原始メロンソーダ
「いけないや。そんなにからめ合っては、ほどけなくなってしまうよ」
二人の髪で三つ編みを作る少女をシアはとがめた。
といって妨害するでもなく、彼女のお気に召すまま。
織辺美緒はシアの髪をするりと指ですくい、たがいを縛るいましめをせっせとこしらえている。
それは無心に。それは夢中で。
美緒とシアはパートナー。学年も同じ。寮の部屋も同じ。所属する部活も同じだ。小さなころから、ずっといっしょにいる幼なじみ。
けれども外見まで似てやしない。シアの大きな目は、常に見開かれているかのようだ。何もない空間を凝視するネコを思わせる。
子供じみたシアの声が、二人きりの室内に火花みたいにポンとはぜた。
「君はなんだってキレイに編める。長いのだって。僕なんかは、くしゅくしゅポイで充分だ。それでもって、できるだけ短くしたい。どうせ傷んじゃうんだから」
シアは淡いオレンジ色のふわふわ髪。ぽちんとわき出た血の一滴をうすめていけば、こんな色になるだろう。長さは肩まで。これがシアなりの短さの限界らしい。これ以上切りつめると、こうして美緒の髪と混ざり合えない。
「そんなことないでしょ。シアの髪、ステキよ」
美緒は正統派のお嬢さんだ。セーラー服も似合っているが、きっと和装もぴったりだ。
呼吸する浪漫。鼓動する品位。
それは彼女が学校指定の地味な制服を着ていても、いかんなく発揮される。
今シアとつながっている長い髪も、いつもは清楚なおさげ髪で、妖しさも艶めかしさもひた隠し。
「何を考えているの」
「もちろんDNAさ。あるいはハイエナの肉球についてのいくつかの考察。でなけりゃ、原始地球の生命スープを泳ぐ空想かもしれない」
軽い電波をおびた音声が、シアの口から波になって飛び出す。
「次の生物部で聞かせてくれる、面白いお話の仕入れはすんだのかしら」
美緒はルームメイトの突飛な言語を難なく読み取る。ホタルのメスが、オスの光のサインを把握するぐらい正確に。
「この地球じゃあネタに困りやしないね。太陽の黒点活動がある限り」
ノドから軽快に電磁波を出して、シアは命の片割れにもたれかかった。
部室にはすでに一年生の時島テトロがいた。
「ちゃーす」
このごく短い鳴き声には、簡潔なあいさつの意味がこめられている。オカッパ頭を強引にツインテールにし、赤いフレームの眼鏡が特徴的な小動物だ。意味もなく白衣などはおっている。知性よりも、粗雑さを強調する着こなしだった。
生物部のメンバーはテトロをふくめて合計三名。これで全員だ。
寄宿舎のある清楚な女学園での青春の一時をテニスやバレー、吹奏楽やチアダンスに費やしたい者は多くても、生物にささげようという乙女はきわめてまれなのだ。
そんな希少な女子高生たちが生息する部室には、いくつもの小宇宙が点在している。様々な自然環境を再現した人工箱庭が、日当たりの良い窓辺に、室内温室に、あるいは低温保管庫に。
これらがただの鉢植えや水槽と違うのは、箱庭の中だけで生態系が完成されている点だ。
テトロはそんなミニ惑星を作るのが上手い。ハチやクモが見事な巣を構築するように、テトロは命の箱庭を作る手腕を持っている。
「おや? お客さまだ。ようこそ、地上のようすにも興味がおありかい?」
廊下から生物部をうかがっていた長身に、シアが声をかけた。
天文部の宇治院天音だ。雄殺闘、素破威棲、玄人帝炎たくさんで作られた鋼のロリータ。あるいは、空をにらむ巨大望遠鏡にありったけのレースとフリルをくっつけたら、こんな少女ができあがる。
「……」
物静かな性格だが、その風貌ゆえに学園の有名人でもある。
気高く凛々しいその顔は、ハリウッド映画やアメリカンコミックのヒーローにも劣らない。並みの男以上に男らしい筋肉美をおおい隠すように、過剰に少女趣味の衣服をまとった漢女。
その下手くそな擬態は誰にもバレバレだったが、天音本人は気づいていない。
また、校舎裏のネコにエサもやらないのになつかれていたり、天音が学園の中庭を散歩しているとどこからともなく小鳥さんが肩にとまったりして、非常にメルヘンしい空間ができあがり、まともな生徒たちを排除するバリアが展開されるのだが、そのことも天音は気づいていない。
シアは気軽さを装い、その天音をさそう。厄介者には自分から近づいてくのがシア流だ。
「部活動といっても、偏屈者たちの有閑談義でしかないのだがね。ちょいとばかしの水分子と炭水化物と情報を体内に取りこむ催しさ」
「一緒にお菓子でもどう?」
すかさず美緒が翻訳した。
天文部の巨大彗星は、地球に接近するようだ。天音がドアを通る時、頭を彩る白いリボンがドア枠にこすれた。天音は大きい。その上、髪などボリュームたっぷりのロングの巻き髪ときている。
天音とテトロが並んでテーブルに着く。テトロは今にも潰されそうだ。
誰かが部屋をのぞいたら、その身長差で遠近感がおかしく見えることだろう。
「宇治院先輩、このサビれたエリアによくきてるッスよね。目ぼしい施設なんざない、学園内の辺境の地だってのに。滅多に使われない特別教室やさえない部ばかりがつめこまれたこの棟は、地球でいえば北極点。宇宙でいえばオールトの雲のようなもんッスよ」
「……」
天音はだまって受け流す。
その天音が一瞬だけ美緒に視線をむけたのを、シアだけが見逃さなかった。
飄々とした少女は感づいたそぶりを露とも見せず、宴の采配。
「さて、飲みものを用意しようじゃあないか」
シアは低温保管庫の扉を足で開け、ペットボトルを取り出した。
良いあんばいに冷えている。
全員のノドがうるおったのを確認してから、シアは粉ジュースの袋を手にして告げた。
「お味はいかがだったかな? 君たちが飲んだものには毒が入っている。さらされただけで微生物を死滅させ、鉄をも酸化させる物質だ。人体に取りこまれると細胞やDNAを破壊する。高濃度のものを吸引すれば、肺が血まみれになるだろうね」
まっさきに反応したのはテトロだった。
「なな、なんつーことしやがったデスかよ! アンタならいつかやりかねないたー思ってたけど、まさかまさかよ、こんなタイミングでしかけるなんざぁ、テトロ大誤算ッスよ!」
はすっぱ眼鏡娘がシアにつかみかかる前に、天音がテトロの白衣をぐわっしとつかんだ。有無をいわさず。天音自身も何もいわず。
「まったく。そうやって人をからかうのは困ったクセね。毒の正体は水、なんてオチなんでしょう。シアったら、本当にイタズラ好きなんだから」
「聡明な美緒。どんなものでも過剰摂取すれば有害だ。水も場合によっては毒となる。でもハズレ。正解は酸素だよ」
酸素を溶けこませた飲料水。普段肺から取りこんでいるものをわざわざ水に混じらせて、いったんどんな効果があるか疑問だが、まあこのように、話題のとっかかりにはなる。
「現在、僕らは猛毒の中で命を営んでるってわけさ」
合成着色料でエメラルドグリーンに輝く液体をシアはくいっと飲みほした。果汁0%のメロンジュース。香料と色素で再現されたチープな味わいが、シアはけっこう気に入っている。
「地球に宿った初期の生物は、水素と硫黄とで息をしていたって話だよ」
