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第一章 消えてくれ、この世の果てまで 4

「と、いうことで。ご紹介に預かりました、当事務所の所長、池添隼人と申します。こっちの少年はバイトの御剣翔矢君」

「ども」


 室内で男女と環奈を迎え入れ、事情聴取を開始する。


 今回の環奈の来訪はアポなしなので、翔矢たちに事前情報が全くない。まずは彼女から話を聞くことになるだろう。


「そして私達は翔ちゃんの姉です」

「お前は黙ってろ馬鹿話がややこしくなるんだよお前の事はいいんだよお前は」


 ドヤ顔で姉であると誇示した少女をまくし立て咎めながら、翔矢はやってきた依頼主の男女を観察した。


 二人とも、歳はまだ若い。二十代後半から三十代手前といったところか。男性の方は手の甲に火傷痕があるのが特徴的。女性の方は、身体特徴はないが、とにかく自我を感じない。女性から話を聞くのは無理だろう。


 となると、この男性が警察に相談を持ち込んだ当人だ。


「さて、俺は聞いてるが、改めて説明してもらった方がいいだろうな。横山さん、どうぞ」


 環奈に促されて、横山と呼ばれた男が口を開く。


「横山圭吾です。横のは彼女の四季。ここ一か月くらい、ずっとこんな状態で」


 しかし、右手の火傷痕、どこかで見たことがあるような。


「あ、あのー……もしかして、ライさんすか」


 心当たりに行きついて、おずおずと翔矢は聞いた。日本人らしくない名前に、圭吾はきっちり反応を返す。


「えっ」

「ゲーム実況者の、スーパープレイの手元付き動画上げてる、ローレライさんっすか?」

「そうだけど……よくわかりましたね」

「手の火傷の痕、一緒だったし、声も似てたんで」


 名前がローレライなので、通称ライさん。最近炎上している、界隈では名の知れたゲーム実況者だ。主なジャンルはアクションゲームで、他ジャンルは親しい実況者のコラボ企画で上がることが多い。ローレライという名前でチャンネル登録者も多く、アクションゲームの腕を生かしてRTA(リアルタイムアタック)もやっている。


 鎌を使うキャラクターがいるゲームでは必ずと言っていいほど該当キャラを使い、大鎌というロマン武器をこよなく愛する男である。


 翔矢は篭鐘の武器形態が大鎌なので、動きや連携の参考にしているのだ。なので動画はよく見ているし、SNSもフォローしている。


「じゃあ、最近のスキャンダルのデマ、知ってますよね」


 圭吾が問うて、翔矢はゆっくりと頷いた。近頃、彼の周りはかなり騒がしい。


「そのスキャンダルというのは?」

「俺が不倫してるって話。彼女……四季のこと動画でもSNSでも話してたし、そろそろ籍をいれるかってタイミングで、別の女と遊んでるって画像が出回ってて」

「先輩、これだよこれ。見た感じ、隣の彼女とは背格好も髪型も違うから別人だな」


 環奈が自分のスマートフォンを操作して隼人に見せる。発端となった画像を見せているのだろう。


「当たり前だろ! 日付を見てくれ日付を、つい一週間前だぞ、その頃にはこうなってたんだ、ほっぽりだして遊びに行くわけないだろ⁉」

「まぁ、まともな人間なら、遊んでいる場合ではありませんな」

「しかも! 婚約届けは書いてたから役所に出したら、俺は籍に入ってるから二重婚約になって受け付けられないって言われて! 調べてもらおうと思ったら個人情報ですの一点張りだぞどうなってんだほんと! おかしすぎるだろなんなんだよ!」


