3:午後4時:東京湾中央防波堤外域・東京アバディーン
それは東京の都心部の海へとはみ出したエリアだ。
かつて首都圏で排出される廃棄物の集積場であり、埋め立てが完了してからは世界的なスポーツの祭典の競技会場として、その後は自然公園であり、あるいは新たな市街区として開発が進められていた。
正式名称、東京湾中央防波堤外域、江東区に所属し、その開発目的や参入企業が目まぐるしく変転し、紆余曲折の末に現在では首都圏に身の置き場の無い不法滞在外国人の寄り集まった巨大スラムとして成立しつつあった。
『ならず者の楽園』
『絶望の町』
『デッドエンドタウン』
『屍街』
――様々な呼び名が存在しているが、最もよく呼ばれる俗称がある。
『東京アバディーン』
その言葉自体には意味はない。ただ誰が言うともなく呼びはじめた名であった。
今や東アジア最悪のスラムとまで言われており、国際色豊かな多種多様な人種のソサエティが寄り集まっていた。
そこは悪徳の天国。
そこに存在するルールはただ一つ。強い者が生き残る。ただそれだけである。
そしてどんな街にも弱者は存在する。
異なる異人種が混沌とした状況下で隣接して暮らしていれば、当然、純血で他の民族の血が混じっていない者だけが安住の地を得ることができる。だが少しでも混ざっており、混血と言うレッテルを貼られるのであれば、出自を隠して息を潜めて生きていくしか無い。それが親無しで戸籍もないとなれば生きるすべはもはや存在しないと言っていい。
だが――
それでも人は生きる。死にものぐるいで這い上がり、同じ様な境遇に者たち同士で肩を寄せ合いながらしぶとく生き残ろうとするだろう。なぜなら〝生きる〟と言うことは人として最も根源的な欲望だからである。
その街の片隅にて暮らしているとある子供たちが居た。ほぼ全員が混血であり、親も居ない。さらには無戸籍であり国籍すら無い。社会的には居ないも同然の子どもたちであった。誰が言うともなく『ハイヘイズ』と言う名で呼ばれていた。かつて中国で存在した戸籍のない非合法児に大して付けられる『黒排子』から取られた呼び名である。
誰からも見捨てられ、すがるべき同胞すら居なかったとしても彼らは必死に生きていた。
その彼らを率いているのは僅か15歳の少年であった。彼の名はラフマニ――親の居ないアラブ系の混血児である。
その日、ラフマニはとある人物をともなって、東京アバディーン南部の荒れ地の多いエリアへと赴いていた。別なとある有力者と会うためである。10月初頭とは言え東京湾の海風が吹きすさぶ荒れ地はかなり肌寒い。ラフマニはその寒風を避けるかのように、擦り切れた薄汚れた上下つなぎに作業帽、そして年代物の革ジャケットを身に着けて居る。そして待ち人が来るのをじっと待っている。
彼の傍らに人影はなく、道端に放置されたワンボックスの廃車が転がるだけである。
そしてアスファルトの路上の彼方から待ち人が来るのをじっと待っていたのだ。
「そろそろ午後4時――約束の時間だよな」
ラフマニは時計は持っていない。当然、そんな余裕などない。だから待ち時間が指定されている時は指定時間より早く約束の場に到着して、相手が訪れるのを待つことにしていた。その日も約束の1時間前から待っていたのが、それは彼にとって日常茶飯事である。
10月に入った埋め立て地は冷えた海風が吹きすさんで肌に斬りつける。だがラフマニはじっと待ち人が来るのを待っていた。道の彼方を眺めていれば彼が待ち望んでいた物は、ついに姿を現した。
黒塗りのベンツの最新型、それも最新鋭の防弾装備が施された特注車である。無論、ガラスは全面スモークで中を伺うことは困難だ。それでもラフマニにはそれが誰なのかは既に解っていた。
「来たか」
ラフマニは静かにぼそりと呟くとその黒塗りの車両の動きをじっと見ている。黒いベンツはラフマニから20メートルほどの距離を置いて停車する。そしてエンジンを止めぬまま助手席の扉が開き中から姿を現したのはラフマニと年齢的には大差ないロシア系の青年である。彼はラフマニの方に軽く視線を向けると警戒と緊張を解くことなく助手席の真後ろの座席の扉を開けた。
