友人が召喚少女に婚約者を強奪されたらしいです(語弊あり)
http://ncode.syosetu.com/n3914bm/ の、友人である異世界転生者のお話です。
単独でもお読みいただけるはず。
「サチ。お前、王妃をやる気はあるか」
「え、めんどくさい」
今から、約二年前のやりとりである。
最初にぶっちゃけてしまうと、あたしは普通の人間ではない。
前世の記憶とやらを持っていて、ついでにチートっぽい恩寵も与えられている。物語では典型的な異世界転生者だ。
生まれてしばらく経って状況を認識したときにはそりゃあびっくりした。何しろ空色の髪に深い碧眼のコーカソイド系女性が嬉しそうにこちらを覗き込んでいて、自分はその腕に抱かれている状況だったのだから。
それだけならまだしも、ここが剣だの魔法だがその辺に出回るファンタジー異世界だったというのだから、とりあえず笑うしかない。
あったのかこんな世界。お話の中だけだと思っていたよ。
かくして、生まれて数ヶ月で精神年齢二十歳の幼子の誕生である。
このエセ中世な世界環境で、領主の娘というそれなりの処遇に生まれたのがせめてもの救いか。
しかしである。
人間、二十年も生きていればそれなりの常識というものが身に付いている。
固定観念といってもいい。
つまり十代の若者の柔軟さを失っていたあたしは、当然のごとく、「この世界にとって」突拍子もない言動を繰り返す羽目になった。
かくして、家族から敬遠される娘のできあがりである。
ついでに言うならあたしの特殊能力は、夢の中でインターネットに接続された箱を使えるという、果てしなく微妙なものだった。
サチと名乗っているのは単なる駄洒落だ。当然、駄洒落だと自供したところで、他人にはさっぱり意味不明だという顔をされるのだが。
さらに言うならこれが変人扱いに拍車を掛けることになった。文明水準は圧倒的に21世紀の日本が上だったので、領地で起きるトラブルにどうにか対応しようとしてしまったのだ。
ちなみに、最初は治水工事だった。
十にならない頃からあれだこれだと口を出し、それが失敗も交えつつそれなりの成果を収め始めた頃、神殿からお迎えがやってきた。
そりゃそうだ。言い訳を「夢の中で神様が教えてくれた」なんて電波なものにしていたのだから。
かくして王都に引っ立てられていったあたしは、退屈な平穏と引き替えに、ひたすら勉強を繰り返す日々を過ごすことになった。
なぜ勉強かというと、このチート、プリンター機能はついていないのだ。
つまり夢の中で必死こいて覚えるしかない。科学レベルが違うから、丸暗記をそのまま告げても理解なんぞされるわけがないのだ。
結論じゃなく過程が重要ってことですねわかります。というわけで、元素の整理がされてない世界でそれを理解して受け入れてもらうのがどれだけ難しいかを思い知ることになった。結局史実通りの実験やって実証しないとだめだったよ。目的そこじゃないのにな!