「……そこに二十七億年前、あるバクテリアが光合成によって酸素を発生させた」
宇治院天音が、淡々とした声でわって入った。
「そ。さすが天文部。地球の歴史にもくわしいね。で、毒ガスは地味に増えてった」
「地味? とんでもねースよ。ありゃー惑星規模の大反逆じゃねえッスか」
見てきたようにテトロがぼやいた。
「光合成で作られた酸素は膨大だった。だけど先に海水中の分子と反応しちゃうから、なかなか大気中の酸素濃度は増えていかなかったね。それでもやがて、海も空も猛毒の酸素におおわれるようになったんだ。生物にとって危険な毒で」
ガラスごしに侵入した太陽光が、窓辺に座るシアを抱きしめる。光が髪のたんぱく質をくぐりぬけていく。
赤い。その髪のなんと赤いこと。
隣の少女を横目で眺め、美緒はほうと息をついた。
「酸素出すとか、マジ厄介なことをしてくれたデス。当時の生物からすりゃー迷惑千万、百害あって一利なしの蛮行ッス。人間が絶滅させた生き物の数と、あのバクテリアが殺した数を競わせてみたいんもんデスよ」
「そうだね。でもその危険な毒ガスから、爆発的なエネルギーを得られる者が現れた。これがどれだけ有利なことかわかるね? そりゃもう、一人勝ち状態さ。そこで他の生物たちは選択を迫られた。一つ、酸素のない限られた環境に逃げる。もう一つは」
シアは立ち上がり、美緒の背中におおいかぶさった。腕をからめて、美緒の手を取る。
「過激な危険物取り扱い者と手を結ぶこと」
「シア先輩。テトロの脳ではノルアドレナリンが絶賛放出中。イチャつくのは寮の中だけにしてほしいッス」
「……寮より牢にでも入れておけ」
「ほら、シア。ふざけないの。ちゃんと座りなさい」
馬耳東風。シアは美緒の頬の下で、ヘモグロビンがせっせと働く姿を観察した。
「動物のミトコンドリア、植物の葉緑体が、酸素取り扱い免許を持った生物の名残りだと考えられている。教科書に載ってたと思うけど、ミトコンドリアは細胞内の器官だよ。それなのに、本体の生き物とは別に、ミトコンドリア独自のDNAを持っているんだ。簡単にいうとね、細胞の中に他の生き物が住んでる、って感じ」
「きゃっ」
小さな悲鳴。それもそのはず。美緒のカーディガンの中、シアの腕が忍びこみ、二人羽織りのマネごとに興じはじめた。
「美緒先輩。悪質な寄生生物が背中にくっついてるッスよ。天才無免許外科医ブラック・テトロが、特別ご奉仕価格の一千万で治療してあげるデス」
「僕と美緒の絆が、メスなどで切り裂けるものか! 抗生物質だろうが、漢方薬だろうが、かかってこいってんだ!」
天音は生物部三人が織りなすドタバタ騒ぎを静観した。任務のため、彼女たちと同じ部に所属することも考えたが、距離を置いて正解だったかもしれない。
この騒動にはついていけない。学園の中庭で小鳥さんとおしゃべりしたり、夜空のお星さまに悩みを相談したりする方が、天音にはむいている。
いつまでもながめていても仕方がない。この間届いたお星さまからのアドバイスにしたがい、天音はゆっくりと口を開いた。
「質問して良いだろうか」
その声に、シアとテトロが舌戦を休止した。
「地球の原始の生命は、どうやって発生したのか」
生物部の学友にむけるなら、特にさしさわりのない言葉。
だがこの場にいるのは、ただの十五歳から十八歳のホモサピエンスのメスばかりではなかった。
せまい室内で、見えざる緊張感がはりつめていく。
この部屋の少女四人のうち、純粋な地球産の生命体は、一人しかいない。
「パンスペルミア説という仮説を知っているだろうか」
問いかけの返事を待たず、天音は淡々と続ける。
「宇宙空間に生命の素が存在し、その一つが地球に根づき、増えていった。という説だ」
「ははあん。壮大なお話ッスねぇ。テトロ、ぜひもっとお聞きしてーデス」
「ダメだ」
かすれた小声でシアが制止。けれども効果のほどもなく。
「もし地球の生物が宇宙由来だとしたら、その発生源はどこなのかしら」
生物と天文をたしなむ少女たちの知的歓談として、ごく自然に話の流れをつむぐ美緒。会話のキャッチボールで、良心的な球を投げる。
はね返ってきたのはかなりの暴投で、球というより弾だった。
「……お前だ」
部屋中に閃光が炸裂する。フォトン・シュート。天音に搭載された数ある技の一つだが、技名を叫ばなかったせいで、シアたちがその名をしることはなかった。戦闘時に格好良く攻撃を宣言するようにはプログラムされておらず、これは明らかに製造者の設計ミスである。
そして先制したにも関わらず、ターゲットを取り逃がした。これは天音自身のミスだ。
「どういうことなの」
「どうもこうも」
シアの口ぶりはいつもどおりだが、その体は見なれぬものになっていた。
赤かった髪はまったくの緑色。よく見れば、髪の一本一本が粒子が連なった鎖になっていた。
生物部の美緒はこれに似たものをしっている。顕微鏡のむこうで何度も見た、細長く連なった藍藻の群体だ。シアの髪はそんなミクロサイズではなく、一つの粒子がだいたいビーズぐらい。水中にたゆたうごとく、空中でふわふわ動いている。
ゆれているのはそれだけではない。シアのそばで複数の楕円球体が、ふよふよ浮いている。髪の色素を奪ったかのように、それは血をうすめた赤だった。大きさはテニスボールほど。これの類似物は、美緒でも思い浮かばなかった。
「天音くんが強硬手段に出るなんて意外だったよ。アホのテトロくんならまだしも」
あの寡黙な観察者がこうも過激に三十八億年続くこう着状態を破るとは。シアは予測していなかった。急な出来事だったが、どうにか美緒を確保し部室を脱出した。
今、二人は放課後の校舎の家庭科室に身を潜めている。
「美緒。さっき天音くんがいってた仮説を覚えてる? 地球の生命は、宇宙からきたって」
美緒はうなづく。
「あれは事実だよ。そしてそれとは別に、メタン渦巻き、雷鳴とどろく原始の地球の海からも生命が発生した」
異形の娘が、美緒にほほ笑んだ。
「起源の違う二つの生命系統が、ほぼ同時期に発生した。それからは三十八億年にわたる生存競争の歴史さ。あらゆる手段が駆使されたものだよ。攻撃。諜報。裏切り。侵略。謀略。情報戦。生き物は実にしたたかで、非情で残酷だ。ウソも戦争も同族殺しも、ヒトだけの特権じゃない」
「シア。そんな大事なことをどうして教えてくれなかったの」
美緒の手が、変容をとげた友の髪に触れた。いかなるほ乳類とも異質な、さらさらとした粒子の毛髪。
美緒の目が思わしげにふせられた。色濃いまつ毛が白肌に映える。
「かなりのトンデモ論文だけど、こうして生き証人もいることだし、学会に発表すれば今までの生物観を根底からくつがえす大発見になったでしょうね」
そうして美緒は悩ましげなため息をついた。
「知識と野心に燃える、僕の可愛い美緒。心からすまないと思っているよ。でも僕には、科学者たちに細胞を培養されたりゲノム解析されるよりも、優先すべきことがあるんでね」
シアは美緒の三つ編みをひょいとつかんだ。
「君と親睦を深めるのが、僕の最重要事項さ」
