5-4
人生で初めての命を懸けたやり取りを終え、異常に重たくなった体を引き摺りながら、俺は蔵の扉を潜った。
重たいはずの蔵の扉は既に俺が破壊していたため、開ける労力が省けた。正直、ありがたい。
しかし、扉を潜ると強烈な悪臭が内部を支配しているのに顔を歪めてしまう。
「これは……ヒドいな」
『鉄太さん、大丈夫ですか?』
「ああ、心配するな。ポータルとやらをどうにかするまで、へこたれてらんねーよ」
リコに虚勢を張るだけの気力は残ってる。大丈夫だ。俺はやれる。
散らかった蔵の中を少し進むと、すぐにそれが見えた。
天井や壁から伸びる触手のような何か。それらが鳴動し、まるで血管のように脈打ってるのがわかった。
ドクンドクン、と心臓の音のような低い鼓動が蔵全体に遠雷のように響いている。
そしてその脈打つ音と共に見覚えのあるシルエットが蔵の中空に浮かぶのだ。
それこそ、あの時蔵に現れた石の門、ポータルだ。
ポータルはいまだ、完全に現界しきっていないようで、シルエットが浮かんだり消えたりと明滅を続けている。
その点は少し安堵できたのだが、問題はここからだ。
天井や壁から伸びる触手、それらが向かっている先が俺にとっては看過できない事案だった。
「て……た……」
「あ、愛菜!?」
触手に繋がれた愛菜は苦しそうに蔵の床にうずくまり、声にならない声を上げている。
「な、なんだこれ、どうなってるんだ!?」
『……私が予想していたよりも、事は大きかったようです』
「どういうことだ、リコ!?」
『ポータルは現界しようとしていたのではなく、愛菜さんを依代にして儀式を行い、この世界に概念として定着しようとしています』
「概念? 定着……? わかる言葉で喋れ!」
『ポータルが概念定着してしまえば、物理的な干渉は全く受けません。そうなれば私たちにはどうする事も出来なくなります……それに、』
そこで一旦、リコは苦しそうに言葉を区切った。
何か言いづらいことだったのだろうが、こちとら時間がない。
「なんだってんだよ! 早く言え!」
『……概念定着が既に八割がた完了しています。愛菜さんもポータルにほぼ取り込まれています。間もなく、この次元よりも高い次元に移動し、ポータルも愛菜さんも私たちの手の届かない場所へ行ってしまいます』
「……つまり、どうしようもないってのか!?」
リコの言葉を全て理解出来たわけではない。だが、その言葉端から絶望感と諦念が窺えたように感じた。
「どうして……こんなことに……」
『考えてみれば、愛菜さんがポータルを内包していたのでしょう。最初の契約の言葉、コウモリ男の際に私を召喚した時の位置、そして二度目にポータルが開いた場所、ヒントは幾つかありました』
「愛菜がポータルを……」
そう言えば以前に話していた。ポータルとは門の形とは限らない。もしかしたら人の形を取っているかもしれない、と。
それが最初の契約の言葉で愛菜の内部に侵入し、そのまま潜伏していたって言うのか。
「どうしようもないのかよ……このまま、愛菜が苦しむのを見てろってのか!」
愛菜の苦しげな声は今も聞こえている。
見ると、愛菜の足元の床には幾つもの新しい傷がついている。
恐らく、苦しさにもがき、床に爪を立てたのだろう。
コイツのこんな姿……見ていたくはない。
『方法は……あります』
「本当か!」
『しかし、これは……』
「いいから、教えてくれ!」
言いよどむリコ。しばらくすると、重たい口を開いた。
『ポータルの概念定着は愛菜さんを礎に行われています。その礎を破壊する事が出来れば、この儀式は中止されるでしょう』
「礎の、破壊って……お前、それ」
『愛菜さんを、殺す事です』
俺の喉がなる。
心でその方法を否定しながら、しかしどこかで手を打っていた。
「ば、馬鹿を言うな! そんな方法――」
『鉄太さんには出来ないでしょう。ですから、離れていてください』
俺の手元でピカッと光が奔り、それが収まると、そこにはリコが人間の姿で現れていた。
そして、リコの手には剣が。
「お、お前……!」
「私は聖剣であるために、この世界の危機を見過ごすわけにはいきません。ここで愛菜さんを殺さなければ、世界は確実に崩壊へと転げ落ちるでしょう。それを今ここで、止める」
それは合理的な考え方であった。
たった一人の少女を殺す事で、世界を救う。こんなありふれた天秤の使い方が他にあるだろうか。
フィクション作品として見ていた状況を、渦中の人間として立ってみれば、これほど胃が捻じ切れるような感覚を覚えるのだと知る。
その時、お話の主人公はいつだって少女を取った。
彼らは少女を救い、更に世界だって救ってみせた。
最高に恰好良い主人公たちは、そうして全てを掴み取ったのである。
――ならば、俺は?
自問自答が、身体に染み渡る。
愛菜をここで殺さない事で、世界の崩壊が起こる。それは確定事項なのか?
もしかしたら、ポータルの概念定着とやらが完遂されたとしても、世界は案外平和なままなのではなかろうか? そんな可能性はないのか?
