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第5話 名前を呼ばないで

「……あの」


その一言で、全部が崩れた。


呼ばれている。

間違いなく、私が。


それなのに、名前じゃなかったことに、少しだけ救われる。


振り向くまでに、時間がかかった。

逃げるためじゃない。

整えるため。


息。

表情。

距離感。


推し活で身につけた、無意識の防御。


ゆっくりと、横を見る。


近い。


思っていたより、ずっと近い場所に立っていた。

肩の高さも、目線も、ほとんど同じ。


視線が合う。

今度は、逸らさない。


「……人違いだったら、ごめん」


低い声。

控えめで、慎重で。


その言い方が、逆に刺さる。


人違い。

そう言ってもらえたら、どれだけ楽だっただろう。


頷けば、ここで終わる。

笑って首を振れば、何も始まらない。


分かっている。

分かっているのに。


喉が、ひくりと鳴った。


「……いえ」


それだけ。


肯定でも、否定でもない。

逃げでも、選択でもない。


曖昧な音。


それでも、向こうは、少しだけ安心した顔をした。


その変化を、私は見逃してしまった。


「あの……」


もう一度、声。


今度は、間を詰めるみたいに。

でも、踏み込みすぎない距離で。


その慎重さが、ずるい。


「いつも……じゃないけど。

見たこと、あって」


世界が、止まる。


聞き間違いじゃない。

夢でもない。


推す側が、聞くはずのない言葉。


頭の中が、真っ白になる。


否定しなきゃ。

距離を取らなきゃ。

線を引かなきゃ。


なのに。


「……そう、ですか」


また、曖昧な答え。


選ばなかったはずの言葉が、

いつの間にか、道を作っている。


向こうが、ほっとしたように笑った。


その笑顔を、

私は、初めて、こんな近さで見てしまった。


胸の奥が、熱くなる。


ああ。

これは。


推し活じゃ、済まなくなる。


そう分かってしまった瞬間、

もう、後戻りできなくなっていた。

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