第六章 願い、祈って 6
何が起こったのか、真っ先に判断できたのは翔矢だった。
『分体がァ……子がァ……分け身がァ……』
男か女か、低く、高い声が重なり合っている。
遺体が動いている。理屈は分からないが、起こっている現象は把握できた。
訳が分からない。死後硬直を終えて筋繊維が緩み切った肉が自発的に動くはずがない。
脳は血液が回らなければ動かない。壊死した細胞は元には戻らない。電気信号を送ることだって不可能なはずだ。
『抜け駆けをォ……しようと……いうのかァ……?』
そもそも死体は声を発さない。
長谷川は娘の蘇生ではなく再構築を手段に選んだ。遺体を保管してあったのは、彼女を構成する記憶と感情をこの世に留めておくためだ。
娘の──理子の体が、そのまま動き出すことは想定していない。
「おっさん!」
ガラスの筒のど真ん中から、濡れた布を突き破って腕が飛び出た。
翔矢は咄嗟に長谷川の首根っこを掴み、後ろに放り投げる。
『許せん……許せぬ……許せねぇ……許せない……』
「おい、あんたなんか仕込んでたのか⁉ あり得ねぇだろゾンビかよ⁉」
割れたガラスの破片で手足を切りながら、中に安置されていた遺体が身を乗り出す。
長谷川に問うも、突然起こった現象に対して放心状態だった。
「リル! お前なら──」
ならばとリルに問うが、こちらは口を半開きにして小刻みに震えている。
彼女は怯えていた。意外に胆力があるリルが動けもできていないのは初めてな気がする。
明らかに異常だ。リルを助けに来た翔矢も、娘の代替品を作ろうとした長谷川も、彼と決別しようとしたリルも、予測の範囲外のことが起こっていた。
『ゆるさない……ゆるささな、いゆるるるさんゆるさぬゆゆゆるるるるささささァァァァ』
うまく聞き取りができない、歪で歪んだ声の羅列。
「んだこいつは……!」
ブーツの底が徐々に火照っていく。床に蔓延したホルマリン溶液が加熱されて体積を減らし、粘度が高まって足を取られていた。
熱。つまり怒りだ。幻光蟲が絡んでいると考えれば、この動いた死体に宿っているのは純粋な怒りだろう。他人のものなら触りたくもない負の感情の最大手。
とにかくここから出るべきだ。アレがなんであるのか、逃げながら考えればいい。
「おい、おっさん逃げるぞ、リルも! 足元べちゃべちゃになる!」
「……どうして動いているのかは、さておいて……」
尻もちをついている長谷川を抱き起こそうと引っ張り上げる。力が入っておらず重たかったが、声はしっかりとしていた。
「……その体にあった、記憶と感情はどうした?」
お前は何者だ?
長谷川はそう問うていた。
『記、き憶く、きお』
「貴様、理子を、どこにやった」
長谷川は翔矢の助けを借りて立ち上がりながら尚も問う。
返答次第では、彼の望みが断たれる。それが分からない翔矢ではなかった。
動いた理子の遺体が、床に蔓延したホルマリン溶液で足を滑らせた。ずでん、と派手に音がして、過熱された粘液がコートに付着する。
娘の遺体が倒れ込んだことで、長谷川は思わず駆け寄ろうとしたが、咄嗟に伸ばした腕を引っ込めていた。
『ぱ、パァ……?』
「……もう一度、聞くぞ」
声が震えている。パパと呼ばれて、長谷川は強く唾を飲み込む。
「おっさん?」
長谷川は爪の痕がつきそうなほど強く拳を握りしめ、絞り出すように言った。
「──理子は、私の事を、一度もパパと呼んだことはない」
お前は誰だ、と。
