1.8
突然降り出した雨だったが幸い通り雨だったらしく、雨雲は遠ざかり始め、視界の邪魔をする事はなくなった。
さっきの化け物達の鳴き声が段々遠くになっていくのを聞くと、ヨシノ達がうまく引きつけてくれているのが分かった。
ユウとユサはお互いの手を固く握り締め、ぬかるんで不安定になった地面に足を取られながら走り続ける。向かう先は川沿いの崖の上だ。
2人の荒い息遣いだけが聞こえる。またいつ化け物が出てくるのかと考えると言葉を交わす余裕はなかった。
思い足を動かしながらも、ユサの頭の中は、色々な光景がグルグルと巡っていた。
きっと、逃げようという話がなければアルとマヤは死なずに済んだ筈だ。いや、そもそも地下に行こう等と提案しなければ、キャシーを探す時にマヤを地下に連れていかなければ、まだ暖かいあの場所で何も知らず幸せに暮らしていたのだ。
飛び散る血しぶきを思い出し、熱いものがまた胃を押し上げて来るのをグッと抑えた。
本当はすぐにでも蹲って泣き出したい。いっそのこと全てを放棄して忘れてしまいたい。
しかし、大事な家族の死を目の当たりにしたというのに、皮肉にもユサの心は「生きたい」と叫んでいて、その叫びがユサの小さな体を押しつぶすようにのしかかった。
生きる為には足を止める訳にはいかない。本能が頭に直接そう告げていた。
「見えた!!ユサ、崖だよ!」
月明かりだけが照らす木々の先に、開けた場所が見える。滑るように斜面を降り、絡みついてくる草むらを掻き分け飛び出した。
かなり大きな崖だった。ザァザァと微かに川が流れる音が下の方から聞こえ崖を覗くと、先程の雨の影響で増水した川が左に向かって勢い良く流れていた。
向こう岸には森が広がっている様で、光なども無いところを見ると、ここはかなり人里離れた場所らしい。
最悪泳いででも向こう岸に渡ろうと考えていたが、この流れの早さでは無理だろうとユウは思った。
「とりあえず下流に向かって走ろう!」
ユウの言葉に頷き、再び走り出そうとした。その時だった。
「っ姉ちゃん!!!」
視界の端にキラリと何かが光るのに気づき、ユサは足を止め慌ててユウの手を引いた。
草むらから飛び出した“それ”は、彼女の顔面のギリギリを横切り、そのまま崖の中へ断末魔を上げながら落ちていった。
目の前が赤に染まる。ユウが痛む頭に触れると、触れた右手が真っ赤に濡れた。
少し掠っただけなのにこの威力だ。まともに食らっていたら、どうなっていただろうか。震える血塗れの右手を握り締めた。
崖を覗き込むが、既に濁流に流されてしまった後で、飛び出してきたのが何かを確認出来なかった。
しかし、それが何かはすぐに分かることになる。
「……豚…?」
荒い鼻息と、鼻の詰まった様な鳴き声と共に、3匹の豚が草むらから姿を現した。
ピンクの筈の肌はどす黒く染まり、血管が破裂しそうな程浮き上がり、2人を見るその目は血走り、涙をダラダラと垂れ流していた。
図鑑等で見た豚の姿とは程遠く、先程の犬の様な化け物と似ている姿に、2人は背筋が凍るのを感じた。
豚は今にも2人に飛び掛ろうと息を巻いている。
とにかく逃げようとユウは腕を振りかぶり、電撃で豚を吹き飛ばし走り出すが、すぐに起き上がった豚達に、その巨体を揺らしながら突進され、大きな水溜りの中に押し倒されてしまった。
「いやぁ!!」
「くそっ!離せ!!」
牙を剥き食らいつこうとする顔を必死に両手で押しのけ、逃れようと藻掻くが野生の力には叶わず、後から追いついてきた仲間がユサの左のふくらはぎに噛み付いた。
「ああああっ!!!」
今にも骨ごと喰いちぎられそうな痛みに、目を剥き叫ぶ。どうにかしなければ、このまま食べられて死んでしまう。
「ユサー!!!」と姉が自分の名前を叫ぶ声が聞こえ、痛みに朦朧とした意識を取り戻し、右手で水溜りを思い切り叩いた。
