10
夕方。俺はアリスを連れて、咲のいる病院に行った。
「ここに、お兄さんの奥さんがいるの?」
「そうだよ」
『田所 咲』と書かれている部屋の前に来て、俺は立ち止まる。それからゆっくりと、ドアを開けた。
相変わらず虚ろな目をしてベッドの上に座っていた咲は、俺の方を見てほほ笑み、それから俺の後ろを覗き込んだ。
「…その子、だれ?」
そう言われて、ぎょっとする。俺の後ろにいるアリスを見ると、彼女はまっすぐ咲の方を見ていた。
「あ、えっと」
「…お母さんのお見舞いに来てたんだけど、帰り道が分からなくなっちゃったんです。だから、お兄さんに送ってもらおうと思って」
アリスは子供のような無邪気な笑顔で、さらりとそう言った。よくそんな嘘がさらっと出たなと思いいながら、俺は咲の方に目をやる。咲は嘘だと分かっているのかいないのか、じっとアリスの方を見て
「…そう」
一瞬だけ微笑み、自分の手元に視線を戻した。その手には、作りかけの小さな靴下。アリスがそれを複雑な顔で見ていることに、俺は気付かなかった。
「お姉さん、私のことが見えたね」
病院からの帰り道で、アリスが地面を見ながら言った。周囲に人はいなかったが、俺は小声でアリスに返事をした。
「びっくりしたよ。見える人には見えるんだな」
その言葉を聞いたアリスは立ち止まり、俺の顔を見上げた。それから静かな声で言った。
「私が見えるってことは、誰かを怨んでるってことよ」
その言葉を聞いて、アリスを見下ろす。アリスは笑わない。
「…咲もやっぱり、あいつを…犯人を怨んでるってことか?」
「違う」
アリスは即答した。きっぱりとした口調で。
「だけど、それ以外に誰のことを怨んでるって言うんだよ」
俺の言葉を聞いたアリスは、がっくりと肩を落とした。分かってないのね、と小声で言う。
「あの人は、自分のことを怨んでる。自分の不注意で、事件が起きたと思ってる。自分のせいで、赤ちゃんが死んだと思ってる。…自分を、怨んでる」
そう言うと、大きく息を吐いた。
「あの人には私の姿が見えてる。つまり私にとっては、あの人も『お客様』よ。…あの人から、仕事を受ける気は今のところないけど」
「どういう…」
俺が最後まで発言する前に、アリスが口を開いた。荒い、感情のこもった声で叫ぶように。
「あの人はきっと、「自分に仕返しをする」ことを要求するからよ。あの人は犯人のことを怨んでない。ただ、自分のことを責めてる」
だんだんと早口になっていく彼女を、俺はぼうぜんと見降ろす。
「きっとあの人は、消去を選ばない。復讐を選ぶ。私は自殺の幇助はしたくないの。そういうのはもう、見たくない…!」
言い終わると、アリスは頭を抱えて地面にしゃがみこんだ。小さな肩が震えている。おかあさん、と消え入るような声で呟くのが聞こえた。
「…アリス?」
彼女の隣に、俺もしゃがみこむ。アリスは赤くなった眼をこすって、笑った。
「靴下、すごく上手に作るよね、あの人」
「靴下?」
唐突なその発言に、俺の頭はついていけなかった。アリスは立ち上がって、しゃがみこんでいる俺を見下ろす形で言った。
「赤ちゃんのことを忘れたら、あの人は幸せになれるのかな?」
俺は、答えられなかった。