問いを続ける度に、長谷川の焦燥感が伝わってくる。
回数を重ねるごとに、理子ではない別の何かにしか、見えなくなっているのだろう。
「あの子は私をお父さんと呼んでいた。妻の事もお母さんと、そう、呼んで……お前は──」
焦りが困惑に移り、そして哀傷に変わる。
お前は誰だ、と。
三度目の問いを投げかける前に、転んでいた遺体が四肢を折って起き上がる。
理子の遺体が顔を上げた。先ほどまでの怒りは鳴りを潜め、どこか同情を喚起させるが、雰囲気だけ。肉体の方は、長谷川が失敗作と棄てた幻光蟲の成れの果てに近く、明らかに異形化している。
瞳を大きく開いたまま、口角を湾曲させて、ソレは言った。
顎が割れる。頭の中から、もう一つ頭が出てくる。
理子の形を消し去って、存在を塗りつぶしていくかのように。
『パパ、ぱ、ワタシに、会いたいの、かなっ、て』
二つの声帯から、性が識別できない音が鳴る。
無念を晴らしてやりたいからと。
贖罪がしたいからと。
そうして彼が残してきた物が、無残にも壊れていく。
『思った、から、ァ──ソレ、ちょうだい』
「黙れッ! お前は理子じゃない、お前はなんなんだ⁉」
長谷川が声を荒げた。刻々と形を失っていく愛娘の最期に耐え切れなくなったのだろう。
「理子の形で、理子が言わない台詞を吐くな──ッ!」
似たような問いを、リルにもしたなと翔矢は思い出した。
バレエ教室のスタジオで、鏡の中から現れたリルに対して、大鎌を振るって翔矢も問うた。
お前は姉ちゃんじゃない、俺の大切なものを騙るな、と。
長谷川の問いも、思いも、願いも、きっとあの時と同じだ。
けれど明確に違うのは、リルは本物の記憶を持っていて、理子の遺体は彼女である理由を必要としていないこと。
記憶と感情に執着していたのは、リルのほうだ。
『理子、だよ?』
「嘘をつけ! お前、お前──ッ!」
「そこまでにしていただけませんか、主よ」
──今、なんて言った?
慄く長谷川と、床を這いずりながら彼に近づく遺体の間に、リルが割り込む。
「何故、理子様の記憶と感情を──彼女が彼女であった証を、棄てたのですか」
毅然とリルが立ちはだかる。裂けたコートの裾から覗く手が明らかに震えていて、翔矢は腕をとって震えが収まるようそっと支えた。
主と言ったからには、もしや理子の体を乗っ取った何者か、幻光蟲の親玉か。
「先のない魂など、学習対象にはあてはまりません。何故、このような無茶をしてまで──」
『お前がァ──お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がおまえがおまえがオマエがァァァァァァァァァ!』
話の中心がリルに戻ると、引っ込んでいた憎悪が表層に出てくる。この言い分では、怒りの矛先がリルに向いている事しか分からない。
何かしらの攻撃を受けかねない。リルを失うわけにはいかない。
彼女は──姉の瑠璃が生きた証なのだ。
「そうか、お前、集合体か──!」
「……はい。恐らくですが、我々同胞の──全でしょう」
正体に思い至った長谷川をリルが肯定する。長谷川は噴き出すように笑いながら、次第に強い怨嗟を滲ませた。
「ハッ、はは、ハハハハハ! 分け身の一つに過ぎなかった彼女の方が! 先に! 本懐を果たした挙句、同化することを拒否したのがそんなに不愉快かね⁉ その為に動かせそうな理子の体を乗っ取ったと⁉ ふざけるなよ幻光蟲風情が!」