「どけええええ!!!!」
耳をつんざくような音が響き一瞬、眩い光が辺りを包むと、豚達は動きを止め、少しの間の後にバタバタと倒れた。
咄嗟に出したユサの電撃が水溜りを伝い、豚達に大きな一撃を食らわせたのだ。
力を無くした重い体を押しのけ、ユウに手を引かれ立ち上がると、齧られた左足から血が溢れた。立つとズキズキと痛み、とてもじゃないが歩く事もままならないだろう。
背中に乗れと屈む姉に、大丈夫だと断るが「乗りなさい!」と一喝され、その背中に身を預けた。
いくら弟と言えど、彼女の細い体で男子一人を運ぶのには骨が折れる。雨で濡れ不安定な地面に足を取られすぐに息を切らし始めた。
しかし、次にまた何が出てくるか分からない。ここで立ち止まれば化け物たちにとって恰好の的だろう。
「姉ちゃん、俺歩けるから!」
「ユサ1人くらい余裕だから大丈夫よ」
「でも姉ちゃん、血がっ…!!」
最初に襲われた時の頭の傷から血が流れ、顔の半分を覆う。
血が抜ける感覚に頭がクラクラとするが歩けないことはない。黙ってなさいと弟の体を背負い直し、歩き続ける。
しかし、100mほど歩いた所でその歩みは止まってしまった。
そんな…、とユウの声が震える。
鼻の詰まった鳴き声がすぐ近くで聞こえ、見ると、先程の豚よりも一回り大きく、大きな牙を持つ一匹の豚が道を塞いでいた。
所々皮膚が火傷した後のようにただれ、血が混ざったヨダレを、ダラダラと流してこちらを見ている。
1人は手負い、もう1人はそれを背負っているこの状況では満身創痍だ。
足が地面に縫い付けられたように動かず、冷や汗が頬を伝い地面に落ちる。
先手を打ったのはユウだった。彼女が腕を振ると、電撃は豚に直撃するが、豚は少し身を捩らせただけで微動だにしなかった。
牙をこちに向け突撃してくる豚に、避ける間のなく、ユウの脇腹が突き飛ばされた。
一緒に地面に投げ出されたユサは慌てて身を起こし、脇腹を抑え苦しそうに蹲る彼女に、這いずりながら近づき、小さな体で守る様に覆い被さった。
「姉ちゃんに手を出すな!!」
踵を返しこちらを睨みつけるその目に、ガタガタと体が震えさせながら、必死に姉を抱きしめる。
しかし、奴に言葉が通じる訳もなく、赤いヨダレを撒き散らしながら、再び突進してきた。
固く目を閉じ次に来る衝撃を待つ。
その時、何かが弾ける様な音が響き、すぐに豚の苦しそうな悲鳴が聞こえてきた。
驚愕し見ると、豚は両方の目から血を垂れ流し、痛みから逃れようと地面を転げ回っていた。
その豚にユサの腕の中に居たユウが左手を突き出している。彼女は咄嗟に電撃で奴の両眼を潰した様だ。
しかし、奴はまだ絶命していなければ気絶もしていない。傷みに慣れれば目がなくとも、また襲いかかってくるだろう。
逃げ出したいが、ユウまでもが負傷し満足に動く事が出来なくなってしまった。
絶望した気持ちで転げ回る豚を見るユサの肩を、身を起こしたユウが掴み、ジッと目を合わせた。
何も喋らないユウに「姉ちゃん…?」と不安げに声をかける。彼女はユサを優しい目で見つめ、笑う。
今の状況に相応しくない笑みに、ユサの心に憂慮が生まれた。
「ユサ、約束。ひまわり畑を一緒に見ようね」
「え…?」
「あと、教会のスタンドガラスも」
「ね、姉ちゃん?」
「春になったら“サクラ”ってやつも見ないとね。楽しみだなぁ」
目を閉じ想像するのは広いひまわり畑や、本でしか見たことがないスタンドガラスと、桃色の木の下で笑い合う自分達の姿。
少しの間の後、目を開きユウはユサの両頬を手で包み、愛しい顔を見つめ額に口付けを落とした。
絶対、約束だよ。
体を押される衝撃の後に、そう言って笑う姉の顔が遠ざかっていく。
崖に突き落とされたと気づき手を伸ばした時には、既に濁流に体が飲まれた時だった。