―ガチャ―
重い開閉音が響く。防弾ガラスであり強化フレームが仕組まれているためだ。普段からどれだけの警戒手段が施されているかわかろうというものだ。
そして開けられた扉の向こうからとある人物が姿を表した。
「ご苦労さん」
妙齢の中年女性の声がする。言語はロシア語。ややガラガラ声なのは葉巻と酒が理由であった。
幾分、恰幅の良い体に派手目な花がらのサックドレスを纏い、その上にミンクの毛皮コートを羽織っている。指にはプラチナやダイヤをいくつもあしらった豪奢な指輪を何本も嵌めている。場所が荒れ地である事を考慮したのだろう、スエード地のショートブーツを履いている。その足取りはしっかりしていてこういう土地でも場馴れしているのがよくわかる。
その女性の見た目は歳のころ40は過ぎだろう中年のロシア人女性だ。見事なまでの恰幅の巨体であり歳こそ召しては居るが、若い頃の美女の片鱗が垣間見える。ショートヘアに切りそろえたブロンドの髪の下で青い瞳が鋭い視線を放っていた。
この威圧感に満ちたロシア人女性の名はノーラ・ボグダノワ とある組織を束ねる首魁である。
埋立地の最果ての未使用エリア、その荒れ地の上に佇むのは黒塗りの防弾仕様のベンツと打ち捨てられたワゴンの廃車、そしてそれらを背後にしながら二人の人物が向かい合っていた。
混血孤児の集団『ハイヘイズ』の青年、ラフマニ――
威圧感に満ちたノーラ・ボグダノワ――
それは余りにも相反するシルエットの二人である。普段なら相容れるはずがなく、同じ空間に居ることすらありえないだろう。だがそんな二人の間で先に声を発したのはラフマニの方である。
ラフマニはアラブ系の混血、父方がアラブ系なのは解っているが母方の血筋はわからない。ただ純血でないことは知られていて、それが彼の生きる上での足かせとなっていた。その色の濃い素肌や黒い髪を伴いながら、ラフマニはノーラ・ボグダノワに問いかけた。
「呼びかけに応えてくれてありがとう。まずは礼を言うよ。ママノーラ」
――ママノーラ――
それはノーラ・ボグダノワに対して周囲が呼びかける尊称だった。ノーラはマフィアの首魁であったが、それと同時に自らが女性である事に矜持を抱いている、そう言う人間である。ノーラはラフマニの問いかけに口元に笑みを浮かべながら答え返した。
「へぇ、身なりと出自の割には礼儀を弁えているじゃないか。名前は?」
「ラフマニ、名字は知らねえ」
名字を知らない――、それは嘘だ。ラフマニ自身は知っているが名乗りたくないのだ。その理由をノーラは風聞で知っていたがあえて問い詰めなかった。
「それじゃ、坊や、要件と行こうじゃないか。あたしも忙しい身なんでね」
「あぁ、わかってる」
ラフマニがそう答えたときだ。それまで静かに笑みを浮かべていたノーラだったが、不意にその視線が鋭くなる。彼女の出自と生業があからさまになった瞬間である。
「それで取引ってのは? くだらない内容だったら殺すよ」
殺す――、ノーラはそうはっきりと告げた。
「なにしろあたしらロシアン・マフィア〝ゼムリ・ブラトヤ〟を動かしたんだからね。それ相応の意味と中身のある取引でなければそれは〝侮辱〟でしかない。こっちにもメンツってもんがあるからね。ガキのくだらない呼び出しに付き合ったなんて知られたら軽く見るやつが出てくる。いいかい? 坊や、あんたはそれだけ『重い相手』を動かしたんだ。それ相応の取引を用意できてるんだろうね?」
ノーラはロシアン・マフィアである。
ゼムリ・ブラトヤ、『大地の兄弟』の意味を持ち、極東ロシアを拠点とする歴史の古い正統派のロシアン・マフィアである。ノーラはその首魁としてこの日本へと進出をかけてきたのだ。無論、プライドもある。組織として敵対勢力や競争相手に張り合えるだけの畏怖と威厳が求められる。それがノーラと言う女傑の双肩にどっしりとのしかかっているのだ。その彼女を動かした――、それは生半な事ではないのである。
そしてノーラは問う。ラフマニの真意を。
「それで何が欲しいんだい?」