 圭吾の怒涛の叫びに、翔矢は目を剥いた。特にローレライの情報を追っている翔矢としても、後半の情報は初耳だった。


「つまり、婚約者は心神喪失状態で、いつの間にか自分は知らない誰かと結婚したことになってて、知らない誰かと不倫したことになってる──ってことすか」

「そ。まじワケわかんねぇので、警察に相談したって訳です」


 翔矢の要約に、横山は深く息を吐いてから言った。荒れた内心をおちつけたようだったが、まだ見知らぬ犯人への怒りは滲み出たままだ。


「それで、婚約者殿の様子見て幻光蟲絡みだと思った俺が、先輩の手を借りようとして今に至る、って訳だ」

「幻光蟲ってアレでしょう? 都市伝説ってか、怪談でありますよね。鏡に映った自分が別の動きをしたら、出てきたそいつに食われるって……」

「当たらずとも遠からず、だ。ま、ただの都市伝説じゃねぇってことは断言しとくぜ」

「なんか妙なことに巻き込まれてたんだな……」


 環奈の判断は正しいだろう。時々婚約者の様子を見てはいるが、ソファーに座ってからというもの指一本微動だにしていない。


 が、体が動かないわけではない。先導されれば歩けるし、座れる。顕著なのは言葉一つ喋っていないのと、表情が能面のように動かないところだ。


 感情を如実に表すのは顔だ。その表情が動いていないのを見るに、感情が欠落してしまっている。


 思考することはできているのだろう。そこから先、体を動かすのに必要な感情が、幻光蟲に食われているのが自然だ。


 ただ、奇妙な部分も多くある。


「しかし環奈。私に依頼を持ち込んだと言う事は余程の事態とみる。そちらの人員では対応できないのかな?」

「なんだよ先輩、せっかくデカい依頼持ってきてやったってのに乗り気じゃねぇのか?」

「ありがたいにはありがたいが。私達を動かすのは、警察という公的機関が根を上げるも同意義だ。プライドもあるだろう。いいのかね?」


 そう。環奈も幻光蟲の使役に関しては腕がいい。唯一単独で動くことを許されている上に、隼人の弟子だ。


 彼女の手に負えないとなると、余程だと思うが。


「……俺だって試したんだよ。でも視えなさ過ぎて無理だった」


 環奈は懐からサングラスを取り出して、指で弄んだ。いいから視てみろとでも言いたげだ。


 隼人は事務机から眼鏡ケースを取り出し、中から特殊レンズのサングラスを取り出す。翔矢も革製の眼鏡ケースから朱色のサングラスを引っこ抜いて装着した。


 閉じていた目を開ける。朱色のフィルターがかかった視界の中、普通にしている横山の横で、婚約者の姿は見えないほど眩く輝いていた。


「うわキッツ」


 慌ててサングラスを外す。一瞬で目に鈍痛が走り、翔矢はソファーの背もたれにぼすんと体を預けた。


「だろ? 俺でさえ眼精疲労でヤバいことになった。幻光蟲が異様に活性化してるのは分かるんだが、それだけなんだよな」

「……なるほど。これは厳しいはずだ」


 幻光蟲を駆る者同士、反応は同じだった。


 特殊眼鏡は、限りなく近い異次元を、地球世界に映し出す道具だ。多少ズレることもあるが、現状、異次元にいる幻光蟲が婚約者に群がっている事しか分からない。


「ひとまず、勝手に婚約届けを出されてた件は民事になるだろうから、こっちで弁護士を紹介した。当然幻光蟲絡みに対応できる弁護士をな。ただ──」

「鏡もないのに、どうしてここまで幻光蟲が人間に干渉できる?」


 隼人の言葉が、二つ目の疑問。


 基本的に幻光蟲が地球世界に干渉するには鏡を必要とする。鏡に映らなくなれば接点がなくなるため、継続的に感情を食い続けられるわけでもない。


 ただ、今婚約者に取りついている幻光蟲は、その例に当てはまらない。


 事務所に鏡はないからだ。少なからず、応接室にはおいていない。


「そこっすよね。俺も初めてっす」

「それに、動けるが微動だにしないというのも妙だね。幻光蟲にも好みがある。一部の感情が欠落するのはよく見るが、乗っ取られたわけでもないのに心神喪失とは……」


 昨日のダンススタジオの一件は、依頼主が巨大な鏡を通して彼女を模した幻光蟲に身体の制御権を奪われていたために起こった。幻光蟲が体を複製したにしろ、干渉力は媒体になっている鏡の大きさに依存する。ダンススタジオという三方を鏡で囲われた空間だったからこそ、一定条件下で意識を奪う状況まで持って来られた。


