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「悪魔に魂を売ったから」
そう言ったきり、アリスは何も言わなくなった。俺は話を聞くのを諦めて、テレビをつける。今日は土曜日で、気持ちのいい快晴。お出かけ日和。ただ、日中は日差しがきついので帽子を持っていきましょう…。アリスはテレビの前に座り込んで、キラキラした顔で画面を見ていた。俺は、アリスの視線の先にあるものを見る。彼女が見ているのは美人なニュースキャスターではなくて、その後ろに映っている象だった。
「…象が好きなのか?」
俺が話しかけると、アリスはテレビから目を離さずに
「実物は見たことないけど」
そう言った。
「見たことない?本当に?学校の遠足とかで動物園に行かなかったか?」
俺の声を聞いて、アリスはやっとテレビから目を離した。俺の方を見上げて、それから蚊の鳴くような細い声で言った。
「だって私、死んだ時はまだ1歳にもなってなかったもの」
「…え?」
「25年間、幽霊として彷徨ってるの。…私、7、8歳に見えるでしょ。この姿はね、仮の姿なんだよ」
そう言うと、悲しそうに笑った。
1時間後、俺とアリスの目の前には大きな象がいた。
マンションの近くに、そこそこ大きな動物園があったのだ。アリスに本物のゾウを見せてやりたくて、…俺は現実逃避がしたくて、動物園にやってきた。ちなみに入園料は、俺の分だけで済んだ。周りから見れば、28歳の男が一人で動物園を回ってるように見えるんだろう。
土曜日だというのに、客はそんなに多くなかった。もうじき夏休みだから、夏休みに向けて今は外出を控えてるのかな、子供のいる家庭は特に。と、勝手に想像する。
アリスはテレビの時よりも一層目を輝かせて、象を見ていた。
「ね、ね。ゾウって本当に耳が大きいね!!」
「…普通、鼻が長いねって言うんだよ」
俺が苦笑すると、アリスはきょとんとした。
「でも、耳も大きいよ」
「…まあなぁ」
耳をパタパタさせているゾウを見ながら、俺はため息をついた。
ソフトクリームでも買ってやろうかと提案すると、アリスは嬉しそうに笑ってから首を横に振った。
「食べられないから、いい」
食べられないというのはきっと、好き嫌いの意味ではなくて、彼女が幽霊だからだろう。
「でもうれしかった。…対価として丸一日遊んでねって言うと、みんな大概公園に連れて行ってくれるんだよね。お金がかからないから」
「…一応言っとくけど、これは対価のつもりじゃないからな」
「分かってるよ」
アリスは苦笑すると、園内を見回した。
「でも今日、動物園に来れて本当にうれしいよ!楽しいし。ありがとうね、お兄さん」
そう言って、彼女はキリンの方へと走って行った。俺はその様子を、後ろから眺めていた。
もしも俺たちの子供が無事に産まれていたのなら、咲と子供と俺の3人で、この動物園に来ていただろうか。咲は、そういうことも考えていただろうか。
動物園とか、遊園地とか、海とか、いろんなところに連れていって。いっぱい笑って、いっぱい悩んで。
もうできないそれを、彼女は今でも考えたりしているのだろうか。
夢に見たりするのだろうか。
…忘れさせてあげた方が、いいのかもしれない。
幸せになるはずだった記憶は、今の彼女にとってはきっと、残酷なものでしかないから。