……いや失礼。十歳そこそこで打ちのめされた理不尽な苦労を思い出してしまった。
まあ人類の足取りってのは本当に偉大だと思い知らされる日々だ。先人はすごい。
もちろん科学だけじゃなく、治安だの流通だの通貨だの、いろんな面でズル知識は重宝された。よかったよ本当、前世は情報過多な時代に生まれてさ。
それに、神託なんて曖昧なものだけで国は動かない。
この世界の技術者や研究者も、当然自分の知識や経験を元に討論してくるわけだから、失敗してしまったときは一蓮托生だという気分がある。
少なくとも責任の全部を負わせられるような事態にはならなかったし、周囲の大人も疑り深い分そのつもりでいたし、あたしだってそんな危ない橋を渡ったりはしない。
――しかしまあ、こうやって話してると、すっごく真面目に仕事しているように聞こえるから不思議だ。
いや、真面目にやってるけど。根が日本人だからなんかさぼれなくて。
話がそれた。
つまり、あたしは国の中でも色々と特別扱いのポジションにいたわけだ。
珍獣扱いしてきた王子とそれなりの友人関係を築くことになったのもそのせいだ。
そして冒頭の台詞に至る。
断っておくと、昔も今もそしておそらくこれからも、あたしとヴォルクの間に恋愛感情といった色っぽいものは存在しない。
ただ単に、適齢期になっても恋人の一人さえ持たない王子に痺れを切らした周囲が、しかるべき筋から未来の王妃を迎えようという動きを見せていたというだけだ。
そこで奴は考えた。
どうせ誰か置かなければならないなら、気心の知れた相手に席を埋めてもらえばいいと。
そんな単純な思いつきからの提案だったらしいが、提案されたあたしにとっては結構な面倒事だ。検討する余地もなく断ったところ、そうだろうなとヴォルクはあっさり引き下がった。
なにしろ年齢一桁代から続く付き合いである。
お互いのことは、下手をすると本人よりもよく分かっていた。何が好きで何が嫌いか。だったらあたしがうなずく訳がないということは、ヴォルクも十二分に理解していたはずだ。
――そして今、あたしは「もしも」を考えている。
もしも二年前、何か間違いがあってあの提案に頷いていたとしたら――まず間違いなく、友人の胃に穴があいただろうと。
「やーフェア、今あがり? 遅くまでお疲れ……」
「……サチ……」
振り返った友人の顔を見て、あたしは即座に赤信号の判断を下した。
これはヤバイ。本格的にマズイ。
蒼白な顔で無理に笑おうとするフェアを問答無用で部屋に引っ張り込み、とりあえず暖めたワインを与えて、戸棚をかき回した。
つまみが干し無花果とチョコレートしかない。……見るからに血糖値が下がってるし、このままだと悪酔いするだろう。
断腸の思いで、ちびちび食べていたとっておきのチーズを出す事にした。
「とりあえずこれ食べて。あとそれ飲んで」
「……ありがとう」
「いーから!」
フェアは往生際の悪い言い訳をすることなく、言われたとおりにもそもそとチーズを口にした。
この分だと、夕食もとっていないに違いない。まったくあの馬鹿、部下を働かせすぎだ。
友人であるフェア・ルスークは、その名のとおりの人物だ。
真面目で公正、誠実かつ堅実。その頑ななスタイル故に、《氷の女》などと恐れられているところも。もっとも共通言語は英語やフランス語であるわけがないので、あたしだけの感想である。
あたしから見れば、婚約者とのあまりに少ない身長差を気にして靴を踵の低いものに変えていたり、周囲の評価にこっそり傷ついていたり、変なところでボケだったりと、色々ツボを突くかわいらしさがあるのだが、残念ながら彼女の鎧はそんな弱さをがっちりと周囲の目からガードしてしまっている。
結果、誰もが恐れる首席補佐官様のできあがりだ。
王子の執務は、彼女で保っていると言ってもいい。
そんな彼女が悄然とした様子で、ぽつぽつと話した事情は、まあ案の定というか予想のついたものだった。
――この! 状況で! 婚約者略奪された女に「別れるのか」とか聞くか普通!?
