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第四章 こぼれ落ちる因果の轍 3

 感情を根こそぎ食われるのは、悪い気はしなかった。


 なすすべもなく四肢を水圧で絞り取られ、指一本動かせないのに、力無く海の底に沈んでいく感覚が、息ができるのに続いている。


 助けを求めることもない。ただ落ちるまま、そんな意志すら泡になって消えていって。


 仮に、幻光蟲に取りつかれた本人が、生きることが嫌だと思っていたら。


 この感覚は、きっと救いになる。そう思った。


 沈み、融け、寝入るように己を手放せる。


 ヒトの存在を明け渡せば、人間は自由になるのだろうか。


 それを恐れる者がいれば、歓迎するものもいるだろう。


 ──ちゃんと、逃げきれただろうか。


 自分の事は棚に上げて、姉の模倣品の事ばかり考えてしまって。


 沈みゆく意識は、か細く燻った種火に押し上げられる。


 まだやりたいことがあったようだから、それ、ちゃんとやれたかな。


 俺の姉ちゃんの形をしてたから面倒見れたけど、あいつ一人で大丈夫かな。


 事故とか事件とか、苦しいことに巻き込まれるのは、嫌だなぁ。


『……あいつは?』


 篭鐘に布を被せられ、強制的に幻光蟲との接続が切れてやっと、翔矢は意識を取り戻した。疲れ果てた幹久と狼狽している隼人に両肩を担がれ、か細い声で問うたのは、やはりリルの事だった。


 幸い、四季の状態は元通りになり、日高奈緒との問題もつつがなく解決しそうだった。


 どうやら隼人が処理した奈緒の幻光蟲は、本人のフリをさせて表世界に戻したらしい。本体のいなくなった幻光蟲であっても、フリをして生きることは十分可能だ。本人はもう死んでいます、なんて思われることはないだろう。


「……まぁ、この状況だ。咎めはしないでおくけれどね」


 礼を言いに事務所に来た圭吾と四季に、話を聞きつけた環奈。主の隼人に、居心地悪そうに肩身を狭める幹久。


 そして、鬱屈とした表情で顔を伏せる、翔矢の姿があった。


 リルはいない。あの状況で逃げ切れたとは考えにくいから、恐らく長谷川に連れていかれたのだろう。


「……んで? なんでリル嬢は攫われた訳だ?」


 環奈が問う。答えたのは幹久だった。


「……えーっとね。あの人、うちの会社のお偉いさんなんだけど。あのね……えっと……」

「おい、なんでそんな歯切れ悪ィんだよ、ええ?」

「大方、お前の仕業だろう幹久」


 口をまごまごさせた幹久に、環奈と隼人、年長者二人の言葉が突き刺さる。


「……頼まれたんだよ。脱走した幻光蟲を見つけたら教えてくれって」

「いくらでだ?」

「……五十万。ボーナスでつけるって……」

「こんの馬鹿野郎が!」


 ごん、と環奈が幹久の頭をげんこつで殴った。加減はしていたのか、幹久は涙目になりながら頭を抑えている。


「んなこと言ったって幻光蟲だろ⁉ 別にいいでしょ替えの利く複製品くらい! 僕だってそれしか聞かされてなかったんだよ! 大体! 僕社会人だし! 会社に言われたらそうするに決まってるだろ⁉」