激情を露わに長谷川が猛る。彼の篭鐘から滴る泥が、溶けた金属の様に床に落ち続ける。
「んだぁ⁉ じゃあこいつ、リルが目的か!」
「だろう! 幻光蟲が個に執着するとは、不愉快も甚だしいがね!」
親玉の怒りと、長谷川の憎悪で、地下の一室は蒸し暑くなっていた。
まるでサウナだ。長居していると意識が飛びそうなくらい、肌から汗が噴き出ている。
『戻れ! 返せ! 移せ! 戻れもどれもどれもどれェェっ!』
「……翔ちゃん、腕ではなく、手を、握ってくれませんか」
右手は大鎌を、左手はリルの腕を握っている。
心細そうに頼んだリルと同じく、大鎌の方からも戦慄きのような意志を感じていた。
「おっさん! いったん引くぞ、そいつ殺したいなら場所が悪い!」
長谷川の分析とリルの所感が合っているなら、対峙した相手は全ての幻光蟲を統括する集合的無意識の顕現体だ。分け身である幻光蟲に対して干渉できるのは当然だし、今まさにリルを引き込もうとしているのは間違いない。
体の震えは抵抗だ。手を握ってほしいと言ったのは支えが欲しいからだ。
彼女は、幻光蟲としてではなく、既にヒトの領域にある。それが、全なる幻光蟲の親玉は許せないのだ。
本来、幻光蟲が向かうべき高次の存在に、リルだけが先に成ってしまったのだから。
「走れるな! 外出んぞ!」
リルの体を抱きかかえ、大鎌の刃を展開させて槍に変え、出入口のドアを斬り刻み退路を開く。長谷川は自分の頬を一回叩いてから、篭鐘を己の娘の遺体に向けた。
「先に行け」
「あぁ⁉」
「留まるつもりはない! 足止めするだけだ、私一人にどうこうできる相手でないのは分かっている!」
しんがりは任せろ、ということか。
「ちゃんと来いよ! 死なれると寝醒めが悪い!」
ちらりと振り返って一瞬確認をすると、篭鐘で産み出した泥の塊を遺体の真上から降り落としていた。
リルを背負い直し、廊下を駆ける。幻光蟲の成れの果てがいるらしい左右の小部屋からは、ひっきりなしに叫び声がする。
幻光蟲を扱っている以上、感情の機微による環境変化は他の人間よりも敏感だ。
横から、エネルギーのようなものは感じるが、熱も振動も感じない。生気も殺気も、なにも。
「なぁ、食えたもんじゃないって言ってたの、左右のアレか」
「分かるのですか、翔ちゃん」
「なんとなく。確かに無だわ」
以前、リルが言っていたことを思い出す。
幻光蟲にとって最も価値のない感情には、味がしないらしい。その話が出た時は、ネットで炎上した圭吾ことローレライの不倫話を糾弾する奴らの話をしていた。翔矢は彼らの所業を、承認欲求の末路だとか言った気がする。
つまり。横で呻く幻光蟲たちは、認められたいのだ。己が己であると、自分で自信が持てないのだ。
そして、己が皆であり、皆が己である幻光蟲には個の概念がない。根本的なところから、認めてほしいという感情は不必要だ。
幻光蟲が知りたいのはヒトであり、進化することで高次にたどり着いた先にあるのがヒトである。模倣元であり、学習先である人間が、ヒトである自覚を持つことは最低条件だ。
──己を己と定められない人間は、ヒトとは呼べない、と。
幻光蟲はそう、考えるのかもしれない。
認めて。認めて。
私を見て、と。
そんなもの、こっちの台詞だとでも言いたげだ。
「そんなに人間様が羨ましいか……?」
翔矢はぼそりと呟いた。