悪い奴ではないのだが、圧倒的にデリカシーという概念に欠けているのがヴォルクという第一王子である。
今度会ったら背後から膝を蹴ってやろうと心に誓い、あたしはこうなった原因を思い浮かべた。
事の起こりは渇水だった。平たく言うと水不足だ。
今までにも何度かあったが、今回は特に深刻で、どう対策をとるか各部署で連日頭を悩ませていた。当然あたしのチート、もとい託宣にも期待を掛けられたわけだが、人工降雨ってのは二十一世紀の地球においてもとんでもなく難しいものだったのだ。
まずドライアイスや液体炭酸を作り出さないといけない。そして、それを上空からまき散らさなければいけない。ついでにそれをクリアしても、まき散らす先には発達した雨雲がなければいけない――早い話、雲一つない青空から雨を降らせることは、二十一世紀の地球の技術をもってしても困難だということだ。
某耳の欠けた猫型ロボットが持っていた道具ほどのSF技術は、残念ながら魔法式への転換が困難だった。
本当なら、渇水への対策として水の貯蓄を考えておくべきだったのだ。その知識はあったはずだというのに、付け焼き刃の知識ではそこまで思い至ることができなくて、心底歯噛みした。時間の猶予は、十分すぎるくらいあったはずなのに。
起きたことを悔やんでも仕方がない。
ならば、ここは海水を引っ張って魔法を使って真水にして、いやいやいっそ水素と酸素から合成するとしたら、と気の遠くなるような二本立ての計画を立てていたとき、神殿がとんでもない方法に出た。
異世界から解決策を誘拐してきたのだ。
その名を《雨呼びの巫女》という。
初めて聞いたときには本気で唖然とした。
そして、見事に雨が降ったことで頭を抱えた。
それも降りっぱなしになるというわけではなく、恵みの雨の範疇に収まる頻度と降雨量を記録したものだから、魔法技術局の立場なんぞあったものではない。ついでにいえば、神殿所属のくせして向こうに肩入れしていたあたしの立場は、今、ものすごく微妙だ。
要人の拉致誘拐に血相を変えていた王子も、振り上げた拳を下ろせなくなってしまった。
――いや、今は別の理由が出てきているかもしれないが。少なくとも当初は、神殿の暴走扱いだったのだ。
下手をすると世界を跨いだ戦争になるのではないかと危惧する王子に、多分それは大丈夫だろうと慰めを言ったのが悔やまれる。こっちの世界では要人だけど向こうの世界では多分一般人だ。合衆国大統領の娘とか特殊部隊のヒーローの妹とかだったらあの国のことだから色々ハリウッド的ご都合パワーな何かであり得るかもしれないけど、まあ名前も容姿も明らかに日本人だ。まずない。
今思えば、デマをでっちあげてでも帰らせておくべきだった。
そして異世界召喚のお約束とばかり、巫女のお嬢さんによる逆ハーレムが形成される運びとなったのである。
それはもう、見事な手際だった。
媚薬でも盛ってるのかと思いたくなるほどの強烈さで、巫女ちゃんは次々と男を落としていったのだ。いずれもタイプは違えど美形で独身な有望株ばかり。
うんわかるよ、その辺のおっさんとか落としてもしょうがないもんね。でもちょっとわかりやすすぎるかな!
貴婦人がたの嫉妬はそりゃもう凄まじかった。
とはいえ手出しができるような相手ではなく、手出しをできる状況にもない。
かくしてどろどろと煮えたぎるような確執が、確実に醸成されていく今日この頃である。
ワインを舐めながら、あたしは苦々しいため息を吐いた。
「逆ハー物の裏ではこんな感じに被害が出てるわけか……大変だ」
「ぎゃくはー?」
フェアが怪訝そうな顔をする。
単語の意味をどうでもいいような気分で説明しながら、あたしはつくづく実感していた。
本当に、あのときうっかり頷いたりしなくてよかった、と。
巫女ちゃんの威力は恐ろしいレベルだ。多分少年漫画の主人公に匹敵する戦闘力だ。あの我侭に見えてワーカホリックな王子に仕事を投げ出させてしまえるなら、お飾りの王子妃など離婚を請われていてもおかしくない。
とすると、どうなっていたか。