シンプルな問いかけだった。取引とは欲しいものが有るからこそ持ちかけるのである。そしてそれに見合う代価を用意できるからこそ取引は成立するのだ。これは合法・非合法を問わず、世界のあらゆる土地で成立する話である。
じっとノーラがラフマニの返事を待てば、少しの沈黙を置いて真摯な視線のままにラフマニは口を開いた。
「何もいらないよ、ママノーラ。ただ――、貴方が俺みたいな街のゴミみたいな混じり物の孤児に対等に話を聞いてくれた。呼び出しに応じてくれた。その『事実』が俺には、いや――俺たちには必要だったんっだ。俺たち親の居ないハイヘイズのガキたちにはね」
「何も要らない? 正気かい? あんた! 物乞いでもすりゃ、小銭の少しでも毟り取れるかもよ?」
「いらねえよ。そんなの。俺は下を向いて這いつくばって生きるつもりはない! たとえ虚勢でも胸を張って前を向いて風を切って生きる。そう決めたんだ。あんたたちへの呼びかけだってその1つだ。生きていくためにどうしても必要だったんだ」
ノーラはあえて嘲りを仕掛けた。相手の度量の深さを探ったのだ。だがラフマニは自ら誰かの足元にひざまづくような物乞い少年では無かったのだ。ノーラはラフマニに問うた。
「мальчик、何を考えてるんだい?」
当然だ。取引を仕掛けているのに欲しいものはないという。コレほど不可解なものはない。だがそれに対する答えをラフマニはすでに用意していたのだ。
「俺たちハイヘイズは後ろ盾がない。縋るべき民族も集団もない。だからこの街じゃ一番弱い。殴られようが、殺されようが、誰もなんとも思わないゴミみたいなもんさ。でも、この世に生まれたからには相手に噛み付いてでも自分が生きる場所を掴み取るしかない。それにだ、俺の後ろには下は1歳から上は14まで沢山のガキたちが腹を空かせて待ってる。どんなに無様でみっともないことをしてもその日の食うものを見つけてやらないといけない。でも今はそれよりももっと厄介な問題が起こってるんだ」
「厄介な問題?」
「あぁ」
「聞かせな」
ノーラはラフマニの言葉を遮らなかった。そして彼らが抱えている重要な問題に耳を傾け始めたのだ。
「〝誘拐〟だよ。連れ去って金に変えるのさ。奴隷、ペット、臓器移植の苗床、人体実験の材料――なにしろ人間の子供は金のなる木だからな。何をしてでも連れていきたい連中はいくらでも居るさ。今年はすでに4人やられた。3人は取り返したけど、1人は質の悪い闇医者に連れて行かれた後だった。何をされたかは分かるだろ?」
「あぁ、生きのいい子供の中身を欲しがる豚野郎はどこにでも居るからね」
移植用臓器は世界中のどこでも不足している。闇市場で金銭で売り買いされているケースも後を絶たない。それが子供用となればなおさら数は足らない。だから闇マーケットでは移植用臓器は高額取引の対象となる。ビジネスになるなら商品の仕入れは必須だ。ノーラは目の前の混血の少年が置かれた世界に苛立ちと義憤を感じずには居られなかったのだ。
「でも何とかして子供らを守ってやらないといけない。その為にはどうしたら良いのか? それだけを必死に考えた。そして見つけたのがこの方法だったんだ。つまりこう言うことさ――
たとえ、俺達みたいなハイヘイズのガキでも、実力のある〝誰か〟が俺たちと対等に話をしてくれたら。例えその取引の中身がどんなものだったとしても周りはこう考えるだろうって考えたんだ。『このガキどもは一体どんな繋がりを背後に持っているんだろう?』って勘ぐるだろうってね。
たちの悪い連中だって馬鹿じゃない。相手の奥底が見えてこない場合、どんなリスクが隠れているかわかったもんじゃない。迂闊に手を出して損失を被るくらいなら別の儲け手段を探した方がいいって考えるだろう。そしてそういう状況に俺たちの立場を持っていく必要があった。そこで迷惑をかけるとは思ったけど、その交渉相手に選ばせてもらったのが――」
「あたしらって事かい?」
ノーラが問い返せばラフマニははっきりと頷いた。ラフマニが仕掛けたトリックと企みを耳にしてノーラもため息を吐かずには居られない。
