第五章 偽物と本物と、どちらでもないもの 1
翔矢が産まれる前に、瑠璃は死んでいた。
恐らく翔矢が姉だと思っていたのは、瑠璃を真似た幻光蟲の模倣体だ。死因が病死でなければ、本人のフリをして生き続けることも可能だろう。六歳という幼少期に亡くなったのであれば、感情と記憶の収集も、成長と共に行えばいい。多少の粗があっても気にされないはずだ。
それは、いい。だが、何故翔矢だけが十六で自死した瑠璃の複製体の事を覚えているのか、説明がつかない。少なからず姉が死ぬまで、周りの人間は確かに彼女の事を認識していた。
両親もそうだ。今は覚えていないようだが、翔矢が一人暮らしを始めるまでは確かに覚えていた。
一体いつ、記憶が失われたのか。或いは、姉の存在が世界から忽然と消えた後、何故翔矢と両親だけが覚えていたのか。
「……なんだってんだ、クソ……」
そして、六歳以降の瑠璃が幻光蟲だったとしたなら。死亡した十六歳の姉の形を模倣したリルは、一体なんなのか。
幻光蟲がコピーした模倣体を更にコピーするなどと、聞いたことがない。前代未聞だ。
「結局、聞くしかないのか」
リルは連れ去られた訳ではない。翔矢たちが劣勢に陥ったため、自分で戻っただけだ。
研究対象として見るなら、さっさと幹久に預けるのも方法だったが、今となってはこちらで保護するのが正解だったようだ。
──整理しよう。風呂上りに洗面台の鏡に向き直って、翔矢は俯く。
リルは間違いなく、元々は企業にいた。何かしらの理由で脱走した、とみるのが正しい。
長谷川が主導する何らかの研究で、使われる予定の幻光蟲だったのだ。そして、彼女は条件を取り付けて企業から出、翔矢に会いに来た。
「……でもなぁ」
調べる方法はいくらでもある。
幻光蟲のもたらす感情の実体化とは即ち、イメージの具現化だ。
例えば隼人のガントレットは高圧電流を起こせるから、殴るより感電死させる方が早かったりする。幹久のコンポジットボウは、ありもしない草花や樹木を咲かせる。環奈は──共闘したことがないので分からない。
その点で言えば、翔矢の能力は物理現象を起こすより、認識を阻害させる方向に伸びている。
斬ったものを切れていないように誤認させる大鎌。存在していないように見せて、幻光蟲にも気づかせない黒の外套。人間はおろか、世界をも欺ける。
こっそり建物に侵入したり、至近距離で盗み聞きしたり、そういった芸当も簡単だが──今は、篭鐘が使えない。
心の声で呼びかけても返事がない。完全に契約が切れてしまっている。
一方的に切られたのだ。篭鐘使いには、珍しい現象である。
篭鐘での契約に必要なのは、幻光蟲が持ち得ない心を示すこと。脳が生み出す思考でも、計算づくめの論理でもない。
ただ、感情も道理も超越する、魂から滲み出る心。それだけだ。
「……篭鐘が使えれば、忍び込んでこそっと助けることもできるんだけどな……」
鏡に映る自分を睨みつける。どうせ次元を隔てた向こう側に、己の形を模した幻光蟲がいるに違いない。
火照った指で鏡に触れる。鏡に映る己の顔が、徐々に歪になっていく。
『助ける? 助けるねぇ。助けてどうすんだよ』
鏡の向こうで、幻光蟲がニタリと笑う。
助けてどうする、か。どうもこうも。
──どう、するんだ?
『俺はお前だぜ? 助けたって自分の首絞めるだけだ。戸籍もない未成年、手元に置くには面倒が過ぎる。なぁ?』
「……うるせえ」
『お前だって姉ちゃんの紛いものはいらねぇだろ? とっくの昔に死んだんだ、その姿でいること自体、姉ちゃんの存在を騙る冒涜だろうが』
「……うるせえ、黙って手ぇ貸せ」
『話を聞けよな俺。分かるぜ、あいつがいないと十六まで生きた姉ちゃんがきれいさっぱりいなかった事になるからな、それが怖いんだろ? 怖いよな、自分が見てきたもん全部、偽物だったんだから』
「……蟲が、人間様を知った風な口聞きやがって……!」
機嫌よさそうに煽っている幻光蟲が忌々しい。思わず鏡に向かって振りかざした拳は、跳ね返りもせずに鏡にめり込んだ。
生温い、粘着質な液体が纏わりつく。引き抜こうと足掻く翔矢を幻光蟲は嗤って、スッと見つめる視線が色を失う。
『なぁ俺よ。真実を教えてやる』
水面の如く揺らめいた鏡の中に引きずり込まれる。肩にかけていたタオルだけ残し、翔矢の姿は脱衣所から忽然と姿を消した。




