第31話 曖昧な言葉
部屋の空気は、
思ったより、冷えていた。
照明は、落とされたまま。
カーテンの隙間から、
街の光が、細く差し込んでいる。
私たちは、
向かい合わなかった。
距離は近いのに、
視線は合わない。
「……ごめん」
先に、そう言ったのは、
あの人だった。
何に対しての謝罪なのか、
分からない。
ここに連れてきたこと?
期待させたこと?
それとも、
何も約束できないこと?
私は、
何も聞かなかった。
聞いた瞬間、
答えが確定してしまう気がした。
沈黙が続く。
この沈黙に、
意味を持たせてしまうのは、
きっと、私だけだ。
「少しだけ、話そう」
それは、
拒絶でも、
受容でもない。
曖昧な言葉。
ソファに並んで座る。
肩が、触れそうで触れない。
推しだった人が、
すぐ隣にいる。
それだけで、
頭が、追いつかない。
「君は、俺のことを」
言いかけて、
止まる。
代わりに、
深く息を吐く。
「……期待してるよね」
逃げ場のない質問。
私は、
一瞬、迷ってから、
正直に、答えた。
「してる」
声が、震えた。
その瞬間、
空気が変わる。
あの人は、
私のほうを見た。
初めて、
ちゃんと、目が合う。
そこにあったのは、
優しさでも、
情熱でもなく。
――迷い。
同じだけの迷い。
それが、
なぜか、いちばん残酷だった。
「それが、怖い」
静かな声。
「君を、特別にしてしまう」
「でも、責任は取れない」
その言葉で、
すべて、分かった。
叶わない恋が、
叶うかもしれない、なんて。
そんな都合のいい展開は、
用意されていない。
私は、
ゆっくり立ち上がる。
逃げるためじゃない。
壊れないために。
「……推しでいられなくなるなら」
「ここには、いられない」
自分でも、
驚くほど、冷静だった。
あの人は、
何も言わなかった。
引き止めもしない。
それが、
答えだった。
ドアの前で、
一度だけ振り返る。
「来なきゃよかった?」
問いかけ。
少し間があって、
小さく、首が振られる。
「……来てよかった」
「でも、これ以上は」
最後まで、
言わせなかった。
ドアを開ける。
廊下の空気が、
やけに、現実的だった。
推しは、
推しのまま。
私は、
推し活を続けられない側に、
踏み出した。