「ふへーっへっへっ! そんでもって! こーいう不埒な悪い虫をバッチリ退治するのがテトロのお仕事ッス!」
罪もない窓ガラスをぶち破り、ド派手に登場したのは時島テトロ。上の階のベランダから、サーカス並みの軽業で突っこんできたのだ。
見れば、テトロの鼻に大人しく乗っていた眼鏡が、進化をとげていた。顔をおおうのは、ガスマスク。短いツインテールが飛び出ている。マスクの一部かと思うほどの一体感だ。
地球の空気はテトロに適さない。
宇宙規模ではこの星が異常なのだ。酸素が溶けこんだ毒の大気で、平然と暮らす生き物たち。それだけでも非常識なのに、その毒を利用してエネルギーを作るのだから、どれだけ貪欲なのやら。おまけに、そうして得たエネルギー量は圧倒的だ。酸素という危険物に手を出す気のないテトロたちからすれば、地球は厄介な生き物であふれ返った魔界になってしまった。
「ロクでもねえ星になっちまったもんスねー」
「そうそう。だから地球なんて放っておきなよ」
「ヘッ! そうはいかねいデスぜ。なんたって、テトロは白衣の天使ッスから」
ガスマスクのせいで、テトロの声はこもっている。その表情は本人もふくめ、誰にも見えない。壊れた窓からの風で、すその長い白衣が舞い上がった。
「この宇宙に増えて栄えるのは、惑星ノアから飛び立った、清く正しい生き物だけで良い」
テトロの態度が一変する。
「その善なる魂に、いやしい者が取り着いてしまった。忌むべき寄生者は駆除せねばならない」
「ご立派な使命感だ。で? できるのかい? お医者さま」
挑発するように、シアは美緒を抱き寄せた。両腕がふさがってしまうが、シアにとって問題はない。大事な武器は緑の粒子鎖と、宙にただよう血色の楕円球だ。
「ここ数億年の病状の進行は、そりゃー目まぐるしいものだったッス。やっぱ、初期段階で感染拡大を止められなかったのが、失敗でぇやしたね」
軽口に戻り、へらへら手をふったかと思えば、キチリと姿勢を正し。
「以上をふまえ、診察をくだす」
テトロは輪ゴムみたいにきょぴっと跳ねた。
「大変お気の毒デスが、この星はもーう手遅れッスねー! 切開手術にて、ゴフェルを強制摘出するしかありまセーン!」
ゴフェル。
シアはその言葉に眉をひそめ、美緒は聞きなれぬ単語に首をかしげた。
が、数秒考えポンと手を打つ。そんな名前の菓子があった気がする。ゴーフル。クリームをうすくはさんだ、これまたうすい生地の洋風せんべいだ。それでなければ。美緒の脳はさらに類似語を探索した。ゴブレット、なんてものもある。ゴブリンやエルフとも関係がありそうだ。あるいは、ゴルフに似たものだろうか。
「天音くんに触発されて、君まで過激な手段に出るか。のんびり部活動タイムを邪魔されて、僕は大変悲しいよ」
「触発? 思いつきで動いてるわけじゃないッスよ」
テトロは会話を続ける。白衣のそでの中で、患者への執刀準備がひっそり着々と進められていた。
「現在、地球生物のほとんどは寄生者に侵された状況。色々手を尽くした感があるけれど、もうダメ。末期患者デス」
「そうそう。巨大隕石が降ってきたし、氷河期を誘発したり、色々やってくれたよね。何度大量絶滅が起きたことか」
それだけされても、しぶとく生き残っているシアである。
「くひひっ! テトロに時間をくれて、とってもサンキュー。時間稼ぎにも気づかずに!」
テトロの体組織の変化が完了した。
「顕在せよ。『ヴェサリウスのハサミ』!」
白衣のそでから、数本の触手が伸びる。その先端には、硬質化した組織がついている。テトロのハサミは、腹を空かせたようにガチガチと音を立てた。
『ヴェサリウスのハサミ』。地球人の文化でいうと、影絵の『狼』や縄跳びの『二重跳び』、鉄棒の『連続逆上がり』などに相当するものだ。
テトロの種族では、触手はあらゆるスポーツや工芸に使われ、豊かな触手文化を築き上げている。爪や牙に似た部分をそなえた触手変形スタイルが『ヴェサリウスのハサミ』。
「戦いの前に、一ついっておくことがあるッス。特にそっちのぽぁぽぁ頭は、うす汚ぇ耳穴にドリルを突っこんで掃除してから、心して聞くデスよ」
「おや。何かな」
触手で腕組みをしたテトロが、シアをにらみつける。
「テ、テトロの腕を見て、げ……下品なこと考えたら、頭蓋骨に穴開けて、脳みそに直接お薬を注ぎこんでやるッスから!」
「えー。自分から破廉恥きわまりない器官を衆目の前に丸出しにしておいて、何をいってるんだろうね」
「そうよね。まさかこの学園の生徒が、そんな卑猥なうねうねしたものを体につけていたなんて……。嫌、けがらわしいわ。テトロちゃん、そんなものダメよ。良い子だから、早く服の中にしまってちょうだい。……ね?」
「テトロの種族の手デスよ。そういう反応をされるなんて、不本意ッス! ほら、これのどこが卑猥ッスか! 人間はおかしいデス!」
きしゃーと両腕をあげて抗議するテトロ。
「い、いやぁ」
両手で顔を隠す美緒。指の間からは、もちろんちゃっかりのぞいている。
「テトロくん! セクハラはやめないか!」
「セクハラはお前らの方デッス!」
かくして、乙女の戦いは幕を切ったのである。
家庭科室は動きやすい場所ではない。
どっしりとした調理台が並び、食器や調理道具を納める棚が壁をうめている。
料理の授業をするようにデザインされた空間で、けしてガスマスク白衣を着こなした触手腕の宇宙生物とのバトルを繰り広げることを想定されて作られたものではないからだ。
移動が制限される状況は、しなやかな触手を操るテトロに有利に働いた。
美緒をかばいながら、シアは素手で防戦に徹する。ギザギザしたハサミはサメの歯みたいに凶悪で、ほ乳類の皮など、たやすく裂いてしまう。人間の少女の柔肌なら、なおさらのこと。
「いつもイツモいつもイツモいっつも目の前でイチャこらしやがって! ざまぁ、良い気味ッス!」
シアの腕をハサミがかすめた。
「くっ」
傷口から流れるシアの血は、あちらこちらに飛び散り、赤い点描を壁にも天井にもつけた。傷自体は浅いのに、血の量がやたらと多い。
「なんて手強い攻撃だろう。僕はもうボロボロだよ。見ておくれ、美緒。壁に散った鮮紅の花を。あれは、君を守った僕の命から咲いた輝きなのさ」
「まあ、シアったら。困ったわ。誰かきてくれないかしら。美術部の娘がいれば、悲壮な戦いに挑むシアの姿を油絵に残してもらえるし、文芸部なら詩を頼めるのに。演劇部に舞台効果をお願いできれば、ステキよね」
「いとしい美緒。君のいうとおりだよ。僕がこんなにがんばってるのに、スポットライトも暗転フラッシュもないとはね。オマケに敵役は珍妙な格好をしたマヌケな小娘だ。悪のカリスマというものがまったくないじゃあないか」
「ほほー、いってくれるッスね。そんなテトロに手も足も出ないくせに、口だけは達者なもんデス」
ヘビが鎌首をもたげるように触手が不穏にうねる。
「心臓を貫かれてー、脳みそ喰い進まれてー、腸にハサミぶちこまれても、減らず口が聞けるのか試してみるっスッかねー」
「テトロくん。知的好奇心を失わないのは良いことだ」
芝居がかった仕草で、シアはテトロを指さした。