想像するだに、首席補佐官である友人の心労が今とは比べようのないレベルになる。
「あの馬鹿にはあたしからも釘さしとくけど……しっかしこの国、大丈夫かね。マジで滅ぶんじゃないの」
「サチ。不謹慎よ」
「いや、だってさ。実際のとこ機能停止寸前じゃん。親政っつか絶対王政ってコレだから……つーかむしろ、トロイのヘレネー思い出すなあ。下手したら他の国も巻き込んだりして。笑えないな」
「サチ」
フェアの声が強くなった。
仕事モードに戻った冷ややかな目に、肩をすくめて返す。そうさせないために色んな人間が動いているのだと言うことは、あたしだって知っている。
「ごめんって。ただ可能性としてね、考えとかないと」
――とはいえ、半分は冗談だったのだ。
それを本気で危惧する羽目になるとは、さすがに思ってもみなかった。
それを見かけたのは、翌日、あくび混じりに渡り廊下を歩いていたときだった。
いつものことだが今日は特に眠い。
フェアの事が気になっていたのは確かだし、お酒の影響がないとは言えないけれど、理由はそれだけでもない。
実はあたしのチート、難点は一つだけじゃないのだ。眠ってるのに休めないという致命的な欠陥がある。
つまり、眠っても夢の中で頭を働かせる羽目になる。夢の中で寝ても無駄のようで、結果あたしはいつでもどこでも疲れている。常に眠い。眠いが熟睡できない。具体的にはノンレム睡眠を得られない。何という矛盾だ。
アルコールが入れば脳の働きが抑制されるためか多少休めるのだが、昨日のお酒は楽しいお酒ではなかったので仕方ない。
それもこれもあの馬鹿王子が悪い。今日遭遇したらとりあえず二発だ。フェアへの暴言分とあたしの寝不足の分。決して理不尽ではない。
そんなことを考えていると、痛みを覚え始めた頭に、甘ったるい声が響いてきた。
「だから、ね? こわいおねえさんが言ってたもの。お仕事はちゃんとしなきゃ。わたしなら一人でも大丈夫!」
「だが、マナミ……」
「ちょっとそこまで行くだけだもの。心配しすぎよ」
どこの恋人同士の睦み合いだと言いたくなる会話だ。
目をやれば、くだんの巫女ちゃんと騎士団長。他に男が見あたらないのは珍しい。
あの口振りも妙だ。もしかして、仕事に行かせようとしてるのか?
巫女の説得にも、真面目一辺倒だったはずの騎士団長は渋い顔をするばかりだ。
しびれを切らしたのか、巫女が両手を腰に当てた。
「もうっ。こまらせないで。ね?」
そんな仕草も愛らしい。怒っているのよと主張しながらも媚びたような甘さがある。
……あれ、計算なんだろうか。だろうなあ。
末恐ろしい娘さんだと思いながら眺めていると、騎士団の副団長(こちらは老境にさしかかった紳士である)が騎士団長を呼んだ。
どこも副官は苦労しているようだ。
渋々その場を去る騎士団長に、巫女は笑顔で手を振っていたが、やがて、ふっと息を吐いた。
そのとき、少女の目に浮かんだ色に、あたしは眉を寄せた。
ひどく冷めた色だった。
ちやほやされることを楽しんでいる少女の目ではない。やれやれ、やっと片づいた、というだけの感情でもない。
なにもかも根底から仮定を覆すような、負の色しかない無表情――それは、本当にわずかな間のことだったが。
くるりときびすを返した巫女の背を見ながら、背中を冷たいものが伝うのを感じた。
……まずい。本当に、冗談が冗談じゃなくなるかもしれない。
そんな風に人が真剣にこの国の行く先を憂えていたというのに、空気を読まない甲高い声が、今度こそ寝不足の頭を激しく振動させた。
「あぁら、《智恵の託宣官》様ではありませんの。こんなところで何をなさっておいでかしら?」
「……うわ、めんどくせぇのがきた……」
「何かおっしゃいまして?」
ドレスに扇にお嬢様喋り。貴族のご令嬢のお手本のような姿だが、こめかみの辺りがひくついている。
まだまだ修行が足りない。フェアなら表情筋一つ動かさないだろう。まあ、笑顔でもないわけだけど。
「で、何か用? 大した用じゃないならこの辺で――」
