第3話 声になる前
足を止める理由を、探していた。
このまま歩き続ければ、いつか離れる。
そう思いたかった。
でも、曲がり角はもう近い。
ここを過ぎれば、同じ方向じゃなくなる。
そのはずだった。
人の流れが詰まって、自然に減速する。
前の人の背中が、すぐそこにある。
近い。
息遣いが分かるほど。
立ち止まるには、十分すぎる距離だった。
なのに、足が動かない。
怖い。
それなのに、振り返ってしまいそうになる。
呼び止められたら、どうする。
名前を呼ばれたら、どうする。
考えるだけで、喉が乾く。
そのとき、すぐ後ろで、空気が動いた。
声にならないほど低い音。
言葉になる直前で、止めたみたいな気配。
それだけで、背中が強張る。
呼ばれたわけじゃない。
聞き間違いかもしれない。
それでも、確かに“こちらに向けられた意識”だった。
一歩、距離が縮まる。
触れていない。
けれど、触れたも同然だった。
視界の端で、影が揺れる。
同じタイミングで、呼吸が合う。
逃げなきゃ。
今なら、まだ間に合う。
そう思った瞬間、歩調が完全に揃った。
合わせたのか。
合わせられたのか。
分からない。
ただ、同じ速度で、同じ方向を向いている。
交差点の信号が赤に変わる。
人の波が止まり、世界が静まる。
並んで立つ形になる。
横を見る勇気は、ない。
前を見るしかない。
なのに、視線だけが、確かに感じられる。
今なら、声を出せばいい。
一言、何か言えばいい。
でも、声は出なかった。
選ぶ覚悟も、逃げる決断も、まだできていなかった。
信号が変わる。
歩き出す、その一瞬。
すぐ隣で、かすかに息を吸う音がした。
声になる前の、その気配だけが、
胸の奥に、強く残った。