「だけど観察力に欠けるのは」
部屋中に飛び散ったシアの体液は、壁や天井に付着しながら、ずっと大気中の酸素と水分からエネルギーを溜めていた。一滴の血が拳サイズのスライム状にまで成長し、ひっそりした粘液の群れは本体からの指示を待っている。
「生物部員として失格だね」
上下左右。全方向。生きた弾丸の集中砲撃を避ける手段はなかった。この部屋は移動しづらい。有能な触手のおかげで、テトロはほとんど動かずに済んだ。同じ位置にいた。狙うのは楽。手ごろな的だ。
「ぎええっ!」
テトロ絶叫。被害程度は、ゼリーがつまった水風船の爆撃に匹敵する。ピシャリと肌に響く痛みはあるが、それだけだ。後はひたすら気持ち悪いだけ。
「うげっ。たいしたことねーデスけど、嫌な攻撃ッス……」
テトロは肌に嫌な鳥肌が立つのを感じた。べちょべちょドロドロが体の上をはい回っているなんて最悪だ。
そう、それは重力に逆らい、上に向かってはいずり回り……。
「ッ!」
息がつまる。
ガスマスクごしに、憎たらしいバカップルの声が聞こえる。
「ねえ、美緒。生き物の死因の本質って、なんだと思う?」
「息の根が止まることじゃないかしら」
「単純明快な真理をありがとう。そのとおり。焼死と溺死、大量出血と血管封鎖、ケガと病気。どれも根本的には、正常に呼吸ができなくなって死ぬ」
ガスマスクの空気取りこみ口には、空気中の有毒物質を吸着してくれるフィルターがある。
テトロは体力を温存した状態なら、地球の酸素濃度でも活動できる。惑星ノアの生物の多くが瞬時に死滅してしまうのに比べて、テトロの種族の酸素耐性は高い。
それでも本気モードを出すにはキツイ環境なのだ。時島テトロが、凶悪な触手腕を操るマッドでサイコなケミカルガールでいるためには、ガスマスクは必須アイテム。けっしてノリやコスプレ気分で装備しているわけではないのだ。
スライム状に変化したシアの体液がマスクの呼吸口にへばりついて、テトロの息をふさごうとしている。
「シア。あなたの血から発生したスライムは……」
「うん?」
「服だけを溶かしたりできるのかしら」
「それは難しいなあ。溶かそうとすると、皮膚も肉もドロドロにしちゃうからなあ。あと、相手の細胞に入りこんでDNAを書き変えて、異常なたんぱく質を作らせて自壊させたりはできるけど。衣服だけをピンポイントで溶かせるスライムは、きっとその道のプロなんだよ」
「そう、残念ね」
「あがががが……」
シアは息苦しさにもがくテトロの背後に回りこみ、その無防備な膝裏に的確な一撃を見舞った。
「ていっ」
芸術的なまでの膝かっくん。
こけたテトロを押さえつけ、ガスマスクをひっぺがす。地球の酸素濃度の中では、テトロは本気を出せない。ごく普通、あるいは平均以下の運動神経の少女でしかなくなる。
シアはそのことをしっていた。シアは細胞にもぐりこむ天才だ。スライムが付着した時点で、テトロのDNA解析ははじまっていた。その情報は、本体であるシアにも伝わる。
「シア。私、樹脂標本を作るためのセットを持ってくるわ」
「お待ちよ。樹脂標本はキレイだし、虫がわく心配もないけど、これだけ大きいサイズの生物をプラスチックに封入するのは無茶ってものだ」
樹脂標本は虫や小魚によく用いられる保存法だ。
いくら小柄でも、さすがにテトロはそこまで小さくはない。
標本に使うプラスチック代だってバカにならない。一年分の部費がすっ飛んでしまう。
「防腐処理して、剥製にするなんてどうかな?」
「この皮膚のうすさで、剥製を作る自信は私にはないわ」
「それじゃあホルマリンが良い。上手に作って、ちゃんとメンテナンスもすれば、何十年ももつそうだよ」
自称白衣の天使は生きた心地もせずに二人の談話を聞いていたが、やがてシアに小声で語りかけられる。
「ゴフェルはわたさない」
そこに、いつものふざけた調子はなく。
「この星に方舟を送ったのは、昔の君たちだろう。今さら取り戻せるなんて、まさか、本気で思っていないよね?」
押し殺されたシアの声は、美緒には聞こえていない。
「今さら名医気取りのエージェントを派遣したぐらいで、僕らを切り離せるとでも? 巨大隕石、全地球凍結、超酸素欠乏。地球規模の大作戦ですら失敗したくせに。僕らはそれでも離れなかった。君を送りこんだ無能な上司にでも伝えておくんだね。もう地球に関わるな、と」
いいたいことはいったから、もう用はないもんね、ぽいっ。とばかりにテトロを解放する。
ゴフェルを直接取り出そうという今回の計画は、ある意味で隕石よりも厄介だ。相手がテトロごときで良かった。
もし、シアの手に負えないほどの強敵がきていたら。三十八億年、シアがにぎりしめていた大事なものが、こぼれ落ちてしまったかもしれない。
「いこう、美緒」
「そうね。いつまでもグズグズしていたら、私たちまで窓ガラスをわったと誤解されてしまうものね」
家庭科室のドアを開ける。
「きゃあっ!」
「美緒!」
ドアのむこうでは、卑劣なワナが待ちかまえていた。トラップは見事に作動。
惑星ノア産のザラザラカリントウガニとトラモンダコの軍勢が、美緒を襲撃した。今回のミッションのために、惑星ノアの優秀な科学者を集めて品種改良した、耐酸素能力を持つ生物だ。改良は上手くいき、テトロのお供として地球にやってきたというわけだ。
「くひひ……。猛毒のプレゼントは気に入ったッスか? 自然界最強の毒、テトロドトキシンをお見舞いデス」
テトロドトキシン。通常は有毒生物を食べなければ問題ないが、トラモンダコは触れたり噛まれるだけで毒が回る。ザラザラカリントウガニもこの毒を持っているが、タコに捕食されかけていてそれどころではないようだ。ああ、彼らはどうして地球に連れてこられたのか。
それにしても困った状況になった。シアは頭をひねる。無理に吸盤を引っぱれば、美緒の肌に傷がつく。その程度で済めばまだマシで、肉まで持っていかれたら……なんて、考えたくもない。
「力づくではがすのは、良いアイディアじゃないね」
ここでじっくり考えて、トラモンダコの猛毒で美緒が死んでしまったら悲劇である。ドラマチックな二人に困難はつきものだが、タコが原因で死に別れというのは美しくない。
「ひーっひっひっ! 下手に攻撃すれば、お前の大事なパートナーもタダじゃすまねぇッスよ……ぐえっ!」
はいつくばったままで勝ち誇った笑顔を浮かべるテトロをわざとふみつけて、シアは家庭科室で何かを探しはじめた。
手にしたのはフライ返し。
「ま、なんでも良いんだけど」
コンロの火であぶって、フライ返しに炎属性をつけてやる。
「ほらほら、離れる離れる」
熱をおびたフライ返しでトラモンダコに挑む。タコを牽制し、注意を引きつけ、追い払い。そうこうして美緒は、卑猥なうねうねから救われた。
だが、顔色が悪い。
「美緒!」
声をかけ、軽く頬を叩く。反応がうすい。マヒの症状がある。
テトロドトキシンには解毒剤が存在しない。神経を侵し、脳からの指令伝達が妨害されてしまうのが、この毒の特徴だ。
当然、呼吸に関する脳の指令も届かなくなる。
そうなれば、いずれ訪れるのは、死。
「……なんてことだ」
