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どうやら解放されたらしい、と確信した頃には既に夜に近い時刻になっており、空は濃紺の占める割合が多くなっている。
瞬く星もまばらに見えるようになっており、いよいよ風も冷たくなってきた。
「まだまだ寒いなぁ」
コートの襟に顎をうずめながら、俺は帰路を急いだ。
バスを降り、バス停から歩いてすぐのところにある住宅街。その中の一軒家が我が家である。
近くに愛菜の家もあるのだが、幼馴染とは言え隣同士とかではなく、窓越しの着替えイベントに遭遇なんていうギャルゲめいたイベントは発生したりしない。ってか、そもそもアイツが隣家に住んでいるとしたら鬱陶しくて仕方ない気がする。
それに、愛菜の家はちょっとお金持ちだ。蔵なんかも持ってて、相応に家の敷地がめっちゃ広かったりする。そこその歴史もある家らしく、元は地主に近い立場だったとか何とか。
そこの一人娘がアレなんだからご家族の心境も慮られる……とは思ったのだが、かなり大らかな人達らしく、愛菜のあの様子にも寛容なのである。金持ちとは心の余裕も生むようだ。
そんな事を考えながら、俺は我が家のドアを開ける。
「ただいまー」
「あ、おかえり、鉄太!」
バタバタと足音がして、忙しなく動き回ってる我が母親。
「どうした、ゴキブリでも出たか」
「そうじゃないのよ! ちょっと急な用事でね!」
母親が手に持っているのは旅行カバンのようにも見える。
更に、そこに着替え等を詰め込み、まるで旅支度のようであった。
「旅行にでも行くのか。春休みも終わったって言うのに」
「違うのよ。そうじゃなくて、お父さんの急な単身赴任が決まったんだって」
「単身赴任……って事は、その荷物は親父の?」
その割りには女性モノの衣服が詰め込まれているように見えるが。
って言うか、どう見ても母親の服がカバンに詰め込まれている。
「お父さん一人じゃ大変でしょ? だから、私もついてく事にしたのよ。アンタは留守番ね」
「……は?」
「大丈夫。ちょっと一年くらい家を空けるけど、銀行の振込みはするから! お家賃の事や光熱費なんかも心配ないわ! アンタがちょこっと趣味に散財するぐらいのお小遣いも振り込むし、今、家にあるモノも好きに使って良いから」
「いやいやいや、ちょっと待て! 親父に家事能力がないのが心配なのはわかるが、俺も家事能力皆無だぞ! 俺は心配じゃないのか!」
「ふふふ……」
なんだコイツ、我が母親ながら気味の悪い笑顔を浮かべやがって。
「YOU! 愛菜ちゃんでも連れ込んじゃいなYO!」
「うっわ、ウゼェ」
言い方、表情、俺の脇腹を小突いてくる行動。全てがウザかった。
「だって、これだけの一軒家に、一時的ながら男子高校生が一人きりよ? こんなもん、女の子連れ込むしかないでしょ」
「その発想の突飛さがアレだわ。我が母親ながらアホだわ」
「我が子ながら何をオクテな事を仰っているのかしら。今日日、高校生なんか下半身に欲望が集中していてもおかしくないわよ。草食系男子が流行る時代は終わったわ!」
「だとしても親がいなくなった途端に女を連れ込むような男にはなりたくねーんだよ! って言うかアンタの世間に向けた偏見も相当なもんだぞ!」
この世の全ての男子高校生がエロい事ばかり考えていると思ったら大間違いだ。
そりゃ多少はそういう思考回路を持っているかもしれないが、百パーそれだけってワケではない。これは断じておこう。
「いやそれよりもだ。最初に言及すべき事があったわ。仮に俺が女を連れ込むんだとしても、愛菜だけは絶対に呼ばないからな!」
「あらー、なんでぇ? 愛菜ちゃん可愛いでしょ?」
「顔面の可愛さに惑わされて、あの電波ユンユンな思考した女をはべらせるような趣味なんぞ、俺は持ち合わせてないんだよ!」
「子供の頃は『愛菜ちゃんオヨメサンにするー』って言ってたのに」
「やめろぉ! 幼馴染特有の痛い過去話を持ち出すのはやめろぉ!!」
確かに過去にはそういう事実もあった。だが、時間は常に動いているのだ。過去を振り返り、傷口を痛ましく思うのはやめよう。
いやでも、子供の頃は愛菜もまだまともな思考をしてた気がする。
