第44話 時間を置いた声
三年、という時間は、
長いようで、短い。
あの出来事は、
もう誰も話題にしない。
私自身でさえ、
思い出さない日が増えた。
それでも、
完全に消えることはなかった。
名前。
声。
夜の匂い。
生活は、安定している。
仕事も、人間関係も、
特に大きな不満はない。
幸せかと聞かれたら、
少し考える。
不幸ではない、と答える。
そんなある日、
仕事の関係で呼ばれた会食。
個室。
名刺交換。
形式的な挨拶。
席に着いた瞬間、
空気が一段、変わった。
視線を上げて、
すぐ分かった。
彼だった。
もう、
ステージの上の人じゃない。
ニュースの中の人でもない。
スーツ姿の、
少し疲れた目をした、
ただの一人の男性。
一瞬、
時間が巻き戻る。
でも、
誰も何も言わない。
大人の顔で、
会釈だけ交わす。
会話は、
仕事の話だけ。
過去には触れない。
それが、
暗黙の了解。
会食が終わり、
エレベーター前で解散する流れ。
そのとき、
背後から、声がした。
「少し、話せる?」
低くて、
懐かしい声。
逃げ道は、
いくらでもあった。
でも、
私は立ち止まった。
「五分だけ」
自分でも驚くほど、
落ち着いた声だった。
誰もいない廊下。
沈黙が、
数秒、続く。
彼は、
私を見ずに言った。
「時間、置きすぎた」
それは、
言い訳でも、
冗談でもなかった。
「それでも」
少し間を置いて。
「今なら、ちゃんと話せる気がした」
胸の奥が、
小さく、揺れる。
期待じゃない。
警戒でもない。
ただ、
扉が開く音。
過去が、
静かに戻ってきた。
これは、
再開じゃない。
再試合でもない。
選び直すための、
スタートライン。




