1.4
地下へ続く階段は上へ続く階段と比べ長く暗かった。マヤの足取りに気を使いながら階段をかけ降り、踊り場を曲がった所でユサはつい足をピタリと止めてしまった。
踊り場より先の道は目を凝らさないと足場が見えない程暗く、幽霊を信じていないユサでも流石に腰が引けてしまう。
だが、先から聞こえた微かな泣き声にマヤの手を握り直すと意を決し暗闇に足を踏み入れた。
暗闇に完全に身体が入ってしまうと目が慣れてきて、近くの壁を目視することも出来た。壁に手をつき一歩一歩を慎重に進むと微かに聞こえていた声が少しずつ近くに聞こえる様になり、床の軋む音が聞こえたのか泣き声が急に止んだ。
「キャシー、いるか?」
「っ…ユサ兄?」
「おいでキャシー!」
マヤの声に座り込んでいたキャシーが飛び起き一目散に駆け寄ってくる。そんな彼女を受け止めたマヤはその小さな身体で、それ以上に小さい身体を力強く抱きしめた。
キャシーが蹲っていたすぐ傍には鎖が大量に繋げられた鉄の扉があり、暗い中でも分かるくらいに忌々しい雰囲気を醸し出していた。何もないはずの扉にぞくりと背筋が凍りつく。まるでここに居ては駄目だと本能が脳に直接警告を出している様だ。
こんな奥で居たということは、ここまで来れたのはいいがあまりの暗さに動けなくなり座り込んでいたのだろう。
ざわつく気持ちを抑えながら2人を立たせると早く立ち去ろうと踵を返す。
その時、ふと何かの音がユサの耳を掠めた。聞き逃してしまってもおかしくない程の小さな音に思わず振り返り扉を見つめた。
確かにこの中から音がした。幸い暗闇に震える2人は気づいてない様だ。
「マヤ、キャシーを連れて先に戻れ」
「えっ…な、なんで」
「いいから。俺もすぐに行く」
軽く背中を押すと戸惑っていたマヤだが分かったと頷きキャシーの手を引き小走りで階段の方へ向かった。
人間の好奇心というものは恐ろしいものだ。それがどれだけ恐ろしいものであっても、その奥にあるものに気を取られてしまえば、それが何か確かめるまで調べたくなってしまうのだから。
2人の背中を見送り再び扉と向き合い壁に手を付きつつゆっくりと扉へ近づく。そっと指先で扉に触れるとまるで氷の様に冷たい。
ドクドクと胸が鳴る音が聞こえた。まだ先程の音は聞こえてくる。ここまで近づきよく聞くと、この音は声ではないのか。それも消え入りそうな小さな小さな声。
冷たい扉に身体を寄せ右耳を押し付けて中の音を拾うことに集中する。
口で息をゆっくり吐き煩い心臓の音を落ち着かせる。やはり声だ。聞き覚えのある声。
そして聞き覚えのある名前をユサは聞いてしまった。
思わずドアノブを握ると扉に大量に繋げられた鎖はただの飾りだったのか、いとも簡単に内側に開いた。少しだけ開いた扉の隙間を見つめる。このまま入ってもいいのか。戻って何事も無かったようにするべきなのか。ゆっくり悩む時間はない。ユサはドアノブに手をかけた。
見るべきだ。何かの間違いでなければならない。
「何をしているんだい」
煩い程に鳴っていた心臓が止まった様に静かになった。ドアノブを掴んだ手の上から大きく暖かい手が重なり、苦いタバコの臭いが鼻につく。
ユサはこの臭いをよく知っていた。この世で1番嫌いな大人の臭いだ。
でも何故ここに?この男はそうそうこの施設には来ないはず。つい数日前に視察に来ていたのにまた来たのだろうか。
静かになった心臓が再び激しく鳴り出した。まるで危険を知らせるサイレンの様だとユサは息を呑む。
勢い良く振り向きそいつを押し退けようとするとそれよりも早く腕を掴まれ扉に押し付けられ、暗闇の中に焦げ茶色をしたスーツと顎に白いヒゲを生やした顔が見えた。
「ドルアバ……!!」
その男の名はドルアバ。この施設の創立者だ。ドルアバはその綺麗に伸びた背を丸め舐める様な目でユサを見ながらゆっくりと話しかけた。
「やぁユサ。ここには入っちゃダメだと先生達に言われなかったのかな?」
「っ放せよ!この変態!!」
じっとりとした目線に悪寒が走る。ユサは物心ついた時からたまに施設にやって来るドルアバのこの目が嫌いで仕方が無かった。
頭から爪先まで眺めるその目を見ているとまるで品定めをされている様な感覚になるのだ。
身をよじり腕を振り払うとその大きな深い緑色の目で鋭く睨みつけた。
殺気立った彼の目に代の大人でも腰が引けてしまうだろう。だが、目の前の男は怯むどころか可愛いものを見るように穏やかに笑った。
「ここに迷い込んだ女の子ならさっきリビングに行ったよ。君も戻りなさい」