 いわば、特殊な状況だったのだ。


「えーっと……あの、四季、元に戻せないんですか……?」


 隼人達の会話に不安になった圭吾が、困惑気味に言った。


「いや、元に戻せないわけではないよ。少し調べる必要があるというだけで──ん?」


 とりあえず、次元を超えて様子を見に行くか、近辺の調査をしてみるか。この場で解決方法は出てこないだろう。


 そう思っていると、翔矢の後ろで立っていた少女がおもむろに足を延ばした。


 無言で四季に近づくと、ぺたぺたと触りながら検分をしているようだ。


「おい、お前何してんだ」

「池添様、鏡を用意してもらえますか。小さなもので構いませんので」


 視線は婚約者から話さないまま、少女は隼人に頼んだ。


 彼女は幻光蟲だ。人間に対処できないなら、同胞である彼女にしか分からないこともあるだろう。


 隼人は机の引き出しから手鏡を取り出し、少女に手渡した。


「ふむ、ふむ。磨かれていて、いい鏡です。やり取りがしやすいですね」

「……何すんだよ」

「少し、同胞たちに聞いてみます。私達としても、この同胞たちの様子はおかしい」


 少女は女性の足元にしゃがみこむと、手鏡をかざして己と婚約者を鏡の中に収める。


「……姉だとか言ってたが、コイツなんなんだ?」

「昨日の依頼で鏡から自発的に出てきたんすよ。俺の姉ちゃんが死んだときの姿形で、俺にピッタリついてきてたまんねぇっすわもう」

「ふーん、お前の姉君のねぇ……こいつもイレギュラーっちゃイレギュラーだな」

「性別おんなじだし引き取ってくださいよ。しゃしゃり出てきてうぜえ」

「その場で処分は──できねぇわな、ナリは姉君のなんだし」


 環奈は昨日のやり取りを知らない。ざっくりと説明すると、難儀だなぁと憐憫が返ってきた。


 あちらとこちらを繋ぐ要の模倣対象がいない幻光蟲が、鏡があったとはいえ次元の壁をすり抜けてやってきた。これもまた、異常な現象の一つだ。


 反射的に殺そうとした翔矢を隼人が止めたのも、そういった事情がある。幻光蟲についての研究は進んでいるが、まだ道半ば。少女自身が研究対象として有益なのだ。


 殺すには惜しかった。せっかくだからどうしてこうなったのか調べたい。隼人にはそういった意図もあったのだろう。


 環奈とコソコソ話している間に、少女は時たま鏡をこつんと指でつつき、うんうんと頷きながら、やり取りは一分もかからずに終わった。


 手鏡を下ろし、立ち上がった少女は、再び翔矢が座るソファーの後ろに陣取る。定位置らしい。


 なにか、弟の警備があるんだという意思表示か。


「何か、分かったかね?」

「同胞も、困っていますね。何もできないから止めてほしい、と」

「困っている? 何に?」

「この婚約者様を参考にしている同胞の仕業ではありません。そして、彼女様に取りついている同胞たちも、望んでやっているわけではありません」


 つまり、婚約者を取り囲み感情の全てを食っているのは、使役された幻光蟲のようだ。


「そして、鏡無しで干渉できるのは、同胞たちが表世界にいるからです」


 篭鐘を用いり、且つ己を模倣した幻光蟲を屈服、或いは契約を果たせれば、幻光蟲を表世界に呼び出すことが可能となる。それを利用した武器化であったり、現象の具現化なのだが。