「なんて奴だ――、そこまで考えてるなんて。確かにアタシらが対等にこうやって話し合いを持てばあんたらの素性や背後関係についてアレコレと勘ぐらずには居られないだろうね。それにあたしらには直接には大きな影響はない。なるほど、だからあんたあたしをこんな荒れ地に呼び寄せたんだね? 交渉と話し合いをあくまでも自分の領域で進めたという〝事実〟のためにね。とんでもないタマだね、あんた」
ノーラは大きくため息をついた。眼の前の15〜16の少年がそれだけの仕掛けを思いついたのだ。だがそれに呑まれる彼女ではない。
「でもね、あたしらだって暇じゃァない。何もする必要が無かったとしても手ぶらで帰るわけには行かなくてね」
ため息を吐きながらラフマニに驚いていたノーラだったが、それもすぐに普段の剣呑な気配をまとった彼女になる。そして鋭くラフマニを見据える。返答次第によっては最悪の事態となるだろう。だがラフマニにはそれすらも打開策を用意済みだったのである。
「それについちゃあ、ちゃんと取引のネタは用意してあるよ。ある人を紹介する」
ラフマニはそこまで話すと背後を振り返る。
「兄貴!」
ラフマニが一声かけるとその背後から何者かのシルエットが姿を現す。
「―――」
ノーラは身じろぎもせず、相手の姿を見つめている。そしてそれは彼女にとっても記憶に新しいものだったのである。
まるで蜃気楼の向こうから魔法のシェードをくぐり抜けてきたかのように、その全身像を浮かび上がらせてくる。それは明らかに立体映像によるステルス迷彩装備の所有者であった。
全身を覆う黒いコートにプラチナブロンドのオールバックヘア、目元を180度覆う大型の電子ゴーグル。そして、コートの合わせ目から垣間見える両手にはグローブがハメられている。メタリックでメカニカルな意匠のそれは、明らかにコンピュータネットワークへのディープなアクセスや特殊な電子機能を有していると思われるものだった。
そのオールサイバーなコスチュームの男の名をノーラは口にせずには居られなかった。
「シェン・レイ!?」
その者の名はシェン・レイ――漢字表記で『神雷』となる。
「神の雷がなんでこんな所に?」
ノーラの驚きの声と共に彼女の傍らにも別な人物が姿を現す。朧げな半透明なシルエットが徐々に実体化するように現れるのは、彼自身がステルス戦闘能力者である事を示していた。
デニムのジーンズに簡素なコサックジャケット、そして編み上げブーツに頭部にロシア帽を抱いた六〇過ぎの老齢のロシア人男性だ。頬や目元にナイフ傷を持ち、左目は瞳がなくそれが人工の眼球カメラである事を示している。その荒くれた鋭い気配から彼がノーラの護衛役である事は明らかである。
「ご苦労、ヴォロージャ」
「да」
ノーラの護衛役は言葉少なに言葉を返す。もとより雄弁なタイプではないらしい。その彼が姿を表したのはノーラの眼前のコート姿の男と無縁では決して無かった。
ノーラは護衛役の彼を傍らに置きながら、強い口調でラフマニを問い詰める。
「あんた、〝神の雷〟にケツ持ちさせようってのかい?」
そこには若干の失望感が滲んでいた。これだけの仕掛けを考える度量と度胸を備えていながら、取引材料として担ぎ出した相手に苛立ちと怒りを覚えたのだ。だがそれを否定する声がする。
「そいつは違うな。ママノーラ、俺は何もしないよ。あくまでも行動を起こすのはコイツ――ラフマニ自身だ」
その言葉にノーラは苛立ちを飲み込んだ。そして静かにラフマニを見据えると彼の言葉を待つ。
「兄貴は自分からは特定の組織とは関わり合いを持たない。常に単独のフリーランスだ。それはあんたたちも知っていると思う。それにどんなに兄貴が睨みを効かせても、いつも俺たちと一緒に居るわけじゃない。実際、拐われた4人も兄貴が居ない隙を狙って襲ってきたんだ。兄貴が居なくても大丈夫なように、俺がガキたちの護り手として一目置かれる存在にならないといけねぇ。だから俺が動く。警察のガサ入れ情報や組織の危機回避に役立つ重要情報、それを俺が兄貴から手に入れて〝手紙〟にして俺が渡しに行く。例えばこんなふうにな――」