 幹久の言葉も正しい。人体を複製した幻光蟲が死んだところで、それは人死ににはカウントされない。しかも、新しい幻光蟲が取り憑けば、何度だって複製は可能だ。


 ──でも、リルに関しては別だった。


 もう、オリジナルが存在しないからだ。


「……で。幹久さんの会社とリルに、なんの関係があるんすか」


 よく、頭が回らないままだった。ただ、リルは裏世界から唐突に出てきた。会話を思い出しても、元々企業に飼われていたと判断するのが妥当だ。


「……知らない。僕はいなくなった幻光蟲を探してくれって言われただけだから。写真だけ見せられてさ」

「それが、リルがそうだとは、いつ?」

「あの子をここで初めて見た時だよ」

「マズったマズったと言っていたのは?」

「眉唾物の話、本当だったかぁって思って。それは、僕の信条に反するからさ」


 どこか取り繕うようだった幹久の声色が一段下がった。


「長谷川さん、愛娘が病死してるんだよね。それで、奥さんが後追い自殺しててさ。知らないっしょ」


 それで怒ったのか、と翔矢は合点がいった。


 確かに失礼を言ったと、情報を与えられれば嫌でも思い当たる。


「高校に入学してすぐ、白血病でね。急性で、ドナー提供が間に合わなかったらしい」


 幻光蟲を使った臓器移植で、唯一できないものがある。


 それが、骨髄。他の臓器は幻光蟲を殺して抜き取ればいいが、骨髄や末梢血管細胞の移植は摘出自体に細かな作業が必要だ。幻光蟲が抵抗する可能性も高く、生者からの協力を比較的取り付けやすい所から、血液疾患に関しては骨髄バンクを通じたやり取りが主となっている。


「奥方はどうしてまた」

「……幻光蟲なんて、スピ系だとかオカルト系だとかで言葉が出てくるだろう? うちの会社、幻光蟲の医療取引に関しては大手なのにさぁ……よりにもよって、奥さんが免疫療法に手を出しちゃったみたいなんだよね。それで娘さんの治療が遅れたんだよ。標準治療を受けさせようとした長谷川さんと、まだ若いんだからって免疫療法でどうにかしようとした奥さんとでしょっちゅう喧嘩してたみたいでね」

「とばっちり受けたのは娘さん、ってやつっすか」

「そそ。そうこうしてるうちに全身に転移して、多臓器不全でね。その後で自分の親族や長谷川さんの両親にもコテンパンに言われて、自分が殺したんだってなって、病んで電車に飛び込んだらしい」


 淡々とした幹久の言葉に、一同は口を噤んだ。


 当事者の誰が悪かったわけでもない。この場合非があるのは、長谷川の妻に免疫療法を進めた他人だ。


 よくある話だ。純粋な善意が逆効果になっていただけ。或いは、必死な気持ちをカモにされただけ。


 ──そいつら、見つけられたら殺してやったっていいのになぁ。


 そんなクソ死んでしまえ。消しても消しても湧いて出るなら、出るそばから叩き潰すしかない。情報がないので、やりようがないのだが。


「長谷川さん、すごく家族思いでさ。娘さんも奥さんも亡くなって、酷く傷心だったそうなんだ。でもある時期から突然元気になってね。僕は一般社員の端くれだから詳しい内容までは知らないんだけど……社内で噂にはなっていたんだよ。幻光蟲から、本物の人間が作れないものか研究してる、ってね」

「馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ。幻光蟲が模倣するのはその時点での人体だ。死んだ人間の体を真似ても、生命活動が止まったままだろうが。病気の人間が相手なら病気ごと複製する。健康体に戻れるわけじゃねぇし、一体どうやってだ? 幻光蟲にもキャパがあるだろ、魂が発生したとしても、幻光蟲に耐えられるはずがねぇ」