 婚約者にの身に起こっているのも、そうした人為的なものらしい。


 幻光蟲の私的な利用は厳禁。こうなってくると予見できるのが、幻光蟲を使役する者同士の争いだ。本当に事務所に回って来るべき依頼だったか。


「君にはどうにもできないのかな? ええと……なんと呼べばいいのか」

「私達は翔ちゃんの姉です。彼女の名前でお呼びください」

「駄目だ駄目だ、絶対駄目だからな隼人さん」

「アレだな、なんか姉を名乗る不審者みたいだなァ」

「不審者なのは合ってるっすよ」


 頑なに姉だと名乗る少女に、環奈がぼやいた。不審者であるには間違いないが、実姉を喪っている翔矢からしてみればたまったものではない。


「姉です。私達は翔ちゃんの姉なのです」

「ちげぇよ馬鹿、認めねぇからな」

「認めないを認めません」

「クソ頑固野郎が」

「野郎ではありません。翔ちゃんの姉は雌の個体です」

「女だから姉なんだろうが……いやそうじゃなくて、姉ちゃんの見た目でそんなこと言うんじゃねぇよ」

「なぁ、痴話喧嘩聞いてる場合じゃないんですけど」


 話が脱線しかけたのに気づいた横山が苛立ちながら言った。


「こほん。では、リルはどうだね」


 わざとらしく咳をした隼人がにこやかに言う。


「翔矢君のお姉さんの名前は瑠璃だ。その複製体である彼女は、姉君であって姉君ではない。だから名前を逆にしたのさ。どうかな?」


 問われ、翔矢は顔を伏せた。


 この少女が、確かに姉である瑠璃の生前の姿であることは間違いないだろう。弟からしてみても精巧にできているし、この分だと内臓や血液まで本物と一致する。


 それくらい、瓜二つ。幻光蟲による人体の複製は、臓器移植に用いれるほど本物に近い。


 けれど、口調も違えば態度も違う。だから、姉であって、姉でない。


 瑠璃を名乗らせることはできないし、認められないが──別の名前くらいなら。


「……分かった。それならいい。俺も呼び方がなくて不便だったし」

「では少女改めリル。構わないね」

「私は姉ですが……翔ちゃんが望むなら、受け入れましょう」


 少女としては若干不服なようだが、リルという名前を受け入れてくれた。


「それで、リル君。婚約者殿の感情を心神喪失状態になるまで食っているのは、彼女に憑いた幻光蟲ではないのだね?」

「はい。彼女憑きの同胞は、今手が出せない状態にあります。我々が住まう裏世界と表世界で、干渉力の差というのは如実に出る。何者かからの使役を受けた同胞が、強制的に食わさせられている、と考えた方がよろしいでしょう」

「その根拠は?」

「先ほど池添様が仰ったように、我々にも、好みがあるのです。摂取したい感情というものがあります。一人の人間が起こす感情エネルギーを、全て食べようとするのは、暴食の極みです。正常な我々であれば行いません。そもそも、容量オーバーで暴走してしまいます」


 ──それほどまでにヒトの感情は強力なエネルギーなのです。


 リルは一言付け加えて、婚約者を見た。


「我々はヒトに憑き従うこともありますが、ヒト一人につき個の我々が憑きます。ヒトが複数の幻光蟲を、篭鐘無しに使役するのは、あまりに無理です」

「だが現にこうなってる。とすると?」

「かなり無茶をしているのは間違いないかと。ヒトも同胞も、長続きはしないでしょう。放置すれば自然と元に戻ると思いますが、その場合、限界が来た同胞の身に何が起こるかまでは分かりません」


 幻光蟲であるリルの言い分は一理あった。


「それから、私にどうにかできないのかとおっしゃいましたが、どうにもできません。この同胞たちはそもそも嫌々四季様の感情を食べています。同胞たちの望むところではないのです」


 つまり、婚約者に幻光蟲をけしかけている張本人をどうにかしなければ、今の状態からは回復させられないと。


「えーとつまり……? 四季は誰かから攻撃を受けてるって認識でいいのか、リルちゃん」

「はい。それもヒトには視認できない方法で」

「じゃ、その相手を特定する方法は?」

「ありません」


 肝心なことを聞いたのに、返事があっさりとし過ぎていて呆気にとられた。


「ないのかよ⁉」

「はい。我々は、常に契約者と繋がっているわけではないので。その繋がりを辿ることはできないのです」

「ただ、幻光蟲を使役してる犯人が、四季さんに対して悪意を持ってるのは間違いねぇ。やっぱり、圭吾さんと勝手に籍入れた犯人が怪しいな」

「実的被害が出ないと刑事事件としては扱えない。ひとまず、弁護士に情報開示してもらってそれから動くことになるかな」

「SNSは割れてるからな。そこから調べるのは簡単だろ。ただ、そいつが本当に幻光蟲を使ってるのか諸々、確かめる必要はあるな」


 警察が公式に動けないとなると、確かに事務所に持ち込まれるべき仕事ではあったようだ。裏次元が絡まない幻光蟲絡みの事件は、表世界に損害を与える可能性が高い。早急に片付ける必要がある。