問いかけが口に出かかったところで、俺は飲み込む。
そんなわけないだろ。そんな楽観で、人の生き死に、世界の行く末を決めて良いわけがない。
そもそも、リコはリスクを刈り取る目的で愛菜に刃を向けているのだ。可能性がゼロではない時点で、剣を退くことはないだろう。
俺には……リコを押し止める合理的な理由が、ない。
『私は、物語の登場人物になりたかった』
その時、聞こえてきたのは愛菜の声だった。
だが、それは彼女の口を通って出てきたのではなく、俺の鼓膜ではなく頭の中を震わせているようだった。
この感覚には覚えがある。念話だ。
「な、なんだ、これ!?」
「概念化が進み、高次元に足を踏み入れてるのです。それによって思考の伝達が言語を介さずに行えるようになったのでしょう」
リコの言葉はまたも良くわからないが、急に愛菜と念話が繋がったのはわかる。
『お兄ちゃんが消えた事、その事件の事を思い出した時、私は恐怖と共に高揚感を覚えた。夢に見た異世界と言うのが実在すると言うことに、感動したんだ』
「愛菜……」
アイツは常々、異世界だのなんだのと世迷言を口にしていたが、愛菜にとってそれは決して夢や幻の話ではなかったのだ。
『私はあの日から異世界に憧れた。その世界に行ってみたい、そう思った』
「だからって、変なもんに取り込まれて、高次元とか言うわけわからんところに行くのは違うだろうが! それは、お前の望んでいた異世界旅行じゃないだろ!」
『そこで活躍できたら、私はもう何も言う事はない』
「愛菜!」
「無駄ですよ。今の愛菜さんには聞こえてません。既にこちらからの干渉が希薄になっています。もうすぐ、ポータルと同化してしまう」
ゆっくりと愛菜に近付き、剣を構えるリコ。
本当に、このまま見ているしかないのか。
俺は、愛菜と世界のどちらも助ける方法を見出せないのか……!
『もしそこに鉄太もいたなら……』
喉が詰まった。
愛菜の気持ちには薄々気付いてはいる。しかし、それにはっきりと応える事は出来ていなかった。
俺の中にも愛菜への気持ちがある。
その気持ちが、俺の内側を強く引っかいた。
「鉄太さん、見ているのは辛いでしょうから、外へ出ていてください。後は私がやります」
「……待て、リコ」
剣を掲げるリコの肩を掴む。
「鉄太さん……」
合理的でなくて何が悪い。
感情で何が悪い。
俺は、愛菜を失いたくはない。
その時、俺の足に何かがぶつかった。
足元にあったのは……預言書であった。
こんな所にあるはずがない。預言書は確か、学校に置きっぱなしだ。誰かがここに持ってくるわけもない。
奇妙な寒気を覚えたが、同時に預言書に書かれていた内容を思い出す。
「リコ、俺に良い考えがある」
****
再びリコを剣に戻し、俺の手に握る。
『鉄太さん、良いですか。チャンスは一度です。それ以上は時間がありません』
「わかってる」
リコの形状は先程よりも少し短め、ショートソードってところか。
刃渡りは三十センチほど。俺でも簡単に扱えるサイズだ。
そもそも今は戦いの場ではない。愛菜を救うための、最後のチャンスだ。
『ですが、本当に大丈夫なんですか? 預言書に書かれていた、聖剣の本質って……』
「不安か? 有島の言ってたこと、気にしてるんだろ」
『はい……』
リコは本当の聖剣ではない。聖剣を模倣したまがい物。有島はそう言っていた。
だが、それが事実かどうかは関係ない。俺は俺の言葉に責任を持つ。
「俺はお前が模倣品だったとしても、本当の聖剣になれると信じている」
『鉄太さん……』
「だから――」
俺はリコを逆手に持ち、愛菜の前に跪く。
うずくまっている愛菜の身体を抱きかかえるように、腕を回した。
『鉄太さん、こ、これ……』
「――お前の事を信じているからこそ、俺は命を懸ける」
両手で構えた剣。それは愛菜の背中に向けられている。
この状態で愛菜を貫けば、俺にも刃が届き大怪我を負うか、最悪死ぬだろう。幾ら英雄力によって治癒力が高まっていたとしても、心臓や重要臓器を傷つけられれば無事では済むまい。
だが、こんな状況で俺だけ安全な位置から傍観なんてできるか。
「預言書には物理干渉が出来ないものをも斬れると書いてあった。だから俺は、リコを使って愛菜の中にあるポータルを斬る。そうすれば、このふざけた現象だって収まるはずだ」
『そのまま貫けば、鉄太さんにだって刃が届きます!』
「聖剣は持ち主の斬りたいものだけを斬るとも書いてあったぞ。俺が俺自身を斬りたいわけがないだろ。痛いのは嫌だ」
『それはそうかもしれませんけど……でも!』
「俺はお前を信じてる。だから、お前も俺を信じろ」
リコを握る手が僅かに震える。手のひらには汗がビッシャリだ。
自分で自分の命を絶つかもしれない。その恐怖を覚えないわけがない。
だが、これも俺の覚悟だ。
「て……つ、た……」
「愛菜。お前も辛いかもしれないが、頑張ってくれよ。俺は、お前のそんな顔が見たいんじゃない。また怒ったり照れたり呆れたり、笑ったりしてくれよ」
「あ……ぅ……」
愛菜の身体がすぐ近くにあることで、ポータルから溢れてくる瘴気の臭いが薄れているように感じる。
愛菜の感触、愛菜の温度、愛菜の匂い。
全て、失うわけにはいかない。
「行くぞ、愛菜、リコ」
『はい!』
リコの返事だけ受け取り、俺は両手に力を込めた。
剣の切っ先が、勢い良く愛菜の背中を――