ヒトである己には到底分かりようもないことだった。この気持ちは恐らく、ヒトの無償の愛を信じられないリルと似たようなものだろう。
幻光蟲はヒトを理想視しすぎている。
無垢で無邪気で、人間社会の道理を知らぬ幼子だ。
人間はロクでもない奴ばかりだと、翔矢は知っている。
他人に迷惑をかけて自分も見失う輩も。
贖罪のために手段を選ばなかった長谷川も。
姉を信じたいが故に罪なき人間を殺した翔矢も。
みんなみんな、ろくでなしだ。
ただ、それらは全て、一つの感情に帰結する。
どうして認めてほしいのか。
どうして許されたいのか。
どうして、忘れたくないのか。
「……俺はなぁ、姉ちゃんが大好きだったんだよ」
「翔ちゃん?」
突然の告白に、リルは困惑しているようだった。
当然、恋慕だとかそういう感情ではない。
肉親として、最も親しき血を分けた姉弟として、翔矢は瑠璃の事を慕っていた。
それこそ、忘れたくないと願い、世界の認知を捻じ曲げるほどに。
「なぁ」
呼びかける。散々姉ではないと迷いながら、リルに今だけは姉としての記憶を読み取ってほしかった。
「姉ちゃん、俺や、父さんも母さんも、好きだった?」
面と向かって、聞いたことはなかったから。
理子の遺体を奪った幻光蟲と対峙する前に、聞いておかなければいけない気がした。
翔矢は走り続けている。廊下を抜け、階段を駆け上がる。息を切らしながら、背のリルが言葉を発した時にはきちんと聞き取れるよう、集中は切らさないでいた。
きっと、望む言葉を返してくれるだろう。
でもそれは、当然の事ではない。
「だからこそ、棄てたくなかったのです」
ストレートな言葉ではなく、本題を省いた理由だけが返ってくる。
「そっか」
十分だった。
入る時はナイフで鍵を切断して不法侵入したが、出るときはもっと手荒い。槍で扉を切断し、蹴り飛ばして地上に出る。
「うわぁびっくりしたぁ!」
吹き飛ばしたドアの残骸に驚き、肩を跳ねさせた幹久がいた。
ちょうどいい。仕事で東棟に訪れていたらしい幹久は、数人の同僚といっしょだった。彼は『びっくりした』程度で済んでいるが、他の数名は、普段開かない扉の中から人が出てきたことに驚いているようだった。
しかも大ぶりな槍持ち。それはまぁ、そもそも状況が掴めまい。しかし腰に篭鐘をつけているから、ある程度話が分かる人間のはずだ。正真正銘一般人でなくてよかったと思う。
「ちょうどいい、幹久さん、隼人さんたちは⁉」
「えぇ⁉ まだ外で──」
「呼んでくれ! あと一般人の退避を! 早く!」
「もしかしてほんとになんかやらかしたね⁉」
「俺じゃねぇっすよ不可抗力っすよ不可抗力!」
言い合っている間に、開いたままの第四倉庫から長谷川が出てきた。足元に泥を纏わりつかせ、水上を滑るように滑らかな動きで翔矢の隣に停止する。
「おっさん、あいつは⁉」
「駄目だ、手が付けられなくなった──幹久君、網を掛けろ。私にも少年にも無理だ。それから、灘警察の幸嬢と知り合いだったな君は。呼んでくれ、許可する」
「環奈さんは近くで待機してる! 呼んだらすぐに来る!」
「まず何が起こったのか話してからにしてくれませんかね⁉ 俺はともかくこっちはなにがなんだか──」
地下から地鳴りがする。
「そんな暇なさそうっすよ──!」
槍の穂先を曲げ、大鎌にして倉庫の入り口を見据えた。
心臓に響くような振動で、鼓動がかき消されている。奥から感じるのは強くなっていく圧迫感と、ただ膨大なだけのエネルギーだ。
