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「咲が気にしているのは…子供のことなんだ。咲を襲った犯人の存在を消去しても、子供を流産した記憶は消えないんだろ?」
「うん」
アリスがいつもよりも低い声で答える。その顔は無表情だ。気になったが、俺は話を続けた。
「だったら、お腹の中にいた子供のことを忘れさせた方がいいんじゃないかって…。一応聞くが、【咲の記憶から、胎児の存在を消す】というのはできるのか?」
アリスが一瞬だけ、下を向いた。それから
「…できるよ」
薄く笑いながら、顔をあげた。また黙り込む俺を見て、アリスがため息をつく。
「ねえお兄さん、いいこと教えてあげようか」
「…なんだ?」
「人間はね、2回死ぬんだよ」
アリスがゆっくりと立ち上がる。
「…どういうことだ?」
「それは自分で考えて」
そう言い残すと、アリスはリビングから出ていった。
適当なドアを開けると、ベッドが二つ見えた。寝室かな、と思いつつ中に入る。私が家の中をうろちょろすることについて、彼はあまり文句を言わない。というか、文句を言う余裕がないんだろうと思う。
ベッドサイドにある机の上に、手編みらしい小さな靴下を見つけた。黄色、黄緑色、オレンジ色。何足あるのか数えるのが面倒なくらいある靴下を、ひとつ手にとってみる。それから、いつ作ったものだろうかと考えた。子供ができたと分かった時?それとも、その子が死んでしまってから?…あるいは、その両方。
「…愛されてたんだね」
リビングにいる彼には聞こえないように、ぽつりと呟く。それから、笑う。
辛いのは、1度目ではなくて、むしろ2度目のほうだった。
「幽霊には、人の記憶を消す力があるのか?」
朝のさわやかな空気にはそぐわない土色の顔で、彼が呟くように尋ねてきた。質問に答える前に、気になったことを口にする。
「お兄さん、昨日は眠れなかった?」
頷く彼を見て、内心で苦笑する。それと同時に、この人はどれだけ真面目なんだ、とも思う。
「質問なんだったっけ。…ああ、人の記憶を消す話ね。普通の幽霊にはね、そんな力はないよ。私は特殊なの」
「どうして君だけ」
「悪魔に魂を売ったから」
不思議そうな顔をする彼を見て、ほほ笑む。これ以上話す気は、なかった。