第54話 越えそうになった一線
会ったのは、
週末の夜だった。
理由は、
「少し、顔を見たかった」
それだけ。
曖昧で、
でも正直。
彼の部屋じゃない。
私の部屋でもない。
中間地点の、
小さなバー。
距離感を、
保つための選択。
グラスを重ねて、
会話は、穏やかに流れる。
仕事の話。
最近の出来事。
他愛のない話題。
でも、
視線だけが、
少しずつ、変わっていく。
彼は、
何度か言葉を飲み込む。
そのたびに、
私は分かる。
今、
何を考えているか。
店を出て、
夜風に当たる。
終電までは、
まだ時間がある。
「少し、歩こうか」
彼が言う。
私は、
うなずく。
街灯の下、
歩幅を合わせる。
沈黙が、
増えていく。
彼が、
ふいに立ち止まった。
私も、
止まる。
距離が、
近い。
近すぎる。
彼の手が、
伸びる。
触れる直前で、
私は言った。
「待って」
声は、
思ったより落ち着いていた。
彼の手が、
止まる。
「今は」
私は続ける。
「それ、しないで」
拒絶じゃない。
でも、
明確な線。
彼は、
すぐに手を下ろした。
「ごめん」
言い訳は、
しない。
私は、
少しだけ息を整える。
「嫌じゃない」
正直に言う。
「でも、まだ、早い」
彼は、
ゆっくりとうなずいた。
「分かった」
「越えない」
その言葉は、
軽くなかった。
歩き出す。
今度は、
少し距離をあけて。
心臓は、
早い。
でも、
後悔はない。
拒むことができた。
そして、
拒まれても、
彼は残った。
それだけで、
信頼は、
少し増えた。
駅に着いて、
改札の前。
今日は、
ここまで。
「ありがとう」
彼が言う。
「線を、引いてくれて」
私は、
少し驚く。
でも、
うなずいた。
自分を守ることは、
関係を壊すことじゃない。