 幻光蟲は感情エネルギーを現象に変える。もっと正確に言うと、目に見える物に替える、だ。


 要は、人間が思い描いたイメージをそのまま現実に落とし込める、ということ。度が過ぎれば天変地異だって起こしかねない危険なものである。


 今後の方針が決まったところで、改めて役割分担を決める。


「私はまぁ、いつもの通り横山さんとの連絡やバックアップをするよ。尾行や調べものは任せていいね?」

「気配の遮断とか苦手なんすよねぇ……いやできるんだけど」


 バイトとして雇われてはいるが、仕事は幻光蟲が作った模倣品の処分と固定されていた。いきなり探偵業務をしろと言われても困る。やろうと思えばできそうなので、物は試しで頼んだのだろう。


 あと、隼人は若白髪で割と目立つのだ。


「あぁ、もちろん車は私が出すよ。でもね、リル君が君に付いて離れないと言っている以上、頼むしかないのさ」


 あてにされているのはつまり、翔矢自身ではなく。


「リル君になら、横山氏の複製体の状況が分かるだろう。幻光蟲が元となった複製体なのか、あるいは感情エネルギーが転化した肉塊なのか。どちらにせよ、ソレが偽物である確証を得なければね」


 異なる生物である、リルの方。


「つまり俺はこいつのお守りってことすか」

「まぁ、そうなるねぇ」


 構わないかい? 言って、隼人は己の顎に手を当てた。


「つまり、私達に翔ちゃんのお手伝いをしろと。そういうことですね、池添様」

「うん。お願いできるかな、リル君」

「わかりました。同胞が作り出した物質なら、ある程度内容物の分析は可能だと思います」

「そうか、心強いよ」


 リルは相変わらずソファーの裏で微動だにせず、感情の起伏なく答えた。


 これもまた、幻光蟲の複製体にしては珍しい。感情を己に取り込む幻光蟲は、人間よりも感情が表に出やすく、そして度が激しい。


 怒りであれば常に怒号を発し、悲しみであれば害虫が死んだだけでもさめざめと嘆く。楽しみであれば狂ったように笑い続け、喜びであれば感涙にむせび泣く。


 傍目に見れば、あの人頭イカレてるんじゃないのかとも思う極端さだ。


 が、リルにはそれがない。まるで本物の様に情緒が安定している。


 いっそいずれかの感情に突出していれば、アレは姉ではないと思い込めたのに、なまじその要素がない分、本物だと錯覚してしまう。


 酷い話だ。己より歳の低い姉などあり得ないのに。


「とまぁ、警察や弁護士と連携することになりますが、貴方の不倫相手と思われる夫人の特定は、こちらにお任せください。婚約者様の心神喪失も、解除方法を探します」

「ほんとか? ほんとに、任せたら彼女は元に戻るんだな?」

「ご安心を。恐らくですが、食われているのは感情のみ。意識はきちんとあって、記憶も残っているかと。自分の意志で体を動かせない状態なのでしょう」

「よかった……じゃあ、よろしくお願いします」


 横山は深く安堵の息を吐いた。


 これで話し合いは終わりだ。立ち上がり婚約者を介抱しながら帰り支度する横山を視界に捉えながら、環奈がリルに言った。


「なぁ少女」

「先ほどリルという名前を頂きました。私達の事はリル、と」

「あァすまん。リル嬢、こんな真冬にコートも無しか? ハンガーにお前サイズのコート、ねぇぞ?」


 リルの服装はセーラー服のまま。出会って翌日のことだったので、服を買う余裕などなかった。


 もしよかったら環奈の御下がりを貰えないかと考えたが、身長差がありすぎる。サイズのあったものを買うしかないだろう。


 大学生独り暮らしの懐はカツカツだ。バイトの給料も、お世辞にも高いとは言えない。実家からの仕送りを、姉のまがい物に使わなければならないのは不服だ。


「着の身着のままですので。とはいえ、このままでも構いません」

「んな訳ねーだろ、寒いだろ? 俺のコートやるよ」


 おもむろに己のウールコートをとった環奈が、ばさりと外套をリルにかけた。

 あきらかにオーバーサイズで肩があっておらずダボダボだ。華奢な体が、コートによって更に小さく見えてしまっている。


「ちょっと重たいかもしれねぇけど暖かいぞ~? そのコート飽きてよ、中古に売るか棄てるかしようと思ってたんだ。御下がりでよければやるよ」


 リルは一瞬動きを止めた後、肩にかけられたコートに袖を通した。全てが大振りなので手も完全に袖の中に隠れ、余った袖が手から先で折れ曲がっている。丈が短いコートなのに、ロングコートと見まごう程の大きさだった。