……あ、小学生の頃には今の感じを形成してた気がするから、多分、幼稚園くらいの頃まではまともだったんだな。そう考えるとまともな期間長短ぇ……。
「まぁでもなんにせよ、母さんはお父さんについて、単身赴任先へ引越しするから。これは決まった事なの。覆す事は出来ませんっ!」
可愛くウインクするな。気持ち悪い。
「……それ、いつの話なんだよ」
「今日、今から」
「はぁ!?」
「お父さんはもう駅で待ってるのよ。だから私が二人分の荷物担いで、駅まで行かなきゃならないわけ。はー忙し忙し」
急にしても急すぎる。
道理で急いで荷造りしていると思った。夜逃げもかくやのレベルだ。
「ふざ……ふざけんな! 今日から俺は準備もなしにどうやって生活したら……!」
「少年よ、こう言う困難を乗り越えてこそ、男は大きくなるモノだよ」
「達観した風に適当な事を抜かすのやめろ」
「よーし、準備完了。後は現地で買い足せば良いでしょ」
うわ、ホントに会話しながら準備を終えてやがる。あんな適当な母親のクセに首尾が良い。
「じゃあ、身体に気をつけて、戸締りはしっかりして、ガスの元栓も気をつけて。せいぜい楽しく生きなさい。寂しくなったら電話すれば良いわ」
「早く行って来い。アンタの息子はどんな環境でも逞しく生き残る、って証明してやるよ」
母親の投げキッスを打ち落としながら、見送った。
バタン、とドアが閉まったあとには嵐の後の静けさのような哀愁が漂うかのようであった。
静かになった玄関で俺は一つため息をつき、とりあえずコートやカバンを部屋に投げ入れるために自室へ向かった。
二階にある自室には、当然俺の学習机もある。
そこには見慣れないノートが一冊置いてあり、表紙部分に『一人暮らしHow to』と書かれてあった。
「母さんの書き文字だな……」
歳柄もなく丸まった文字を書きやがってからに……。
ノートの中身は珍しくまともで、色んな生活の知恵や、簡単な料理のレシピなどが簡潔にまとめられてあった。なるほど、この通りにやれば数ヶ月は生き延びる事が出来そうだ。
そこから先は俺の人間力が試されるのであろうな。
ノートの下には通帳と判子が置いてあり、通帳の方に記載されている金額を見れば、我が家にもこんな蓄えがあったのかと驚かされる。
「くそぅ、高校生にこんな金を渡しやがって……ちょっとビビるぞ」
自分の財布には入りきらなさそうな桁の金額を見てビビる俺を見てほくそ笑む母親の姿が幻視出来るようであった。
俺はその通帳と判子を鍵のかかる引き出しへとしまいこみ、着替えを済ませてからノートを手に取って居間に戻る。
静か過ぎる家の中でテレビをつけて適当なBGMにしながら、テーブルについてノートをじっくり読みふけろうと思ったのだ。
これからどう頑張っても一人で生きていかなければならない。何とかなるだろうとは思っているが、楽観してばかりもいられない。
準備できる所はしっかりと準備しておこう。
――と、その時、家のチャイムがなる。
来客か、と思ってノロノロとインターフォンに近付くと、モニタに映されたのは見知った顔であった。
「げ、愛菜……」
カメラに向かって不遜気な顔を見せているのは、愛菜であった。
その手には夕方に見せられた預言書が握られている。
それでふと、フラッシュバックを見る。
『わかった。どうしてもって言うなら見せてやるわ』
アイス屋で言っていたあの言葉。そして現在の状況。
「まさかアイツ、ホントに何か持ってきたのでは……!?」
神の道具なるものが実際に存在してるとはこれっぽちも思っていない。きっと、愛菜が何か持ってきたのだとしたら妙ちくりんなガラクタであろう。
だとしたらそんなものを見せびらかされる状況はごめん被る。
ここは居留守を使って……
『鉄太、いるんでしょ。わかってんのよ』
うっ、鋭い。
モニタ越しながら愛菜の眼光はこちらの意図を全て見抜くようであった。
アイツは頭が切れる上に幼馴染としての経験がある。こちらの行動はある程度把握されていてもおかしくはない。
しかし、こちらは家の中だ。玄関の扉に鍵をかけたのは俺。あのドアが開くことはない。
ならば篭城を決め込むのにこれほど容易な環境があろうか。
大丈夫。今、俺は家と言う城に守られている!
