表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

colored paper

作者: 咲花圭良

 風呂から上がって部屋に入ると、明かりが落とされていた。床に置いた間接照明だけでは幾分明るさが足りないとは思ったが、ふろあがり、窓から吹き込む風が涼やかなのも手伝って、その薄暗がりも「いい感じ」だったので、入り口にある部屋のスイッチはそのままつけずにおいた。

 部屋の中央にある小さな座卓の前で、女が、色紙を折っている。

 間接照明近くにすわり、折っているのは鶴らしいが、目に悪くはなかろうかとその手元を見た。すると女は顔を上げ、

「何か飲む?」

そう声をかけてきた。

 薄暗がりの中で、目が、黒目勝ちに大きく、つややかな光を帯びていた。

「うん、そうだな。」

言うと、女は立ち上がった。1Kの決して広くはない部屋で、居室の外に出るとキッチンがある。風呂はそのすぐそばにあった。グラスを取り出し、冷蔵庫を開ける音が居室のドアの向こうから聞こえてくる。彼は女が座っていた近くにあぐらをかいて腰を下ろし、窓の方に目をやった。

 窓の向こうにはたんぼが月明かりに浮かんでいる。そこで鳴く蛙の声があたりに響きわたっていた。

 ずいぶんと田舎にきたもんだ、と改めて彼は思った。

 まるで逃避行のようだ――思ったところで、女はドアを開けた。長いグラスに二人分、小さなトレーの上に載せて入ってきた。女はそのトレーを机の上に置くと、「はい。」と男にグラスを手渡した。

 女は都会にいる頃からレモンスカッシュを好んで出した。今日も同じものだった。

 男が受け取ってそれに口をつけると、女も腰を下ろして一口グラスに口をつけた。そしてまた、色紙を折り始めた。

 見ていると、女の指先が両方、折り目できれいにあわさっていた。爪がゆるく光っているその指で、頂点をあわせてから対角を、一つ一つ押さえ、三角を作っている。折り合わせをシューッとゆっくり指でなぞった。頂点をあわせてシュッシュッとやればいいものを、なんだかひどく不器用に見える。

 男はそれを見ながら、壁に体を寄せた。

 女の丸まった背と、そこから続く腕、白い手元を眺めた。男が風呂から上がっても折り手を止めない。

「急ぐの? それ。」

そう声をかけた。

 女は顔を上げ、男を見ると、

「千羽鶴なの、急がないはずがないわ。」

 誰の?ときこうとしてやめた。追及が憶測をうみ、言い争いになった過去が彼を黙らせた。すると、彼の思いを察してか否か、女が、

「職場のね、パートのおばさんのお子さんが」と言いかけたので、男は慌てて「いい」と言って言葉を切った。その男の反応に女は少し驚いたようだが、やがてふふと笑うと、色紙を机の上に置いて、男に近づいた。

 壁際に並んで、女は男の隣に座った。

 すると、座った腰に手をまわして女を引き寄せ、女を抱き寄せた。女は思わず顔を上げ、

男を見るとまなざしがぶつかった。

「逃げよう。」

 男の言葉に、女は思わず面食らった。困ったように眉根を寄せる。

 男の胸に手を当てると、女は引き寄せられた身を起こした。

「逃げるって、何から?」

 蛙の声が響き渡る。

 逃げよう――何から?

 捨てよう――何を?

 全部?


 『明日に向かって撃て』のブッチとサンダンスのように?

 『俺たちに明日はない』のボニーとクライドのように?

 『武器よさらば』のキャサリンとフレデリックのように?

 『冥途の飛脚』の忠兵衛と梅川のように?

 『伊勢物語』の在原業平と姫君のように?

 

 ――逃げたところで悲劇ばかりじゃないか。


 確かあの男もそんなふうに言った。

あの日、ホテルの個室で待たされていると、男はせわしげに部屋に入ってきたのだ。

「ごめんね、待たせて。」

それから女の前に腰を下ろし、言った。

「何か飲む?」

女は首を振った。長居するつもりは全くなかった。

 男はさっきまで仕事の現場にいた。今抜けてきたという感じで、どこかにせわしげな気配がある。女は彼の部下に引き止められてここまで来たのだ。固辞をしたが、連れて行かないと男に叱られるという。場所を変えて食事でもとりながら話せばいいのだけど、人目につくからここに連れて来られたのだろう。

 男の体からにじみでる汗の気配が気になった。

 おそらくいつもは、こうして部屋に帰ればすぐにシャワーを浴びるのだろうに、自分をひきとめて話をするためにそのままでいるのだろう。

 しかし飲み物を断り、そのまま前に座っていても、男は話し出す気配はなかった。

 足を組んで腰を下ろしたまま、女をしっとりとみつめている。

 女はその視線から目をそらすと、静かに「ご用件を」と切り出した。

 男は少したじろぐと、ため息をついて首を振った。

「せっかくこうやって二人きりになれたのに」

二人きり?

