第30話 境界線の内側
車内は、
異様に、静かだった。
エンジン音だけが、
一定のリズムで流れる。
助手席に座る私は、
窓の外を見ているふりをする。
視線を合わせたら、
何かが崩れそうだった。
「誰にも言ってない」
前を見たまま、
あの人が言う。
「海外のことも」
「今日、ここに来ることも」
胸が、
ざわつく。
「本当は、休養なんて名目」
「逃げただけだ」
逃げた。
その言葉に、
私は、何も返せない。
ホテルの地下駐車場。
人の気配は、ない。
エレベーターに乗る。
扉が閉まる音が、
やけに大きい。
数字が、
ゆっくり上がっていく。
何階かも、
分からない。
「君が来たら」
「線を越えると思ってた」
低い声。
怖い。
でも、
目を逸らせない。
「それでも、来た?」
問いかけ。
私は、
短く、うなずく。
沈黙。
エレベーターが、
止まる。
廊下は、
柔らかい照明に包まれている。
部屋の前で、
カードキーをかざす手が、
一瞬、止まった。
「ここから先は」
「戻れない」
確認するように、
言われる。
私は、
逃げなかった。
ドアが開く。
境界線の内側に、
足を踏み入れる。
推し活でも、
偶然でもない。
選ばれてしまった私が、
自分で選んだ場所。
背後で、
ドアが静かに閉まる。
その音が、
最後の合図だった。