灯りが消えた倉庫の床から、液体が漏れ出した。第四倉庫地下は全て水没してしまったらしい。滲み出てきた液体は、長谷川が使う汚泥とは全く違う。
半透明で、粘性のあるピンク色。解凍した肉から滲むドリップみたいだなと思った瞬間に、ドアの向こうに覗いていた空間が赤黒い何かで埋め尽くされた。
肉が溢れ出る。長谷川が篭鐘を掲げて入り口を汚泥の塊で塞ぐが、はち切れんばかりに膨らんでいく。内側から力を掛けられる度、長谷川が握った篭鐘が激しく水音を鳴らしていた。
「幻光蟲の群体が実体化した、我々で処理する! 幸嬢なら裏世界へのゲートを開けるだろう、ここでは死人が出るぞ!」
誰のせいだ誰の、とは突っ込まなかった。
「幹久さん行ってくれ! 俺も分かる持たねぇこれ!」
翔矢が促して、幹久が弾かれたようにその場を離れた。彼の同僚たちも飲み込みは速かったのか、幹久と話をしながら動きを決めているようだった。
「外に出るぞ!」
しかし、泥による封じ込めは長く持たない。歯を食いしばりながら泥に乗って滑っていく長谷川を追い、翔矢はリルの手を引いて走り出す。
『か、ええええええせえええああああぁぁああああっ!!!!』
背後で天井が裂ける。瓦礫と化した上層階を飲み込みながら、泥の壁を突き破って肉の波が建屋の中を埋め尽くす。
室内にいた従業員は大丈夫だろうかと、心配する余裕もなかった。
どうにか屋外に出た頃には、元々東棟があった空間は代わりに幻光蟲が具現化させたらしい肉塊が覆いつくしていた。
大鎌から黒衣を生み出してリルに被せ、存在を限界まで薄くする。
「おいおいこれどうするんすか……」
「……失敗作を吸収してからこうなってな。極化した感情それぞれに耐えられず、暴走したというわけだ」
「主とかいう親玉が? 情けねぇにもほどがあんだろ」
流石にドン引きである。
肉塊は徐々に皮膚を構成していき、赤かった表面が肌色に変わっている。皮膚から飛び出ているのは人間の四肢に見えるが、手足を生やしただけでぐんにゃりと垂れ下がっており、中を骨が通っていないようだ。
表層だけ人間の皮を真似ただけの、増幅し続ける虚の塊。
あれが幻光蟲の集合体であれ、翔矢が見知らぬ人間の記憶も感情も食ったとはいえ、虚は有になり得ない。
どれだけ積み重ねたとしても、帰る先が無ではないからだ。
ヒトにとって何の意味もない。そもそも、幻光蟲という存在が人間社会で存在を暗に許されていたのは、利益になるからだ。危害を加えるならば排除するほかあるまい。
そこまで考えられているのかは不明だが。リルを再び同化させ、ヒトの何たるかを得ようと必死なのだろう。
だからこそヒトにはなり得ない。どうしてリルが個を会得するに至ったのか、少しはその学習能力を活かして考えろと言う話だ。
「……正確に言えば、主の機能の一部を持つモノです。幻光蟲は……同胞の個体全てが、一にして全ですので」
リルが小さな声で補足した。幻光蟲の肉塊には、一応人間を模した耳が数か所にある。声で判断される可能性もあった。
「言わば全に戻らなかった一の回収機構ということかね。それが理性もなく大暴れとは、見るに堪えないな」
「誰のせいだ誰の。ほっといたら死人がでるぞ」
「もう出ているよ」
だから関係ない、と言いたげな長谷川を翔矢は睨みつける。
「……あれのおかげで、理子が死んでしまっただろう」
──今まで生きてると思ってたのか? 死んでいたのに?