そしてラフマニは懐から一通の手紙を取り出した。小奇麗な純白の封筒――、丁寧に封がしてある。それを差し出せば受け取るのは護衛役の初老の男である。受け取ったそれを裏表を確かめるとノーラへと渡す。単なる手紙であっても極薄の構造で爆発物を仕込むのは可能なのだ。組織の重職を護るためにはごく当たり前の行動である。
「ご苦労」
一言告げて手紙を受け取りそれを開封する。そして中身を確認すると僅かばかりの沈黙ののちに意味ありげに笑みを浮かべた。
「なるほど、考えたね? мальчик、手紙をラテン語でしたためるなんて考えたじゃないか。しかも文章は普通の世間話風に書いてある。お前さんがあたしにあてて書いたと気づかなければただの与太話か、物乞いにしか見えない。これはあたしが読む事で初めて意味を成す〝仕掛け手紙〟それも、あえてロシア語じゃ無いのも工夫したんだろう?」
「あぁ、ロシア語だとあからさまにママノーラたちに宛てたってのがバレバレだし、俺は英語、中国語、アラビア語、どれもできるけどそれだと今度は誰が書いたのか? ってのが解っちまう。ママノーラでも読めて尚且つ、特定の組織や特定の誰かにつながらない。そんな手紙にする必要があるんじゃないか? って考えたんだ。ラテン語なら日常会話に使うやつなんてそうそう居ないからな。そして、それを持って俺があんたたちと接触する。まさか俺みたいなガキが情報提供者だなんて思うやつは滅多に居ないさ。なにしろ俺は〝ハイヘイズ〟だからな」
ラフマニが講じたアイディアをママノーラは満足げに聞き入っていた。
「ラテン語は使えるのかい?」
そう問えばラフマニは顔を左右に振る。
「あんまり。だから覚えた。ネットなんかで調べるとそこから足がつくから紙の本をなんとかして手に入れて首っ引きで勉強したよ。とにかく死に物狂いだった。一刻の猶予も無かったしな」
そしてラフマニに続いてシェン・レイと呼ばれた人物が口を開いた。
「実を言うとな、このプランは全部コイツが考えたんだ。俺は逆に反対だった。リスクが多すぎるってな。今回もこいつの身が危ないとなれば何も言わずに引っ張ってでも脱出する気だった。でも思ったよりあんたが話のわかる人で安心したよ。ママノーラ」
シェン・レイの賞賛の言葉を耳にして、ママノーラもまんざらでは無かった。口元に笑みを浮かべながらこう告げたのだ。
「〝神の雷〟にそう言われても悪い気はしないねぇ。まぁ、最初の取っ掛かりのアプローチからして素人のガキじゃないってはおもってたけどね。呼び出しに伸るか反るかは五分五分だった。мальчикが単なる餌で他の連中が待ち構えている可能性もあったしね。でも賭けは当たったね。мальчикあんたの勝ちだよ。あたしらがあんたと交渉に乗ったっていう言う〝事実〟――好きに使いな。あんたの後ろにいる子供らを守るためにね」
ノーラは素直にラフマニを称賛した。過程が如何なるものであったとしても、交渉とは相手を自分のルールとペースに引き込むことに意味が有るのだ。ラフマニはまさに己の思惑にノーラたちを引き込むことに成功したのだ。そしてノーラは続ける。
「でも一つだけ聞かせておくれ。何故あたしらを選んだんだい?」
当然の疑問だった。今となっては交渉が決まっているのでどう言う理由だろうが知る意味はないのだが、ノーラ個人としては聞かずには居られなかったのだろう。その疑問を解くようにラフマニは言葉を吐いた。
「簡単な理由さ。中華系の黒社会連中は危険すぎるし、なにより同族の中華系以外のやつを絶対に信用しない。黒人系の連中は人当たりもいいし話はわかるやつが多いけど黒人であるか否かをどうしても気にする。南米系はノリがいいだけで信用できねーし、デジタルのネット連中は相手の正体がわからない以上は交渉自体が成り立たない。日本のヤクザは近づくだけでもゴメンだ。一つ一つ条件を絞って消していったんだ」
「それであたしらが残った?」
「あぁ、でもそれだけじゃないんだ」
ノーラの疑問に答えたラフマニだったがノーラの目をじっとみつめてこう答えた。
「あんたたちは唯一、〝人身売買ビジネス〟に手を染めてないからな」
それは余りにもわかりやすい理由だ。それを聞いてさすがのノーラも納得がいく。