「白衣の天使を足蹴にした報いを受けるが良い。愚かで汚れた地球の民よ」
「これじゃあマヒが自然に治るまで、ずっと人工呼吸を続けるしかないじゃないか!」
「罪を悔い改め、鼻水を垂らしながら泣いて謝れば、慈悲をかけ……って、うひゃあああぁっ! な、わっ、学校でなんつーことしてるデス、お前ら!」
「ヤブ医者は静かにしてくれたまえ。僕の医療行為を邪魔しないでほしいな」
即効性の薬こそないが、テトロドトキシンは人体でゆっくりと分解されて無害なものに変化する。
無害化するまで呼吸を補助してあげれば、命を落とす確率はぐんと減る。
「美緒を死なせはしないさ。僕は呼吸のプロなんだ」
緑の粒子鎖と血色の自立式細胞器官を明滅させて、シアが答える。
「ふん、よくいうデス。汚らわしい寄生生物め!」
白衣を着こんだ天の使いは、そう吐き捨てるのがやっとだった。
「気がついた? おかしなところはない? 体は大丈夫?」
美緒が目を開ければシアがいて、テトロは消えていた。
「ええ、気がついた。シアの手が私の太ももをなでていることにね。でも、おかしな気分になんてならないわ。体が大丈夫かは……」
美緒は制服の胸元をチェックした。セーラー服のリボンがほどかれている。
「まあ」
「誤解しないでおくれ、いとしい人。毒に侵されたその体が、少しでも楽になるようにとの、紳士的な気配りだ。君の体は白百合のように清純なままさ。僕がそれを手折るような、無粋なマネをするはずがないよ。ああ、だけれども、可憐な花に目をうばわれ、清楚な香りに心ときめかせることさえ、罪だというのかい?」
距離をつめるシアを軽くあしらい、美緒はリボンをきちんと結び直した。振り返ってシアの目を見る。唇には微笑。
「地上には色々な生き物がいるけれど、私、ヘビってとても魅力的だと思うの。その姿にも生態にも、本当に誘惑されてしまうわ。それから、そうね、果物ではリンゴが一等好きよ」
三つ編みをたらした清純な容姿でいながら、美緒の表情はどこか妖しいふくみ。
「美緒。それは禁断の果実だね。僕が君に知恵の木の実を食べさせるなんて、あり得ないよ。これ以上賢くなってどうするんだい。お願いだから、無垢なままでいておいでよ」
冗談めかしていったが、シアの切実な思いでもあった。
廊下にカツンと靴音。
二人は振り返る。
飾り立てられた八センチのヒールとは反対に、その肉体は他のどんな形容もつけ入る隙がないほど……マッチョだった。
「天音くん」
「なぜゴフェルを時島テトロにわたさなかった」
「おや。君とテトロくんは敵対関係にあるとばかり思っていたよ。僕と美緒が腕を組んで愛をささやきあう間に、テトロくんと手を組むような仲になっちゃって。君もすみにおけないねえ」
天音が首を横に振る。ボリュームのある縦ロールがゆれて、鉄筋コンクリートすら粉砕しそうな錯覚におちいる。
錯覚、であれば良いのだが。
「ネフィルの使途がノアの手先と協力するものか。テトロが生体からゴフェルを摘出したところで、私がゴフェルを完全消滅させる。その機会を狙っていただけだ」
「へえ。自称白衣の天使がそれに失敗した今、自ら破壊と暴虐に乗り出したとか?」
「ネフィルの目的は破壊ではなく保護だ。この星をあるべき姿に戻すための善意だ」
高らかな音。それはシアのノドから発された哄笑だった。
「ノアの奴らも勝手なら、ネフィルもずいぶんとお節介だね。僕らのあるべき姿なんて、誰が決めるのさ? 僕と美緒がこうして息をしている。それが僕の現在の姿だ」
「星には星の運命がある。その星独自の命が育まれるべきなのだ。ノアの者は、あらゆる星に自分たちの方舟を送りつけ、元々いた生き物を駆逐し、とめどなく増殖していく」
美緒は天音の話をふむふむと聞いていた。規模が宇宙クラスに壮大なだけで、わかりやすくいえばこういう話だ。
他の天体からやってきた強力な外来種が、地球の在来種をおびやかしている。外来種は、時島テトロが属するノアという国だか組織だか惑星だかが、意図的に放ったもの。宇治院天音はそれを阻止するためにやってきた。
生物部の部長である美緒も、なんとなく天音の立場が分かる。テトロの星がやっているのは、とうてい褒められたことではない。ミドリガメの名でおなじみのミシシッピアカミミガメを日本の河川に逃がしたり、ペットショップで売られているヒメダカを野生のクロメダカの生息地に放つようなものだ。自然愛好家が怒って当然の行為。
「ノアが放った命の種と地球の命が混ざり、不自然なキメラを作り出した。私は地球に寄生するノアの系譜を断つため、惑星ネフィルから遣わされた」
つまり外来種とその雑種を退治しに、わざわざ遠い星からやってきたそうだ。
ご苦労なことだ、と美緒は思う。
日本からセイヨウタンポポとその交雑種を完璧に追い出すだけでも、目まいがするほどの難業なのに。
「ゆがめられた自然は、正さなければならない。私の役目は純粋な地球在来種を保護し、ノアの系譜はびこる地球を浄化すること」
この場にエコロジストがいれば、盛大に拍手するだろう宣言。
「純在来種を確保後、地球を元の自然な状態……。三十八億年前、原始生命の海の時代にまで返す」
先ほどの拍手がぴたりとやみそうな発言だ。
「やれやれ。押しつけがましいのは、見た目だけじゃないってわけか」
古典的熱血バトル少年マンガのように、シアと天音はかまえた。
両者、対峙する。
美緒、傍観する。
格闘ゲームをたしなまずとも、なんとなく二人の傾向がわかるものだ。
シアがスピード重視でトリッキーな動きで相手を翻弄するタイプ。
天音はパワーあふれる重戦車型ファイター。隙の多い高火力技か投げ技が得意そうな顔をしている。
なんてことをゲームもケンカもてんで素人の美緒が分析してみる。
廊下で巨大な天音とむかい合いながら、シアは頭の中で動きを組み立てる。天音がどれほどの力を持っているのか、読み切れないところがある。それならば素早い動きで挑発し、攻撃を避けながら天音の行動パターンを把
握
す
r 、
シアが現状を理解するために、数秒の猶予が必要だった。
鼓膜に反響。三半規管には撹乱の名残り。痛みは現在進行形。
自分は家庭科室の前の廊下にいて、で、こっちに美緒がいて、目の前には天音がそびえ立っていて。それがついさっきのこと。
今は。
ひんやりとした硬い感触を頬に感じる。校舎の床。
視覚には何が映る? そばには灰色をした階段の踊り場。
シアの頭は混乱したまま、ツッコミを入れる。おいおい、位置関係がおかしいじゃないか。家庭科室前から階段のある場所まで、かなりの距離がある。普通の女子高生が突き飛ばせる距離でもなければ、ガチムチ柔道部員男子にだって投げ飛ばせる距離ではない。
いや、まあ天音がパワフルで投げ技が得意だって、なんの不思議もない。というか、まさしくそういう外見をしているではないか。うむ、実にパワフルだった。
厄介な事実に気づきはじめたシアの脳が、無闇にハイなテンションの思考を形作る。
問題は。
問題は天音の動きについていけなかったこと。
何が起きたのかさえ理解できなかったこと。
要約すれば、宇治院天音は、強敵だ。