「それにしても! 相変わらず貧相な身なりですこと。よれたローブに、そんな踵の低い靴を履いて……殿下が飽きてしまわれるのも当然ですわね」
引き留めるように語調を強められたが、その後はせせら笑うかのようだった。
この国はドレスだけではなく女性用スーツも普及しているが、ハイヒールを履くのがマナーになっている。あたしはあんな足に悪いもんを履いて集中なんてできやしないので、昔からバレエシューズ並のぺったり靴で押し通しているのだが。身長むだに高いし。
「飽きたも何も、あっちだって最初からそんなの興味ないと思うよ」
「まあ、なんて自信かしら。それとも何か算段がおありなの? ……たとえば、そう、殿下を奪った恋敵に害をなすだとか」
何か、理解不能な台詞を聞いた気がする。
その感想を顔に出したまま振り返り、なぜだか得意げな顔をしている令嬢に、首を傾げた。
「いや、意味が分からない。なんであたしが?」
「なぜって……! 王妃候補と目されていたのはあなたではありませんの! それを、あんな小娘にやすやすと横から奪われるだなんて……努力が足りないからですわ! あなた、悔しくはありませんの!?」
「だから前から言ってるけど、あれとはそういう……ああ、もういいや、めんどくさい」
「お待ちなさいッ!」
待てと言われて待つ性格はしてない。
彼女もそれを重々理解しているからか、ローブを背中から引っ掴まれた。実力行使なんて淑女の行いではないと思いますが、お嬢さん。
こんな場面は初めてではない。むしろ慣れっこだ。
これまで恋人の一人もいないままだった王子にとって、一番近しい異性があたしだったのだから、そりゃもうやっかみを受けたもんだ。「王妃にならないか」事件の後なんて嵐のようだった。
うんざりするあたしに、ご令嬢は今にも泣き出しそうな顔だ。
「お気に入りが珍獣から愛玩動物になったってだけでしょ。あの馬鹿王子が誰に入れ込んでもあたしの知ったことじゃないって。文句なら本人にどうぞ」
「申しましたわ!」
「言ったのか! うわ見直した!」
「絶対零度の目で一刀両断されましたわ……!」
「あーそりゃそうだ」
ただでさえ女嫌いの気があるヴォルクのことだ。かなり威圧してやったに違いない。
しくしくと泣き出してしまった令嬢に、あたしは天井を仰いだ。
なんだかんだ言って、泣いている女の子を無碍にできる性格はしていないのだ。これが性別男だったらいくら媚び媚びに可愛かろうが美形だろうが黙殺してやれるのだが。女尊男卑の自覚はある。
あたしはため息をついて、胸元にある彼女の後ろ頭をぽすぽすと叩いた。
「わかった、わかったって。あれはやめとけって言っておくから」
「えっ……」
まさか受け入れられるとは思っていなかったのだろう。
驚いて顔を上げた令嬢に、あたしは重々しく頷いた。
「ちゃんと言っておく。あの子相手にすると、お前の年齢じゃロリコンだって」
「ろり……なんですの?」
「意訳すると小児性愛者」
小児ってほど小さくはないので少女性愛者だろうか。どっちも医学用語じゃないけど。
意味を理解した令嬢が、不敬だの何だのときゃんきゃん騒ぎ出したのは言うまでもない。
「というわけで、無駄だと思うけど忠告しに来た」
「……お前はいつも突然だな」
この国の第一王子は、呆れと言うよりは唖然に近い表情で返した。
まあしょっぱなから「あんたロリコンだったって?」「ろりこんとは何だ」「それはだね(以下略)」のやりとりをした後なので、当然と言えば当然だろう。王族にそんなぶっちゃけた事を言う人間はそう多くない。
「お前が人の恋路に口を出すようになるとはな」
「あんたから恋路なんて単語を聞く日がくるとは思わなかったよ、こっちだって」
執務机に腰掛けて、あたしはため息を吐いた。
無礼そのものの態度だが、ヴォルクは咎めない。幼い頃には、ともに、先王のヅラに悪戯を仕掛けたり建国記念碑に塗料をぶちまけたりと、結構危険な遊びをやってきた相棒だ。思えばお互い、気苦労の多い子供時代に子供っぽくなれた唯一の相手だったような気がする。