「……くださるのですか? 私達に?」

「え? そう言ってるぜ」

「わかりません。今、幸様がとても穏やかな気持ちなのは分かります。ただ、何故他人に物を与えようとするのか分かりません」

「いらねぇし、有効活用してくれるならそれに越したことねぇからだけど」


 リルは困惑しているようだった。会って一日も経っていないが、初めて見る表情だった。


「自分の所有物を切り分けるのです。それは、痛いことなのではないですか?」

「うーん、難しい言い方するなぁ……うん、うん」


 環奈はしばらく考え込み、言葉を吟味しているようだ。


「体は人間のもんなんだ、寒かったら風邪引いたりするだろ? そうなると捜査に支障が出るから……ってのは建前で、俺がやりたかったからやった。そんだけだ」

「やりたかったから……あげたかったから?」

「そ。もう買って随分経つし、金額分の元は取った。どうせ中古に流れるなら、必要な奴が使ってくれるのがそいつにとって一番いいだろうよ」

「一番いい、とは……幸様は、物を生物のように扱うのですね」

「生き物みたいに扱っちゃいねぇが、長く使ってたからな。愛着はあるんだよ」


 翔矢は隼人と顔を見合わせた。だろう、と言わんばかりのウインクを返して、隼人は視線を会話する二人に戻す。どこか微笑ましく、子でも見るようなまなざしだ。


 そんなことも分からないのか、と翔矢は思う。


 環奈がコートをやったのは完全に善意だ。自分が手放す予定だったコートが、知り合いに有効活用されるなら申し分ない。財産を分け与えるとかそんな堅苦しい考えはないはずだ。


 リルを外套なしに冬の外気に曝すことを不憫に思った。


 どうせ他人の手に渡るなら、知り合いの方が安心できた。


 そして、自分がそうしたかったからそうした。


 極シンプルな思考だ。自分の心がそう望んだから、そうする。


 ただ、そうしたロジックを持たない幻光蟲であるリルには分からない。


 自分の持っていたものを、何の見返りも無しに分け与えることは、感情を超越した意志によるものだ。


「……私達から、幸様に差し上げられるものがありません」

「そんなもんいらねぇよ。どうしてもってんなら、頼んだ事件をきっちり解決させてくれ」

「そんなことで、よろしいのでしたら……」


 幻光蟲には心がない。


 肉体は生成できるし、付随する感情と記憶すらコピーできるため、そう見えるだけで。


 複製した感情を引き起こした大元の心までは、コピーできない。


「……では、いただきます」


 リルはギュッと余った袖を握りしめて、環奈に言った。まだいろいろと考えているような、混乱が続いたままの声色だった。


「そういう時はありがとうって言うんだぞ」


 見かねて翔矢は言う。


「ありがとう?」

「感謝だよ。ありがたく思ったなら礼を返さないとだぞ」

「いえでも、感謝をしているのは、どちらかと言えば幸様の方で、私達は」

「いいから、頭下げるんだよ。ほら」

「構わねぇよそんなの。まぁ、サイズはあってねぇからリル嬢がいらなかったら棄てていいからな」


 翔矢がリルの頭に手を添えてお辞儀させようとすると、カラカラと笑って環奈が制した。


 言葉はぶっきらぼうだったが、愛用しているコートの譲渡先が見つかって安心しているようだ。


 押し付けられた形ではあるが、オーバーサイズのコートをぎゅっと握りしめたまま、リルは視線を彷徨わせていた。


「そうだよ、サイズあってないけどいいのか?」


 普通、服は体に合ったものを選ぶものだ。サイズが合わなかったから返品もよくあることなのに、こんな大きなコートでいいのだろうか。


「…………きっと。これで、いいです」

「じゃ、そういうことにしとくか」


 分からないのだ。自分の事を自分で決められない。


 心がないから。


 魂がないから。


 写し取った感情があるだけで、自我は、ないからだ。


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