廊下のむこう端で、天音のロリータ靴が床を蹴る音。
シアはネコ科の猛獣に似た動きで跳ね上がる。
いつもは余裕で獲物を追いつめるはずのそのケモノは、今は手負いで消耗していた。
迫る鋼鉄のロリータ。突進のスピードはそのままで、強烈な膝蹴り。
ぎりぎりで避けた。
ところに踵での追撃。まともにくらう。
「ぐっ!」
シアは意識を手放さなかった。振りむきざま、自分の血液を天音の体にふりかける。
「分子レベルで崩壊しろ! フリー・ラジカルッ!」
シアの緋色の細胞器官が活発に光る。
天音にかかったシアの血が、バチバチと火花を立てた。
……それだけだった。
「きかないな」
スカートをひらめかせ、片手で優雅に胸筋を押さえながら、天音は涼しげな顔で答えた。
「っ……。予想外だよ。普通なら、肉まで侵食されるものを」
圧倒的不利だった。
攻撃がきかなくても、付着したスライムから相手の遺伝情報を読み取り、弱点を看破できれば、反撃の手が見つかるかもしれない。
しかし、宇治院天音にはDNAがない。
アンドロイド。
猛毒の酸素におおわれた地球にエージェントを送るため、惑星ノアは優秀な科学者を総動員して大がかりなプロジェクトを始動させた。酸素耐性の強い種族を遺伝管理し交配させ、幼少期から工作員としての特殊な訓練をつませる。禁忌の技術。人権の冒涜。そしてついに地球の酸素濃度に耐えられる特殊エージェント、テトロを産み出した。
一方、ネフィル人は酸化に強い加工をしたロボットを作った。
シアは跳躍し、天音から離れる。ここは距離をおいて、態勢を整える必要がある。
が、天音の反応速度がシアのスピードを上回っていた。
一瞬で間合いをつめられ、足をすくわれる。
「うあっ!」
シアは無様に転がるしかなかった。
天音には隙がない。シアに猶予も与えない。筋肉質な太ももを大きくあげているのに、パンチラすることもない。フリルのついたスカートには、鉄壁の防御フィールドでも働いているのか。
「抵抗はムダだとわからないのか」
上からふってくるのは、穏やかで落ち着いた声。
息切れすらしてませんか、そうですか。こっちはもう体中の筋肉が、酸素運びの赤血球さんを引っぱりだこですよ。なんて、シアは脳内でおちゃらけたグチをこぼしてみる。口に出す余裕はなかった。
「大人しく私に保護されろ」
見えた。
ゆらぐ意識の中、目を開ければ、幾重にも重なった布の海。天音の鉄壁防御フィールドの内部だ。ファンシーなスカートの下に、ふわふわとふくらむ素材のスカートを重ねばきして、ゴージャスなボリュームを出しているのか。そんなことを冷静に観察してしまう。
「……僕には、夢があったんだ」
「何?」
シアのつぶやきに、天音が一瞬動きをとめる。
「あこがれ、といいかえても良い。もしくは浪漫かな。とにかく僕は、その夢に向かって努力した。練習の繰り返し。何度も、何度も……」
「お前は何をいっている」
無表情でシアを見下ろし、問いかける天音。
シアの心臓は緊張で高鳴っていた。手の平に嫌な汗がにじむ。体の中で数百匹のウサギが跳ねまわっているように落ち着かない。それでも、シアは手にしなければならない。
自分の未来を。地球の活路を。
「つまり、こういうことだよぉおお!」
腕を伸ばした。シアがつかみとったのは希望。
幾重にも重なったスカートに隠れていたそれが、今まさにシアの手にあった。
「! お、お前っ、バ、バカ……ッ! 放せ!」
「誰が放すかっ!」
全身の力でずり下げる。指の骨がきしむ。喰いしばった歯が砕けそうだ。それでもシアは力をゆるめはしない。
「ひっ、いやあっ!」
意外とかわいい声だった。声は。
筋肉質な太ももをぴっちりと閉じて、天音がしゃがみこむ。さすがロリータ。スカートの中まで徹底されていた。生成り綿のドロワース。フリルとレースがふんだんにほどこされた半ズボン型の下着がずり下ろされ、足首の辺りでからまっていた。
いつか美緒にしかけてみようと練習していた技が、こんな場面で役に立つとは、シアも思っていなかった。
シアはさらに追い打ちをかける。突然の事態におろおろする天音の背後をとるのは簡単だった。
狙撃手のように的確で、武術家のように無駄がなく、職人のように繊細な腕の一振り。
服の上からでも、ブラの留め具をはずしてしまう妙技。
「あ……っ! は、ぅ? 何を……、くっ!」
天音は胸を押さえてへたりこんだ。その胸は筋肉でできているのか、脂肪でできているのか、はたまた鋼鉄か人工皮膚シリコンか。シアにはしるよしもなかったが、しりたくもないので問題ない。ロボットだから、ミサイルとか自爆装置とか、そんなものがつまっているのかもしれない。
強敵の足止めは成功した。シアは美緒の元へと走る。
「手間どっていたようね。私、助太刀した方が良かったのかしら」
家庭科室そばの教室から、美緒がひょっこり顔を出す。手には消火器。鈍器にしても最適で、噴霧攻撃も可能な優秀な武器だ。
「いや。賢い美緒。君は激戦の場に出てきて、足手まといになるような愚かな娘じゃないだろう」
「そうね。だからどんなにシアがコテンパンにされても、私、隠遁に徹していたわ。賢いでしょう」
可憐な顔で、喰えないセリフをつらと吐く。
二人してぱたぱたと校舎を移動。部室や特別教室が集まった棟なので、人影も少ない。放課後の学校は、すでに夕日にのまれはじめていた。
「大騒ぎして、人を集めましょうか」
廊下にあった赤い非常用ベルを指さす美緒。火災報知機のボタンが、プラスチックカバーのむこうで、押す気があるならお好きにどうぞと待機している。
「人間がいくら集まったところで、天音くんに勝てないと思うよ」
傷だらけの姿を見せながら、シアがとめた。
「ええ。でも壁や目くらましぐらいにはなるでしょう」
「そういうことをさらっといえちゃう、利己的な美緒が大好きさ」
二人並んで走りながら、シアはにやりと笑顔を浮かべた。
「天音くんへのバリケードなら、人間よりずっと良いものがあると思うんだ」
「ああ、なるほどね。利用できるものなら、なんでも使いましょう」
美緒もそれに気づいて微笑み返す。
まったく、似合いの二人である。
校舎から学園の中庭に出て、シアは辺りを見回した。鋭い夕焼けが目に痛い。あれが消える前に勝負をつけたいところだ。
「そう、ここが良い。ベストポジションだ」
シアが選んだ場所は、放鳥温室と西日を背にした位置。そばにはウサギの飼育小屋と花壇もある。美緒は強化ガラスで守られた温室の中、セキセイインコや熱帯スイレンと共にシアを見つめている。
やがて、ガシュッ、ガシュッとエナメル製のロリータ靴にあるまじき足音が近づいてきた。
一陣の風が吹き、天音の縦ロールがゆらいだ。前髪からのぞく切れ長の目。眉は引きしめられ、天音はまさに激戦に身を投じる男の表情をしていた。
……足元にネコ、肩にはスズメ、頭上にモンシロチョウを引き連れて。
相変わらずのメルヘンワールドである。その中心は、ハードボイルド劇画ロリータ漢女ときている。もうカオスだ。
「姑息なマネをしてくれたな」