「なるほどそう言うことかい。確かにそれはとても大切なことだね」
ノーラは納得していた。そしてそれは彼女自身が一つの価値観として共感する物があったのである。
「それじゃ、これからの交渉と接触はうちのウラジスノフに任せる。話はコイツと詰めておくれ。できるだけ長い間、いい関係を持とうじゃないか。これからもよろしくたのむよ」
「あぁ、俺からも改めて礼を言うよ。ありがとう、ママノーラ」
ラフマニが告げればママノーラは満足げに笑みを浮かべる。そしてそのとなりに佇むウラジスノフが声を掛ける。
「молодежи」
シンプルな問いかけ。それと同時にウラジスノフは手元からある物をラフマニへ向けて投げ渡す。それは少し古ぼけた金属製の懐中時計である。きれいな放物線を描いては鈍い銀色のそれは吸い込まれるようにラフマニの手元へと収まっていったのだ。それを視認しながらウラジスノフは告げた。
「組織のリーダーなら、時間は常に正確に把握しろ。全体の行動を決定する上でそれは非常に重要なことだ」
その言葉を噛みしめるようにラフマニははっきりと頷く。ウラジスノフもそれに満足げに頷き返す。
「手紙が出来たらそれを持ってメインストリートのロシア人界隈周辺に来い。俺か俺の配下が接触する。その際、偽物とは絶対に間違うな。それの真贋を見極めるのもお前の役目だ。いいな?」
「分かった」
接触――当然、ステルス機能を駆使しての事だろう。それが本物か否か、確かめるのはラフマニ自身なのだ。
「話は終わりだね。それじゃ行くよ」
「да」
ラフマニのその言葉を聞きながらママノーラは黒塗りのベンツの中へと戻っていった。そして若い従者が扉を閉めると彼もラフマニに一礼しながら車内へと戻っていく。ウラジスノフもいつの間にかにその姿を消していたのである。
そしてベンツが走り去るのを眺め終えると、盛大に息を吐いたのは誰であろうラフマニだったのである。
「あ~~~! やばかったぁ!! 怒らせないでうまく行った! はあ~~」
そして思わずその場にしゃがみ込む。それを隣でシェン・レイが笑っている。
「おいおい、今までの威勢はどうした? もう電池切れか?」
「しゃぁねえだろ? まさかウラジスノフのダンナまで居るとは思ってなかったしよ! もしかすると囲まれてる可能性もあったしさ。はー、びびったぁ! 本物があんなに怖かったなんて」
「当然だろう? 連中だってその下に膨大な数の配下を抱えている。それらに対してスキは見せれない。それはあれだけの貫禄があってこそなんだ。でも、案外に話のわかる人だったな」
「あぁ、そうだな。あとは周りの連中が俺の企みにどう引っかかってくれるかだ」
「心配するな。その辺は俺がシミュレーションしている。9割方成功するはずだ」
そしてラフマニは立ち上がると周囲を見回しながら告げた。
「それじゃ行くか。ガキたちが腹空かせて待ってるからよ」
ラフマニが歩き出し、それと連れ立ってシェン・レイも動く。
この人街の場末の場所で、間違いなく彼らは生きていたのである。
@ @ @
そして、走行するベンツの中、ママノーラは細葉巻をくゆらせながらつぶやいていた。
「あの子、とうとう〝あの話〟を口にしなかったね」
その呟きに隣のウラジスノフが視線を送る。
「あのハイヘイズのガキたちの中に、生粋のロシア人でカチュアって子が居るんだ。やっぱり親無しでね、ハイヘイズの子らと一緒にひもじい暮らしをしてるそうだ。手を出して助けてやりたいけど、1人を助けて他を無視するわけにもいかないからね。気にはなってたんだが――、でも、あのラフマニって子がカチュアの話を盾にして、同情を誘うつもりだったらカチュアだけ連れてくるつもりだった。自分の後ろに居るものをダシにするやつとは交渉する価値はないからね」
その言葉にウラジスノフが続ける。
「だが彼はそれをしませんでした」
「当然さ、あいつは自分がどうすれば仲間を守れるのか? それだけを考えてる。そのためには何でもする。知恵も有る、行動力も有る。あれは将来、大物になるね。投資しておいて損はしない相手さ」