――感傷に浸ってしまうのは、どうしてだろうか。
「あ、忘れるとこだった。蹴り入れるんだった、二発」
「おい」
「だってさあ、婚約者奪われそうな女の子に『別れるのか?』とか! ひっどい話だ、王妃様にチクってやる」
「おい!」
くだんの第一王子――ヴォルクが焦った弾みでインク壺を倒しそうになり、あわててつかみ取る。
べったりと汚れた手を、ヴォルクは嫌そうな顔で眺めた。
「フェアあんまり泣かせないでよ。結構いっぱいいっぱいなんだから」
「……その程度であいつが泣くか?」
「そこで疑問に思うのがあんたの駄目なとこだよね」
やれやれとばかり大げさにかぶりを振った。
この男には分からないのだ。政略結婚でしかないはずの二人が、どんな空気を作り出していたかなんて。――まあ、分かっていなかったのはあたしも同じか。
誤解だったのだと、はにかみながら報告してくれたフェアに、安堵したのは確かだ。
だけど同じくらい、がっかりした。
フェアが幸せならそれでいい。それも本音なのに、やっぱり年上の包容力のある男をお薦めしたい気分が燻っている。あの二人は似たもの同士すぎて余裕がない気がするのだ。
犬猫をつがわせるわけでもなし、身勝手な感情だとは、重々理解しているのだが。
「あーあ……なんかいろいろ、うまくいかないなぁ……」
「珍しい。落ち込んでるのか」
「そりゃ、あたしだって落ち込むことくらいあるさー」
こうなればいいと思ったものがその通りにならないのはよくある事だ。
だけど、こう続くと気落ちしてしまう。
仕事のこともそうだし、友人のこともそうだ。自分の思いとは別の場所で問題は解決して、空回った感情だけがわだかまっている。
「ねえ、巫女ちゃん何て名前だっけ」
「マナミだ」
「いまいち状況が信じがたいんだけど、本気でそのマナミちゃんのこと愛してる?」
「……ああ」
きっぱりとした返答に、苦い思いが湧き出た。
あたしが知っているヴォルクは、こんな質問にあっさり答えられるような男ではなかった。
「愉快な感情でもないが、この感情は、他を知らない。唯一で無二だ」
「まあ情熱的」
「……嫌そうだな、サチ」
「そりゃねえ。初恋に浮かれるのはいいけど、仕事放り投げるなんて愚王の道まっしぐらじゃん。そろそろマジで、いい加減にしなよ。仕事と私情は切り分けるべきだ」
言った後で後悔した。
こんな、無駄に攻撃的な言い方をしたかったわけではないのに。
胸を渦巻く違和感に、嫉妬というラベルを貼るのは簡単だ。だけど、それは、何かが違う気がする。
久々の喧嘩になるだろうかと振り返れば、苦い表情をしたヴォルクと目が合った。
「……お前の言葉は実に直截的だな。身に沁みる」
「あー……うん、言い過ぎた」
「落ち込むくらいなら一呼吸おいて口にしろ」
「はっはっは、失言しても落ち込まない人に言われたくないけどね!」
あたしが空笑いで返すと、ヴォルクは重いため息を吐いた。
「要は自重しろという話だろう。……自覚はしているんだ」
「ならいいけど。フェアが尻叩いてくれてるうちが華だよ」
「……肝に銘じる」
いつになく殊勝な態度だ。これはあちこちから苦言の大盤振る舞いがあったに違いない。
あたしは喉で笑って、立派な机から降りた。
戻るのか、という声に振り返り、思いを込めて告げる。
「あのさ、ヴォルク。あんたがロリコンでも愚王になっても、あたしはあんたの友達だよ。それは変わらない。たぶん、ずっとね」
「心温まる言葉だな。それより人を変態扱いするのはやめろ」
舌を出して拒否し、執務室の扉を閉めた。
あの子とこいつ、この国がこの先どうなるかは分からない。
今はまだ大丈夫だ。だが、いつか聞く耳を持たなくなったとき――ヴォルクはおそらく、追い落とされることになる。この国を滅ぼさないために。
崩落の足音が聞こえるようで、それに耳を塞いでいるだけなのかもしれない。
ひどく疲れた気分で扉に背中を預け、天井を仰いだ。
いつかの日が訪れたなら。
そのとき、あたしはどちらにつくだろう。