第1話 推すだけのはずだった
今日も、推すだけのつもりだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
会えたらいいな、なんて思っていなかったし、思ってはいけなかった。
推し活には、暗黙のルールがある。
近づきすぎないこと。
期待しすぎないこと。
現実と幻想を、混ぜないこと。
それを守れている限り、私は壊れない。
推しは推しで、私は私。
画面の向こうと、こちら側。
その境界線が、私を守ってくれていた。
改札を抜ける。
いつもと同じ時間、同じ駅、同じ人の流れ。
イヤホンから流れる音楽も、昨日と同じ。
スマホを片手に、次の予定を確認して――
そこで、指が止まった。
目が合った。
ほんの一瞬。
一秒もなかったと思う。
でも、その一瞬で、世界の音が消えた。
人の話し声も、
電車の走る音も、
広告のアナウンスも。
全部、遠くなる。
「……え」
声にはならなかった。
喉の奥で、息だけが引っかかる。
似ているだけ。
そう思おうとした。
芸能人なんて、街中に似ている人がいて当たり前だ。
何度も経験してきた。
「あ、今の人ちょっと似てたな」って。
それで終わり。
でも、違った。
視線の向け方が。
立ち方が。
空気のまとい方が。
こちらを「初めて見る人」じゃない目だった。
心臓が、嫌な音を立てる。
やめて。
気づかないふりをして。
私は、推す側だ。
向こうは、選ばれる側。
交わることはない。
それを分かっているから、ここまで来られた。
それを守ってきたから、今まで楽しかった。
なのに。
もう一度、視線が絡んだ。
今度は、逸らされなかった。
人の流れに押されて、距離が縮まる。
一歩、また一歩。
近づくたびに、現実味が増していく。
画面の中の人じゃない。
ステージの上の人でもない。
同じ床を踏んで、
同じ空気を吸っている。
それだけの事実が、こんなに重い。
「……嘘でしょ」
小さく呟いた声は、雑音に消えた。
誰にも聞かれない。
それが、少しだけ救いだった。
そのとき、ほんの少しだけ、口元が動いた気がした。
声は聞こえない。
名前を呼ばれたわけでもない。
でも、意味だけが伝わってきた気がした。
――あ。
見つかってしまった。
推すだけのはずだった。
安全だったはずだった。
踏み込まないと決めていた世界だった。
このときの私は、まだ知らなかった。
この一瞬が、
あとから何度も思い返すことになることも。
選ばれることが、
こんなにも怖いものだということも。
あのまま、推し活だけしていればよかった、と。
そう思う日が来ることも。




