先輩の第二ボタン
今日は、卒業式。小学校なら六年、中学高校なら三年間過ごした学び舎に別れを告げる大事なイベントのことだ。
そして今日、私の想い人の先輩がこの祖津行高校を卒業してしまう。私は今まで先輩に対する想いを伝えることができず、いつも遠くから見つめているだけだった。でも、今日が先輩に話しかけることができる最後の日、私は覚悟を決めて今日を迎えた。
卒業式が終わり、私は友達の夏美と先輩達卒業生が校門から出てくるのを今や遅しと待っていた。
「博恵、しっかりと山本先輩から第二ボタンをもらってきなさいよ」
昔から卒業式に憧れの人から第二ボタンをもらう風習がある。第二ボタンは心臓に一番近いボタンであり、ハートに一番近いものと言える。つまり、愛しの彼のハートは私の物ということになるのだ。それをもらうために私は心臓を大きく鳴らし外で待っている。
「分かってる。そういう夏美も頑張って田中先輩からもらいなさいよ。私だけっていうのは嫌だからね」
「分かってるわよ。あっ、田中先輩が出てきた。・・・・・・それじゃあ博恵、私行ってくるからね。結果はまた夜に電話で報告しあいましょ」
そう言って、夏美は私を残して田中先輩の元へ走っていった。置いて行かれた私の心臓はさらに鼓動を速めた。今にも逃げ出したいほどだった。
「あっ・・・・・・」
山本先輩が出てきた。ここから先は緊張のあまりほとんど覚えていない。
私は先輩の元へ脚をもつれさせながら向かった。そして、先輩に第二ボタンを下さいと言った。先輩は私の心を奪った格好いい笑顔でいいよと言ってくれた。それを聞き舞い上がった私は、幾度か言葉を詰まらせながらありがとうございますと言った。そして、先輩は学生服の胸に手を移動させ、胸ポケットに手を入れた。そして、取り出したのはボタンはボタンでもスイッチのボタンだった。
赤いキノコのような形をしたポッチが金属製の土台についている。そして、キノコの頭にはOFFと書かれていた。側面には第二と書かれている。
「大事にしてね」
それだけ言って先輩は去っていった。結局私は第二ボタンをもらっただけで特に進展はなかった。
もらった第二ボタンはどこか押したくなるような誘惑がある。しかし、OFFしか書かれていない。つまり、何か電源を切るためのボタンである。ONがない。ONボタンがあるのなら私は気軽に押したかもしれない。しかし、このボタンはOFFのみの機能しかない。一度押したらやり直せないのだ。そんな恐怖があるため、私は押すことをためらってしまうのだ。
卒業式の夜、私は夏美と電話をした。夏美はうまくいったらしく第二ボタンももらったし、田中先輩と付き合うことになったそうだ。そんな幸せな話を聞くことは失恋した私には苦痛だったので結果だけを聞きすぐに話を打ち切った。
第二ボタンをもらってから十五年が経った。夏美は田中先輩と結婚し、現在は主婦業に勤しんでいる。私はというと何度か良い男性と知り合いお付き合いをしたのだが、結婚に至ることはなかった。
そして、今日は久しぶりに夏美と食事をする日だ。結婚してからなかなか二人の暇が合わなかったのでとても楽しみだった。
「久しぶり、博恵」
化粧が昔より濃くなった夏美が私の対面に座った。
それから、私たちは昔話に花を咲かせて盛り上がった。小学校のころのスカートめくりへの復讐、中学校のころに帰り道に度々出没した変質者。そして、話は高校時代のあの卒業式の話になった。私は、今まで夏美に隠していたあの第二ボタンについて話そうと思っていた。もう、私の我慢は限界を迎えていた。もし、落としてボタンが押されてしまったらどうしよう、もし落下物でボタンが押されたらどうしようと心配になり私は部屋の一番安全かつ常に目の届く場所にボタンを置いていた。毎日毎日ボタンを押したい欲求に駆られる日々を送っていた。そして、ついに夏美に相談しようと思ったのだ。
「夏美、第二ボタンのこと覚えてる?」
「もちろんよ。博恵ったら凄い緊張していたよね」
「うん。そのことなんだけど・・・・・・これ」
私はテーブルにあの第二ボタンを置いた。
「何これ?」
「あの日、山本先輩からもらった第二ボタンなの。私、これをもらってから押したくて押したくて仕方ないの」
突然こんなボタンを第二ボタンとして目の前に出されたらもっと不思議な表情を取るかと思ったのだが夏美は特に表情を変えなかった。
「ふーん。ダーリンのとは違うのね」
「違う?」
「うん。ほら私も持っているんだ。第二ボタン」
そう言って夏美はカバンから第二ボタンを取り出した。
その第二ボタンは夏美のいうように私の持つ第二ボタンとは違っていた。形や大きさよりも最も私の目を惹いたのはONのボタンだった。夏美の第二ボタンにはONとOFFの機能が搭載されていた。
「なっ夏美これ・・・・・・」
色々と言いたいことがあったが
「押したらどうなるの?」
結局は口から出たのはこれだった。ボタンを見ると、現在ONのボタンがへこんでいる。つまり今はONの状態だ。
「えーこれ? これねぇ、OFFにすると、ダーリンが死んじゃうの。でもね、ONにするとまた生き返るんだよ。だから、ダーリンがうるさい時とかにたまにOFFにするの。これが夫婦生活円満のコツかな」
あっけらかんと夏美は話し始めた。ダーリンがOFFの時はたまに家に若い男を連れ込んだりしているそうだ。しかし、そんな話は私の耳にはまったく届いていなかった。
夏美のボタンにはONがあるが、私のスイッチにはOFFしかない。もし私がボタンを押したらどうなるのだろう。田中先輩と同じように死ぬのだろうか。もしかしたら別のことが起こるのかもしれない。例えば、山本先輩の部屋の電気が消えたり、自転車がパンクしたり、もしかしたらもっとすごいことが起きるかもしれない、例えば地球が滅んだり。そんなことを考えると押したいという欲求がどんどん強くなってくる。もうボタンしか目に入らなかった。
気が付けば、右腕は大きく挙げられていた。そして、私は、十五年間苦しめてくれたボタンへと振り下ろした。