キャシーがここに来た事も、探しに来たことも一言も話していない。この男はいつも全てを把握しているかの様に振舞うのだ。本当に何もかもがいけ好かないと腹に黒いものを感じながら心の中で毒を吐く。
言われなくても分かっている、ユサはそう吐き捨てると最後にもう一度憎々しげに睨みつけてからドルアバを突き飛ばす様にして走り出す。
暗闇と「もうここには来てはいけないよ」と言う言葉を背に、階段を駆け上がった。
あんな所で会うなんて今日は厄日だとイライラとする気持ちを落ち着かせキッチンへ向かう。
幸い地下に行っていたことは誰にも気づかれなかった様で、キッチンから出てきた先生にキャシーを見つけてくれてありがとうと、何事もなかったようにお礼を言われた。
先程の扉の事とドルアバの事で空返事になってしまうユサの様子に不思議そうに首を傾げる先生を誤魔化す為、タイチとダニーが地下に行ったことがあるらしい事を告げる。
彼女はカノウに昼食の盛り付けだけを任し2階に向かった。
多分数十秒後には怒声がここまで響いてくるだろう。心の中で手を合わせ合掌しつつ、カノウの代わりに昼食の準備が出来るまで子供達を見る為リビングに向かった。
リビングには各々自由に遊ぶ子供達と、やっと泣きやんだであろうキャシーとその顔を濡れタオルで拭いてやっているマヤが居た。
マヤは近づいて来たユサに気づくと先程は何故地下に残ったのか小声で問いかける。
説明に困り変な音がしたからと適当に理由をつけると、マヤの顔は真っ青になり震えだした。
「や、やっぱりお化けいたの…?本当にいるの…?」
「え、あ、違うって。何かが落ちた音だろ」
だから大丈夫だって、と慌てて言うと安心したのか小さくため息をつき目から怯えの色が引いた。
その様子にユサも安心していると腰あたりに服の裾を引っ張られる感覚がして振り向く。見下ろすとキャシーが不安に染まった目でこちらを見上げて「ごめんなさい」と震える声で言い空色の瞳に涙を溜めた。
その今にもこぼれ落ちそうなその涙を手のひらで拭ってやり安心させる為に「もう大丈夫だ」と優しく言えば、キャシーは勢い良く足に抱きつき、ユサが小さな体を抱き上げてやると肩に顔を埋め力強く首に手を回した。
そのままカーペットの上に座り彼女を膝に乗せ背中をトントンと叩いてやる。
「ねぇキャシー、地下に行ったのは強くなりたいからなのよね?」
マヤがそう聞くと肩に顔を埋めたままコクコクと頷く。
「キャシーはどうして強くなりたいの?」
「…マヤねぇ達とバイバイしたくないの…」
震える声を振り絞るようにしてそう言う。そこでユサは彼女が明日の夜にこの施設を出ていってしまう事を思い出した。
「そしたら…タイチが、つよくなれば、またここに戻ってこれるって…」
「それで地下に行っちゃったのね」
「…ごめんなさい……」
大丈夫よ、とマヤは彼女の頭を撫でてやる。
それと同時に2階からイタズラっ子2人を怒鳴りつける甲高い声が響き、カノウがため息をつきながら昼飯が出来たと呼びにリビングへやって来た。
マヤに促され涙をゴシゴシと乱暴に拭ったキャシーを連れ食堂に向かった。
食事が乗ったトレーを受け取ると、マヤとキャシーは幼い少女達にはんば引きずられる様に連れられ席につき、それを見送ったユサもヨシノ達を見つけ席に座る。
「あれ?ユサお前、食事当番じゃなかったのか?」
目の前に座ったユサに気づいたヨシノが水をコップに注ぎつつ言う。
「キャシー探し」
「あぁ、また迷子になってたのか」
それはお疲れ様だったなと労われ水がたっぷりと注がれたコップを手渡される。
その後、食堂の隅で半泣き面で正座をさせられているタイチとダニーを横目に全員で手を合わせ、食事を始めた。
今日の昼食は芋や人参がたっぷり入ったコンソメスープとサンドイッチだ。アルと共に切った大きな芋がスープを吸い、ホクホクと湯気を漂わしている。
「3人に少しお話があるのですが」
他愛のない話をしていると、隣の席のノエルが突然ひどく神妙な表情で口を開いた。
彼の目の前に座るユウが「どうしたの?」と首を傾げるが、深刻な表情のまま何かを言い淀んでいる。
そんな彼の姿にヨシノは眉を潜めた。
「何だよ、改まって」
「…今日の夜、全員が寝静まるまで部屋で待っててもらっていいですか?」
「ここじゃダメなのか?」
「……3人にだけお話したい事なんです」
「…大事な話か?」
ヨシノが問うと彼は力強く頷いた。その表情にただならぬ雰囲気を感じ取った3人は部屋に集まる事を了承し、その後は何事も無かったように食事を片付けた。