そう思って俺が何もせずに黙ってインターフォンのモニタを見ていると、愛菜も諦めたのかふと俯く。
よーし、そうだ。そのまま帰れ。
……いや、違うぞ。
よく見るとアイツはポケットの中を探っている。何を取り出すつもりだ? 携帯か? 俺に電話をかけるつもりか! そうはいかんぞ。
そう思って先回りして携帯電話の電源を切る。アイツが俺を呼び出すのより、電源を切る方が早い。
だがここで安心はしない。俺は更に先回りをして家電の受話器を外す。こうする事で家電のベルは鳴らない。俺がやつからの電話に出る事もない。
どーだ! お前からのアクセスは全て遮断してやったぞ! 思い知ったか、愛菜!
勝ち誇った笑みを浮かべる俺。
しかし、無情なのは現実であった。
ガチャリ、と音がする。聞き覚えのある音だ。
「なっ……!?」
気がついた時には血の気が引くよりも早く、その光景を目の当たりにしていた。
「オープン、セサミ」
ドアの奥から愛菜の呪文のような言葉が漏れ聞こえてきた。そこは普通に『開けゴマ』で良いだろ。なんで英語にした。
いや、それよりも驚くべき事は現状である。玄関のドアが開けられたのだ。ガチャリと言う音は開錠の音であった。
「な、何故愛菜が家の鍵を開けられるんだ……!?」
惜しむらくはチェーンをかけていなかったこと。それほど警戒する事はないと思っていたが、この体たらくである。我ながら怠慢を嘆かずにはいられない。
俺が居間で呆然としていると、愛菜は我が家の如くに家に上がりこみ、ペタペタと廊下を渡って居間までやってくる。
「鉄太、さっきぶり」
「くっ、シャアシャアと挨拶なんかかましやがって……! 何でお前が家の鍵を開けられるんだよ! おかしいだろ!」
「合鍵。おばさんに貰ったわ」
あんのクソ母親! よりにもよって愛菜に合鍵渡すとか、なに考えちゃってるわけ!?
「ってか、いつの間に!?」
「さっき、おばさんとすれ違った時に渡されたわ。なにかあったら私にくれるように準備してたんだって。聞いたわよ。おじさんとおばさん、単身赴任で短期引越しだってね」
「いらぬ準備だよ、チクショウ!!」
なにかあったらってなんだよ。なにもねーよ。むしろコイツが来るほうが『なにかある』だよ。おかしいよ、その判断基準。
「まぁまぁ、鉄太。落ち着きなさいな。アンタに朗報だってあるのよ」
「はぁ? 朗報なんかあるわけないだろ。俺の最後に残った憩いの場が、お前のような侵略者に無惨にも蹂躙される事態だぞ」
「しかし、その侵略者は背中にネギをしょってるかもしれないわよ?」
「……どういう、ことだ……!?」
「私の成績は知ってるでしょ? 文武両道を地で行く私は、当然家庭科の成績も優秀!」
「……はっ!」
「夕飯ぐらい、作ってやらん事もないわ!」
「グワーッ!」
ヤバい、ヤツに後光が差しているようにも見えてきた。
正直、母親からレシピを渡されたとしても、俺がまともに料理を出来る図が想像すら出来なかった所に、この助け舟! 平伏せざるを得ない!
「当然、材料費等はそっち持ちだけどね。因みに私のほうの両親には既に連絡済。鉄太のご飯を作るぐらいなら帰る時間が遅くなっても良いそうよ」
「くそぅ、食い物を餌に俺を釣ろうというのか! なんて卑劣な、アリガトウゴザイマス!」
「よいよい、苦しゅうない」
地獄に仏とはこの事か。垂れてきた蜘蛛の糸に縋りつくのに、逡巡すらしなかった。
ああ、仏様は俺のような哀れな子羊を見捨てないのだ。ありがとう、この世の中捨てたもんじゃない。
「で、この預言書の話だけど」
「あー、そうね、そうなるよね……」
うん……飯とあわせてプラマイゼロくらいかな……。