「天音くん。生き物はずる賢いんだ。病原菌が、寄生虫が、手を変え品を変え、生にむかってもがくように。命ってのは、ふてぶてしいのさ」
シアはウサギ小屋のドアを開け放った。飼育委員がいれば大目玉級の所業だが、ここに飼育委員はいない。
「何を……」
天音はまたたく間にもこもこふわふわのウサギと、野良ネコにかこまれる。天音は優しく追い払おうとするが、動物たちが離れるようすはない。
「あはは! ずいぶんな好かれようだね。でも、それじゃあ動きづらいだろうに。邪魔なら、殺してしまえば?」
「……!」
「殺さないのかい? 天音くん」
冷ややかな笑みと問いかけをあびせる。
「ソイツらは、君がいう不自然な命だろう。家畜やペットとして人に飼われる動物は、自然とはいえない。スズメはかなり人間社会に依存した鳥だ。面白いことに、都市部や田舎には姿を現しても、スズメは無人の廃村では暮らしていけないんだってね。それから君の周りを飛んでいるチョウは、この近辺で産まれ育ったはずだ。どこかの庭か畑かな。どの道、人の手が入った空間には違いはない。この近くに、太古の原生林なんてないんだから」
天音の動きがぴたりととまる。
「殺せないのかい?」
そもそも戦いの火蓋は、生物部での天音の先制攻撃によって切られたのだ。
数分前にかわしたシアと美緒の会話。
「ねえ美緒。あの時、僕らもテトロくんもたやすく逃げおおせた。けど天音くんの強さを考えると、どうも腑に落ちないんだ」
「あえて泳がせ、ゴフェルとやらをテトロちゃんの技術で取り出させるためかしら」
「それは不確実すぎる作戦かな」
シアとテトロの実力差では、天音がテトロを補佐しない限り、シアが百戦百勝するだろう。
そしてノアとネフィルは水と油、犬猿の仲、不倶戴天の宿敵同士。
ネフィルの使途である天音が、テトロと手を結ぶとは考えづらい。
そして実際に、天音はテトロを助けなかった。
「僕は、天音くんが本気を出せない原因があったんだと思う」
「あら。彼女から仕かけてきたのよ」
天音がアンドロイドであることと、普段の言動から、シアは憶測をつけていた。
「生物部は、天音くんが傷つけたくない存在だらけだったんじゃないかな」
あの空間にいた、四人の少女以外の存在というと……。美緒は唇に指をあて思案する。
「人工箱庭の生き物?」
シアはこくりとうなづいた。
シアは天音にむき直った。
「ネフィルから見れば、地球は雑種まみれの不自然な星かもしれないね」
だが、それには三十八億年にわたる歴史がある。
細胞たちが喰らい、騙し、繋がり、築きあげた三十八億の時間。
「僕らはそれで完成している」
天敵から寄生へ、寄生から共生へ。
互いの距離を見はかるように、関わり方を模索してきた。
「やがて僕らは、共生からさらに進んだ関係になった。片方が相手の細胞の中に入りこみ、器官として機能する。別の生物という独自性をたもちながら。さて、質問だ。この二体の生き物は分離できるだろうか。できないよ、それで完成してるんだから。離したら別のものだよ。死んでしまうよ」
炭酸水とメロンシロップを混ぜたら、メロンソーダができあがる。混じり合ったそれをわかつのは至難の技。
「天音くん。僕は三十八億年この地球で暮らしているけどね、君たちがいう自然ってのはいったいなんなのか、ちっともわからないんだ。僕にとっては生息環境を意味する。熱水がわき出る古代の海も自然なら、巨大なシダが胞子を降らせる地上も自然、コンクリートで押し固められた三次元空間も生きる場所には変わりない。僕らは適応するだけだ」
温暖化が進んで北極の氷がなくなろうが、寒冷化が進んで再び地球が凍結しようが、海が化学物質で汚染されようが、オゾン層に大穴が開こうが、シアにはあまり変わりがないことだ。
変化に耐えられないものは死に、適応したものが生き延びる。
ほら、三十八億年前からちっとも変わらない、いつもの地球の日常じゃないか。
ノアやネフィルに口出しされるいわれはない。
なんだかんだで、天音は地球の生き物たちを気に入っている。それは間違いない。
だが、天音は現在の地球を破壊し、ノアの方舟が送られてくる前の状態、原始の状態に戻すことを目的としている。ネフィル製のアンドロイド、宇治院天音は自分の意志と与えられた任務のどちらを優先するのか。
運に任せるには大バクチすぎる。ゆれ動く微妙な機械心をシアは一押ししてやらねばならない。
天音がとまどっている間、シアは着々とエネルギーをたくわえる。限られた時間は有効活用しなければ。茫然と立ち尽くし、時間をふんだんにムダ使いしているどこかの木偶の坊に教えてあげたい。
シアの緑粒鎖と緋円球が激しく活動する。
「っ!」
攻撃の気配を察した天音があせる。
「お前は、無関係のものを巻きぞえにする気か!」
ネフィルの計画が実行されれば、ウサギさんも小鳥さんもオケラだってアメンボだってみんな仲良く絶滅することになるのだが。このお人形さんはわかっているのだろうか。
「硬派でストイックなロボットガール。教えてあげる。生き物は自分のため、他の生き物を喰らい、出し抜き、利用して生きるのが常なのさ」
太陽の光が緑粒鎖に取りこまれる。右手に水素分子を集める。左手に酸素。比率は酸素を少なくして、二対一。
熱が弾け飛んだ。シアの周りで透き通った青い炎が渦を巻く。
陽炎のようにゆらめくそれは酸水素炎。酸素と水素を個別かつ同時に放出し、混合したガスに点火する。得られるのは溶岩よりも苛烈な、灼熱の二千五百度の炎。
「くっ!」
離れようとしないキュートなお友だちを地上に残し、天音は空高く跳躍した。
「ライム・ライト・バーニング!」
炎の龍が天音を喰らう。
それは皮肉なスポットライト。酸素と水素の混合ガスでできた炎は、ついこの間の一九世紀まで舞台での強力な照明として用いられた。ぜひ、ここぞというハイライトシーンで使いたい技である。
天音の体がどさりと落下した。
ネフィルの技術もたいしたものだ。金属の溶接ができるほどの高温の炎をあれだけあびながら、天音はまだ原形を留めている。それでも、服の方はところどころ焼け焦げの穴が開き、目のやり場に困る状態だ。色んな意味で。
「バカだね。生き物をかばうなんて。どうせ、『君が勝てば』地球の生き物のほとんどが死ぬしかないのに」
天音がぴくっと顔をあげた。
演劇部ばりに活き活きと、シアは高らかに声をはりあげた。
「地球の生き物を守るには、『僕が勝つ』しか道はない! ここで負けるわけにはいかないんだ! ネフィルの計画を阻止するため、僕は天音くんを撃退してみせる! 最強のアンドロイドが倒されたとなれば、ネフィルも断念せざるを得ないだろう! そうだろう! そうに違いないのさ!」
シアは天音と視線をあわせた。機械の瞳とかわす目配せ。
「かかってくるが良い。私の装甲にお前ごときの攻撃は通じない。さっきの、あの、アレだ……。なんとかって……」
「ライム・ライト・バーニングだ。ちゃんと覚えてくれたまえ」
「違う。血がバチバチ弾けるやつ」
「フリー・ラジカル?」
「そう。それだ。その程度の小細工ならば……」