「да」
ウラジスノフもノーラの言葉に素直に同意する。
「あんたも良かったのかい? 愛用の時計くれちまってさ。スペツナズの頃からのなんだろ?」
ノーラはウラジスノフの過去を知り尽くしている。あの懐中時計の価値を知っている。ウラジスノフは真意を口にする。
「それだけの価値の有る男でした」
「そうかい」
ノーラが葉巻の灰をアッシュトレイに落としながら言う。語りかける相手は運転席と助手席の若い二人だ。
「イワン、ウラジミール――いいかい? あれが頭を張る男ってやつだ。小さくとも組織のリーダー、それが身についている。ああいうのに負けない男におなり」
母にも等しい存在であるママノーラの言葉に、二人は頷いて返した。それを認めつつノーラはウラジスノフに指示する。
「ヴォロージャ、間に人を何人か入れて、ハイヘイズの子らに仕事を回しておやり、絶対にピンはねしないように言い含めてね。単に物や金をくれてやるのは別な面倒の種になる。親無し子たちの暮らしがたつようにしておやり」
「да」
そしてそのベンツは走り去る。人の欲望行き交う深淵の街の中へと向けて――
――――――――――――――――――――――――――――
X3:ミドルレベル:社会カテゴリー・治安情報エリア
その二つのシルエットは舞い降りるようにその場所へと降り立っていく。
一人は19世紀末期の英国の貴族男性のような服装をした三毛猫
もう一人はバーチャルアイドルキャラクターとよく似た姿を持つ少女。
ミスマッチな雰囲気漂う二人だがこのネット上の情報空間であるサイベリアでは、何らおかしいものではなかったのだ。
三毛猫の貴族の名はペロ――
アイドル風キャラクターの名はベル――
アンドロイド警察官・特攻装警をめぐる話題で知り合った二人である。
二人は、午後四時にX‐CHANNELのエントランスエリアにて待ち合わせし、たった今、このエリアへとやってきた所である。
周りを一瞥するとベルが不安そうに呟く。
「ここは?」
それに答えるのはペロだ。
「社会カテゴリーの中の治安情報エリアさ。闇社会カテゴリではそのものズバリの裏社会でのゴシップ情報が氾濫してるけど割とああいうのはあてにならないんだ。所詮は噂だからね。でもここは違う」
そう語りながらペロはその細長い回廊を歩き始める。
「ここは基本的に行政やマスコミが流したニュース情報やプレスリリースを基本としている。そして、みんなで持ち寄った口コミ情報を加えてより正確な情報を見つけようとする場所さ」
ペロが語るその事実にベルは感心しつつもその後をついていく。
「すごい――、社会カテゴリーにこんな場所があったなんて」
二人が歩く回廊のフロアにはほの明るく光出すロードサインでフロアのサブカテゴリーの名前が記されていた。
――メインカテゴリー:社会――
――サブカテゴリー:治安情報――
そして居並ぶ扉を眺めながらペロはベルに語り始めた。
「そもそも組織犯罪と言ってもそれを実行するのは一枚板じゃないんだ」
「どういうことですか?」
「いいかい?」
ペルが猫の手のない指立てて指折り数え始める。
「組織犯罪には複数の系統がある」
たまたま通りかかった扉に記されていたルーム名が目に入る。
【ステルスヤクザ】日本国内系組織情報【王道任侠ヤクザ】
【危険のトップクラス】中華系組織情報【黒社会・18K・ドラゴン・他】
【最強軍人崩れ】ロシア系組織情報【ロシアンマフィア】
【黒人パワー健在】アメリカブラック系組織情報【カラードマフィア・ブラックブラッド】
【狂犬集団】中南米系組織情報【MS13・ロスセタス・サングレ】
【最新ハイテク系】サイバー系組織情報【サイレントデルタ・他】
【最強実戦集団】中近東・アフリカ系組織情報【ISIS・その他】
【サイボーグカルト集団】日本国内若年系組織情報【武装暴走族・スネイルドラゴン・他】
……ざっと目を通しただけでもそれだけの組織名が溢れていた。その数の多さにベルは背筋が凍る思いがする。
そして、彼女のそのこわばった表情を見てペロが言う。
「ものすごいだろう? これが今、日本国内で蠢いている闇社会組織の一端だよ」