「そんなにせかさないで。」

 女は男をじっと見ながら、ドアまでの距離を目ではかった。

 しまった、やはり会うなら外で会うのだった。

 立ち話だってよかった。人目につかない場所なんてそこらじゅうにあるじゃないか。

 立って歩けばつかまるだろうか。そのベッドの上に押し倒すなんて乱暴な真似をするだろうか。

「今日は、彼女は?」

女がそういうと、男はびくっとした。

「お仕事の途中なんじゃないですか? ご用件を、どうぞ。」

男は2、3度、唾を飲み込む気配を見せると、

「ただ一緒にいるだけじゃ、ダメかな。」

馬鹿馬鹿しい。

「わかってると思うんだけど」

わかってる。

「なぜか全然無視で」

応える気がないことに気がつけよ。

「君が彼のことどれぐらい想っているのかも、彼が君のことどれぐらい想ってるのかもわからない、けど」

けど?

「俺の気持ち、わかるだろう?」

 ぞっ。

 女はじっと男を見た。男は苦渋の色を浮かべ、それでも平常心を保っている様子だった。それを見ているうちに、女はその平常心を打ち砕きたくなった。

 一気に瓦解したくなった。

「捨てられる?」

女の顔には笑みが浮かんでいたかもしれない。

「じゃあ、捨てられる? 女も、仕事も、地位も、立場も過去も。私と想いを遂げるというのは、そういうことでしょう? でも何も捨てられないんでしょう。何も捨てられないくせに。何もできないくせに。全部捨てて逃げる覚悟もないくせに。そんな気持ちなら要らないわ。何かっこつけてるのよ。想いばっかりぶつけてきたって、保身のあんたにはノらないわ、それに」

そこまで言い切ったところで、もし捨てると言われたらどうしようと一瞬身構えた。

 でも口だけ。

 きっと口だけ。

 間違いない、絶対に口だけ。



「何も捨てられないんじゃないですか。」

女は責めるように言った。

 島田に結いあげた目の奥に、怒りの色が見えた。

「江戸を捨てて長崎か大阪に、逃げようとおっしゃいましたね、ええ、ええ、本気にしたあたしが馬鹿でございました。」

「違う!」

「だから身重では関所を越えられぬからと、長旅は無理だと子を下ろさせた、でもその実ただ単に邪魔になったからの口実で」

「なんで…たった一回しくじったぐらいで、なんでそこまで考える。あの日はおふくろが倒れた、出るに出れない」

「出るに出れないったって誰かに言伝でもしてよさそうじゃありませんか。あたしがあそこでどんな気持ちで待っていたと」

「言伝て計画が露顕したらすべてが台無しになると思ったからじゃないか。何回言わせる、なんでそれがわからないんだ!」

言うと、女の瞳から突然大粒の涙がボタボタとこぼれた。見ていると、視線はこちらに向けたまま、懐を探る。刀を取り出し、さやを引き抜いた。引き抜いた刀は男に向けられる。男は静かに緊張した。

「おい」

男は声をかけるが、女は構えたまま刀をひこうとしない。

「おい、頭を冷やせ」



岬の先から手を振る少年に、白砂の上から手を振り返した。少年は運動着を着ているらしく、ジョギングか何かの途中という風情だった。遠くて顔は見えないが、まだ幼い仕草が微笑ましいと思った。

 ふと、彼女は目の前にいる男から鋭い視線を感じた。

 男の目に、激しい嫉妬の色が見える。

 女は思わずたじろいだ。

 そうだ。

 いつもそうなのだ。

 あれは今そこで手を振り交わしただけの、見知らぬ少年ではないか。そこに何か特別な感情など芽生えるはずのない、そういう少年ではないか。それなのに、いつも、どの異性に対しても、有無を言わさず、――問いただすことさえなく、疑いの目を向ける。

 なぜに信じられない。

 この岬の青い空のように、この白砂の向こうに広がる海のように、私の心のどこに、穢れがあるというのだ。

 それは、あなたの心の中にしか存在しないものではないか。



「逃げるって、何から?」

女がもう一度問い返した。

「何から?」

言葉を返す。

 女の潤んだ瞳から、遠い遠い海が見える気がした。海は青く、深く、もぐればきっとそこには新しい楽園があって、彼女と新しい幸福な日々が送っていけるに違いない。そこは彼女の折った折鶴さえも追ってくることはできず、海面に触れればたちまちとけて沈んで消えてしまうだろう。

 追ってはこれぬ。誰も。

「運命から。」

言った。

すると、女はフフと笑い、改めて男をみつめた。

「逃げちゃダメよ。」

 落ちかけていた海面から一斉に、折鶴が音を立てて飛び立つのが見えた。

 グラスの中で、氷が解けて音を立てた。蛙の鳴き声は、夜更けすぎには止まるだろう。

 月が出ていた。

 田植えが終わったばかりの、稲苗揺れる水田の上を照らしていた。


(「colored paper」2015.8.19)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