「そうじゃねぇよ、東棟にいた人たちが巻き込まれた可能性あるだろ」
「なに、バックアップは取ってあるよ」
平然と言う長谷川を罵倒したくなったが、今は彼と争っている場合ではない。狙いはリルだ。
「腐れ外道が」
「フン……今は見逃しておこうか」
──おっと口が滑った。いけないいけない。
翔矢がかけた黒衣によって、幻光蟲の肉塊はリルを見失ったのか、うごうごと垂れ下がった手足を振り回して探っているようだ。
よくよく観察すると、肉の間に割れ目ができている。触覚で判断できなければ視覚だと、割れ目の奥に眼球でも作ったのだろう。しかも死角がないよう、手足が生えていない隙間を埋めるよう全体に。開いたら間違いなく見つかる。肉塊と地面の接地面は、質量で潰された手足が蠢きながら増幅を繰り返し、肉塊を持ち上げようとしていた。
もう少ししたら再行動してくる。しかし、どう対処しよう。
翔矢は小回りが利く戦闘スタイルだ。ビル五階以上の巨躯を持つ肉塊に対して、末端を切断しても有効打にはならない。長谷川の泥も、動きを阻害することはできるがダメージを与えることは不得手だろう。二人して攻撃性のある能力ではないのだ。
翔矢は認識阻害というどちらかと言えばデバッファーだし。長谷川の泥も、行動阻害に長けたデバッファーだし、質量攻撃しかできない。あの肉塊に人間程度が起こす質量など小石のようなものだ。意味がない。
と、なると。やはり増援を待つしかないか。
「もうあの子は戻ってこない。アレを殺してしまわないと、気持ちが晴れないな」
「……大元は娘さんの遺体だろ。実質理子さんじゃねぇんすか」
「あの子の魂がアレの中にいるなら解放してやらなければならないし、記憶を保持していた脳は変質してしまっているだろう。体を乗っ取った幻光蟲は記憶と感情を棄てたと言っていた。あそこに、理子はもういない」
「……割り切りが潔すぎるだろ……」
改めて思うが、この男狂ってるんじゃないだろうか。
「全くの別人として歩み始めた彼女を、未だに自分の姉だと思っている君に言われたくはないがね」
当てつけの様に幹久が言う。
──ちゃんと記憶はあるから間違ってはねぇだろ。
翔矢はぶすっと不満げに頬を膨らませた。
そうは言っても、『君が慕っていた姉君とは別の個体だがね』と一蹴してくるに違いない。
不毛な言い争いだと思う。
全ての事柄は、自分がどう思うかによって決まる。他人に定められるものではない。
「間に合った! 長谷川さん、ご要望りにしてきましたよ!」
「やぁ。これは大変そうだ」
足早に駆け寄ってくる幹久と、その後ろで悠々と歩いてくる隼人の姿があった。
要望通りと言っても、環奈の姿がない。
「派手にやりましたな、長谷川殿。リル君も無事で何よりだ」
隼人が黒衣の上からリルを撫でた。
「幸嬢は?」
「準備中だ。裏世界にアレを押し込んで始末したいのでしょう? 表で処理するには、質量が多すぎて処理ができませんからな」
「よく分かっているな。流石はレジェンドと言ったところか」
「……その呼び名は、もう返上していますよ」
隼人が篭鐘から稲光を放ち、右腕にガントレットとして装備した。
「オラ、野郎どもォッ! 準備いいか、開けたらさっさと頼むぞ!」
遠方から環奈の声がする。声は東棟に隣接する建屋の屋上からしていた。
よく通る声で彼女が宣言すると、徐々に空中が揺らめきだした。
環奈が幻光蟲を扱う所を始めてみた気がする。目を凝らしていると、肉塊の幻光蟲の背後の空が、徐々に周りの風景を反射していた。
鏡だ。懐から朱色のサングラスを取り出して眺めると、鏡の向こうの風景は、色が反転した裏世界のものだ。
「翔矢君、その槍で私を飛ばせるかな? 接近してひと殴りすれば、向こうに叩き落せるだろう」
茶目っ気たっぷりにウインクした隼人だったが、翔矢は彼の要望をうまく噛み砕けなかった。
槍を、ではなく、槍で隼人を飛ばす?
「ん? 刃に私が乗るから、振りかぶって、ぶん、と」
片手で宙をフルスイングしてみせて、やっと理解できた。
「了解っす。俺も当然あっちいくんで……リルは幹久さんに任せてもいいっすか」
「いえ、翔ちゃん私も──」
狙いがリルな以上、危険に近づけさせるわけにはいかない。保護を頼むといつもの通りに同行を願い出ようとして、しかしリルは口ごもった。
「……いえ、分かりました。待っています」
弟を守るのが姉の務めである。強迫観念にも近い考えを持っていたが、瑠璃は瑠璃、自分は自分と区別して考えられるようになったのだろうか。
「ちゃんと、帰ってきてください」
真っ直ぐ己を見つめる視線に、翔矢は強く頷いた。




