の証です。その使命は悪を討ち、世界を救う英雄の剣となる事。そのためのサポート機能がガンガン積まれております」
「た、例えば?」
「治癒能力の向上もその一環ですね。他にも振るった事もない剣で戦う術のインストールや、鉄の塊をブンブン振り回してもバテない体力、そもそも剣を振るう筋力など、悪魔と戦うための力がどんどんインストールされます」
「なんか、パソコンの初期設定みたいだな……」
「あ、もちろん、鉄太さんが不必要だと判断した能力はアンインストールも出来ますから!」
ますますパソコンチックだ。
なまじインストールなんてパソコン等で使われる用語を使用されているからいかんのだと思う。ここは英雄の力を手に入れたファンタジーっぽく……エンチャント、とか?
「鉄太さんはあなたの中にあった英雄力を使って、私のマスターとなったのです。英雄力はそのための資格であったと考えても良いでしょう」
「するってーと、俺はお前を使って悪魔と戦う運命にあったから、英雄力とやらが高かったってことなのか?」
「英雄力はその人物が経てきた経験によっても上下しますから、悪魔と戦うような過酷な運命にあったと言うよりは、鉄太さんが行ってきた行動によって英雄力が高まった結果、マスターとしての資格が満たされたのではないかと」
なるほど、英雄力とやらは後天的に備わる可能性もあると言う事か。
「じゃあ、愛菜はどうなんだよ? コイツには英雄力とやらはないのか?」
「そうよ。リコを呼び出したのは私よ? 私の呼びかけに応じたのなら、私がマスターになってしかるべきじゃない?」
「ふぅむ……私も最初は愛菜さんの方が英雄力が高いと思っていたんです。きっとそこそこどえらい事件に巻き込まれた経験がおありだと思うんですが」
「マジかよ、愛菜。強盗の人質とかになったっけ?」
「そんな危なっかしい橋は渡ってないわよ! ……でも、どえらい事件か」
顎をおさえてフムと唸る愛菜。
何か心当たりがあるのだろうか? 俺はコイツと長いこと付き合いがあるが、そんな場面に出くわしたような話は聞いていない気がする。
「なんかあったのかよ?」
「うーん、秘密」
「……は?」
「乙女には秘密の一つや二つ、当然のようにあるのよ」
なにいきなり乙女気取っちゃってんのコイツ。
いや、確かに乙女ではなくても秘密の一つ二つはあるだろうが、ここで秘密を作る意味がよくわからん。
あー、やめろやめろ、愛菜とリコで『ねー』って言いながら首を傾げるな。挙動がイラつく。
「まぁ愛菜さんの英雄力が高かったとしても、この短期間で鉄太さんの英雄力が愛菜さんのそれを上回り、私のマスターとしての資格を得まして、更にのっぴきならない事情もありましたから、突発的にマスターに仕立て上げた、と」
「そののっぴきならない事情とやらが、俺の腕に空いた大穴ってワケか」
実際、あの怪我を放置していれば俺は重大な後遺症を負ったかもしれないし、のっぴきならないと言えばそうだろう。
リコのマスターになったことで治癒力が高まり、異常な速さで怪我を治していなければ、何日も何週間も入院し、リハビリする事になっていただろう。それを回避できたのなら御の字か。
「はい、質問」
「はい、愛菜さん」
「そのマスターって、私はもうなれないの? 別に、二人で剣を扱ったって良いじゃない?」
「チッチッチ、愛菜さん。優れた騎士は二君に仕えませんよ。私のマスターは一人に限られているのです。……ですから、本当は鉄太さんの意見も聞いたりして、もっと慎重に選ばなきゃならなかったんですけどね」
「まぁ、鉄太みたいなんがマスターだと苦労しそうよね」
「え!? あ、いやそういう意味じゃないですよ!? ホント、これっぽちもそんな事は思ってないですから! これっぽちも!!」
「適度に俺を貶めるのはやめろ。繰り返す、適度に俺を貶めるのはやめろ」
メンタルを抉る女子特有の連携攻撃に、俺は腕に空いた穴よりも重大な傷を負いそうだった。