「僕も眉唾物だと思ってたんだけど……あの時のリルちゃんの様子を見てると、ほんとにあり得るかもしれないって思ってね」


 幹久が唸り、ソファーに深く座り直す。


「まるで人間みたいに自我が発達してただろ、あの子。でも幻光蟲だ。なら……あの子を素体にして、死人の体を模倣させて、記憶の抽出や挿入ができれば……」

「馬鹿げてるな。そんなの本人なワケねぇだろうが」

「本人じゃなくても、本人に近しい人間に、本人が辿るはずだった人生を歩めさせれば十分だったのさ」


 幹久の言葉に、翔矢は口元を歪めながら目を閉じた。


 身に覚えがあった。


 リルにパンケーキを振る舞った時、確かに、同じことを思った。


『姉の瑠璃が堪能できなかったご馳走を、代わりに食わせてやるのもいいだろう』


 そう、思ってしまうのは。


 〝もしも〟を現実にできてしまう幻光蟲に出会ったら、故人としては当然だと思う。


「自己満足に過ぎないな」


 隼人が篭鐘を引っ掴み、右腕に纏わせたガントレットで、幹久の首を掴んだ。


「おい先輩!」

「いやっ、ちょっと──!」


 環奈も立ち上がり、隼人の右腕を取って静止する。


 圭吾は腰を浮かせ、若干四季を庇うように立っていた。


 その騒動の音でやっと、翔矢は顔を上げる。


「……申し開きはあるかな、田辺幹久」


 ガントレットによって一回り大きくなった右手が、がっちりと幹久の首を固めていた。


「今こうして、こっちの内情話してるのが、誠意だと思ってほしいですね」

「私にではないよ。翔矢君に対してだ」


 ばちり、と紫電が走る。


「私達には何もかもが分からない。リル君が何故脱走したのか、何故翔矢君の姉の形をとり続けていたのか。当然、君たち企業が幻光蟲を使ってどんな実験をしようが構わない。しかしね幹久君。翔矢君の身近を、引っ掻き回したのは確かなのだよ。それによって、篭鐘が使えないほどに追い込まれた。これは我々にとっても、そして企業にとっても損失になる」


 違うかね。


 問うた隼人は一切笑っていなかった。


 歴戦を重ねてきた猛者の凄味が、隠しきれていない。


「そして、臓器移植によって救える多くの人間が、救えなくなる可能性も孕んでいる。この点に関して、君はどう落とし前をつけるつもりかね?」

「……分かってますよ。実際、ここ最近は翔矢君に処理を頼みっぱなしだったし。使いやすいって評判が良かったから、指名が直々に入るくらいでね。俺も結構ボーナスもらってたんですよ。でも原因はリルちゃんが攫われた事じゃないでしょう? その前からだったんじゃないっすか?」


 心当たりは、言われずともある。


 もしも、誰もが覚えていなかった姉の記憶が、本当は捏造されたものだったとしたら。


 本当に正しいのは忘れた周りで、自分が姉と一緒に過ごしてきたんだと、勘違いをしていたとしたら。


 奈緒の処分をした瞬間。そう、考えたら。人生を突き動かしていた熱が、一気に途絶えてしまって。


 視線が、一挙に翔矢に集まった。


 今問題なのは、リルが攫われた事ではない。


 翔矢が、幻光蟲を使役出来なくなったこと──つまり、幻光蟲に食われかねない存在の危機に陥っている。先日、実際に体の占有権を奪われかけたくらいには、状況が悪い。


 今まで数年、使役してきた経験がある。そのたびに感情を食わせ続けているので、存在を成り変わるくらいには力をつけているはずだ。


「……話せるか? 御剣少年」


 環奈に、翔矢は無言で答えた。何があったのか話せるほど、自分の中で咀嚼できたわけではない。


「……じゃあ質問を変える。お前はどうしたいんだ、少年」

「……俺は」

「起こったことは変えられねぇ。お前が今篭鐘を使えないことも、どうしようもねぇことだ。ただ未来は変えられる。それを踏まえた上で答えろ」


 ──お前は、どうしたい?


 環奈の問いに、翔矢は長く沈黙した。


 姉は、死んだはずだった。それが生きていて、便宜上リルという名前を与えて、少しの間だけ、一緒に生活していた。


 懐かしかった。姉ちゃんといた時はこんな感じだったなと追憶した。姉の代わりであったとしても、体験できない事をさせてやれたのは満足だった。


 最初は殺したいほど嫌っていたのに。それは、姉はいないからと自分を保つための正当防衛で。懐に入れてしまえば、あっという間に馴染んでしまって。


 でも、全てが瓦解した。


 一度疑ってしまえば、ぼろぼろになった。


 何もかもがなくなってしまった気分だ。


 目的も、意志も、感情も、何もかも。


 形を成して、現れてくれない。


 姉は何故死んだのか。


 リルは何故翔矢の前に現れたのか。


 姉を知っているはずの人物がまるで彼女の事を覚えていないのは、いじめを隠蔽しようと口封じしたのではなく、本当に知らないだけではないのか。


 そもそも、瑠璃は瑠璃本人だったのか。


 一度疑ってしまった以上、疑心暗鬼のままでは動けない。


 嘘か真か、確かめなければ、前にも後ろにも進めない。


 それが酷く恐ろしく、今までの自分を崩壊させるものだとしても。


 真実が、優しいものでなかったとしても。


「……一回、実家に戻ります。戻って、確認します」


 隼人がガントレットの構築を解き、首根っこを掴まれていた幹久が床に落ちた。


 痛めた尻を擦る幹久を一瞥して、隼人がソファーに座ったままの翔矢を見下ろす。


「酷なようだが、何をかな?」

「……両親が、姉ちゃんを覚えているか、です」


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