「そんな――」
「悲しいけどこれが現実なんだよ」
ペロは肩をすくめながら言った。
「外国人が悪いとは言わない。日本人にだってタチの悪いのは山ほどいる。ただ今の日本は経済の拡大を目指すあまり治安の維持と言う重要な点を置き去りにしてしまった」
ペロの言葉にベルはうなずきながら言う。
「それがこの結果なんですね」
「ああ、そうさ」
そして再び、ペロは歩き出す。
「君の消息を絶ったというご友人だけど、その人を探すにはまずこれらの組織のどこの関わりがあったかわからないといけない。闇雲に探してもとっかかりすら見つからないだろう」
「………」
ベルは言葉思わず失ってしまう。あまりに闇の大きさに押しつぶされそうだったからだ。だがペロは言う。
「諦めるにはまだ早いよ、ベル」
「えっ?」
「実は、原因不明の失踪案件で遭遇率が高い組織が一つあるんだ」
「それはいったい?」
ベルの疑問の言葉に、ペロはとある部屋の扉を指差しながらこう告げたのだ。
「こいつらさ」
【サイボーグカルト集団】日本国内若年系組織情報【武装暴走族・スネイルドラゴン・他】
ベルはその扉のタイトルのあるキーワードに視線を奪われた。
「武装暴走族!」
そのつぶやきにペロは頷く。
「その通り。僕の知っている限り大都市の首都圏で若者が消息を絶つ場合、彼らが絡んでいる可能性は極めて高い」
ペロはベルと向かい合いながら言葉を続ける。
「武装暴走族の主体は、ほとんどが若い青少年たちだ。そして武装暴走族同士の抗争や他の犯罪組織との勢力争いなどのために組織の駒とする人間を数多く必要としている。何より、暴走暴走族の平均年齢は若い。若者に接触するには最適なんだよ」
ベルはペロの言葉を真剣に聞き入っていた。
「そして何より武装暴走族の上にはほぼ間違いなくステルスヤクザが絡んでいる。組織への上納、いざという時のスケープゴート、人的資源の吸収――、ステルスヤクザにとって暴走暴走族は格好の道具なのさ」
ペロが語る現実はあまりにも残酷だった。
「だからこそだ、その対抗手段として生み出されたのが、君が兄貴と言って慕う〝センチュリー〟なんだよ」
「あっ――」
「やっと気づいたようだね。多分、彼のことだから下調べは始めてるとは思うけどね。ただひとつだけ」
「なに?」
「過剰な期待はしない方がいいよ。それだけ〝根の深い案件〟だから」
〝根の深い案件〟そう言われたことでベルの胸は締め付けられるような思いがする。しかしそれもまた現実なのである。
「でもねベル」
ペロは再び歩き出すととある扉の前で立ち止まった。
「全てを諦めるにはまだ早いからね。君にもできることはまだあるんだ」
そう告げながらとある扉を指し示した。
【犯罪被害・組織拉致】若年性失踪案件・相談総合【情報共有で救出しよう】
ペロは言う。
「このルームのことは知っていたかい?」
ベルは顔を左右に振った。
「いいえ、気づきませんでした。社会カテゴリーにこんな部屋があるなんて思ってもみませんでしたから」
「そうだったか、ここなら君が求める情報が確実にあるはずだ。その上で僕も折に触れて調べておくよ。だから――」
ペロは進み出てベルの両手をしっかりと握った。
「あきらめちゃだめだよ」
その言葉の奥にはペロもまた大切な人を失った過去があるのではないかと思わせる何があった。それは同情ではない、失うということを知っているからこそできる〝手助け〟だったのである。
そんな時だった。ペロが背広のポケットに入れていた古めかしい懐中時計がアラームを発した。
「おっと、ちょっと失礼!」
ペロは懐中時計を確かめる。それは懐中時計の形をしたインフォメーション端末のイメージCGである。文字盤に表示される文字を眺めていたが、懐中時計を再びしまうとベルの手を引いて歩き出したのである。
「行こう、オープンエリアにまたあの部屋が立ったよ。特攻装警に次の動きがあったようだ!」
「本当ですか? じゃあ第7号機?」
「さあどうだろうね。じゃあ行くよ」
そう告げるとペロは足元を蹴った。そして舞い上がるとベルとともにオープンルームへと向かったのである。