天音はしばらく沈黙した。ボディに受けた損傷と、耐久限界値を算出する。ロボットとはいえ、あまり本格的に壊されるのも嫌なのだ。
「百発でも打たなければ、ビクともしないだろう」
取り引き成立。
あとはそれらしく戦い、天音にフリー・ラジカル百回分ほどのダメージを与えてやれば、撤退してくれるはずだ。ただ、小技のフリー・ラジカルを連発して、さあおしまい、というのは、いくら八百長バトルでも華麗さに欠ける。シアの美意識に反する。
「ふむ、あれでいくか……。さあ、いくぞ!」
「えーと……。くるが良い!」
緋円球が酸素を取りこみ、エネルギーを作りはじめる。猛烈な電気の流れ。そして、副産物として出される有害物質。それが。
「フリー・ラジカル」
さらに毒性を強化した物質が。
「スーパー・オキサイド!」
次に完成するのは、最も危険な必殺技。
「これがっ、ヒドロキシ・ラジカル!」
あらゆるものを破壊するが、それゆえにすぐに周りの分子を壊し尽くして、消滅してしまうという、非常にあつかいづらい代物だ。
バトルのシメにふさわしい威力と風格を備えている。
「地球を……なめるなああっ!」
上辺だけは魂のこもった一撃を、宇治院天音は律義に受けとめてくれた。
あれから。
ボコボコの返り討ちにしてやった時島テトロは、惑星ノアに触手を巻いて逃げ帰った。
シアと美緒は地球土産に、カニカマとスルメイカとお寿司のパンフレットをプレゼントした。テトロは顔を引きつらせてよろこんでくれた。めでたし、めでたし。
宇治院天音は、任務失敗の報告とボディの修復のため、惑星ネフィルへ帰還した。
宇宙空間を飛びかい、その星既存の種を駆逐していくノアの系譜と、細胞レベルでの共存をなしとげた特殊なケースとして、地球は観察対象となるだろう、と天音から連絡があった。やたらファンシーな便箋と封筒で。
厄介な二人組が去り、シアはようやく安息を取り戻したのだった。
「ねえ。私、ゴフェルがなんなのかわかったわ」
寮の部屋、分厚い本を片手に美緒がいう。
「ノアの方舟の材料になった木。と、聖書にあるわ」
「……。ああ、賢い美緒。そのとおりだね」
シアはあの二人の相手なんぞで、時間を浪費するわけにはいかないのだ。
「テトロちゃんはゴフェルを摘出するといっていた。つまり私の体内にあるものなのね」
「ふーん。まあ、そうなんじゃないかな」
「ずいぶんと投げやりなお返事ね」
美緒とシアはパートナー。学年も同じ。寮の部屋も同じ。所属する部活も同じだ。小さなころからずっといっしょにいる幼なじみ。
「今回のことで、シアが特別な生き物だってことがわかったわ」
シアの髪を一筋、美緒がからめとる。その髪はもう緑の粒子ではなく、普通の赤毛になっている。
「私、考えたの」
「およしよ。思考なんて、ロクなもんじゃあないんだ」
三十八億年のつき合いになるが、人間というのは厄介な習性を発達させたものだ。シアが作り上げた巧妙なヒミツを次々に暴き立ててしまう。
しらなければ良いことまで。
「そうね。ロクでもないことが浮かんだわ」
まさか、全部バレてしまったのか。
シアの顔にあせりが浮かぶ。
三十八億年前に飛来したノアの生命体に宿っていたエネルギー。テトロたちはこれをゴフェルと呼び、人間はこういったものを魂と呼んでいるが、それを今現在宿しているのが、他でもない織辺美緒だ。
原始の海で繰り広げられた、凄まじき死闘の歴史がシアの脳裏を一気にかけめぐる。
かつて、地球原産生物のシアは、方舟からやってきた美緒に絶滅の苦境に立たされた。何度苦汁を飲まされたことかしれない。
地球の生物の一種が酸素を出すことで、捨て身の大反撃に出たのが転機だった。
などと調子に乗っていたら、美緒に捕食されかけたのも思い出だ。
なんの拍子か、そのまま消化されず、細胞内に幽閉生活を余儀なくされたことも。
そうこうするうち、美緒に取りこまれたフリをして、栄養をかすめ盗る技術を磨いたり。
寄生するからには、宿主を殺しては意味はない。同時に、自分を排除されてもおしまいだ。その絶妙のさじ加減を追い求める。
それが、織部美緒とシアの関係。
時島テトロも、宇治院天音も、シアの苦労をわかっちゃいない。シアと美緒は、細胞レベル、遺伝子レベルのキャットファイトを出会ってこのかた三十八億年続けた間柄である。
永遠の宿敵で、互いに裏をかく関係で、生き延びるためにふみ台にしたり、ふまれたり。
そんなかけひきを三十八億年もやってきたから、今やどちらもぐちゃぐちゃに入り混じって一つに溶けている。あまりに戦いすぎて、どちらが欠ければ存在が崩れてしまうほど。
「シアが私のそばにいるのは、何か利己的な理由からでしょ」
ぎくり、とシアは動揺した。
「いとしい美緒。僕が君のそばにいるのは、君をテトロくんや天音くんみたいな輩から守るためさ。もしくは、君との愛を育むため」
「それがシアにとって重要な意味を持つのね」
最大脅威は目の届くところに置いておきたい。
今はたまたま共存のバランスが上手くとれているだけ。いつまた美緒と敵対するかわからない。
だから色々ひっついて、弱みをにぎりしめている。地球上に増えたノアの系譜。その血肉の中に純地球産のシアの血を引く眷属が、ちゃっかり住みついている。
動物にはミトコンドリア、植物には葉緑体として。
今日も宿主のために、危険な酸素取り扱い業務に従事しているというわけだ。生物にとって欠かせない重要な役割を担うことで、ノアの系譜を手中に収めたというわけだ。
そして、織部美緒の監視役として、原始以来の地球生物全ての記憶を引き継ぐシアがいる。
「ゴフェル、ね。私にそれがあるから、シアは私のそばにいたのかしら」
「……さあねえ」
どう返事をしたものか、シアは逡巡した。この追いつめられるような感覚は、古代の海で微生物に捕食されそうになった時の緊迫感に似ている。
「気に入らないわ」
ツンとした美緒の声が、恐怖そのものに変わってシアの背中をなでた。原始の記憶がよみがえる。
が、美緒は何をするでもなく、そっぽをむいただけだった。
「……えー、と。美緒。……美緒ちゃーん、美緒お嬢さま?」
「しらないわ」
かなりご機嫌ななめのごようす。
小さな声がぽつりともれ聞こえる。
「……シアを……てみせるわ」
とぎれとぎれにひろえた音声は、そんなツギハギ。
いつもの役者ぶりを発揮することもできず、シアは狼狽するばかり。
「怒ってる?」
天敵を前にして策をろうすでもなく、情けなくストレートに尋ねるしかない。シアは自分で自分が嫌になった。
「ううん」
返ってきたのは、予想外に明るい調子。
「悔しかっただけ」
何かを企む少女の笑みが妖しく咲いて。
「さあ、シア。覚悟はよろしい?」
何事かと後ずさりするシアをしり目に、もう片方の少女はあでやかに戦いの火蓋を切った。
「いつか必ず、ゴフェルじゃなくて、私自身にシアをふりむかせてみせるから」
丁寧に結われた三つ編みが、DNA螺旋よりも美しく宙にゆれた。
透き通る少女の頬の下で、赤血球たちがいつもよりはりきってお仕事に励む姿が見える。
これからはじまる二人の関係が、どんな進化をたどるのか、きっとダーウィンにだってわからない。