第四章 こぼれ落ちる因果の轍 2
──なにが『よかった』ですか。
御剣翔矢の姉である。それがリルという名前を与えられた幻光蟲の、唯一にして無二のアイデンティティだった。
翔矢は既に意識を失っている。契約していた幻光蟲に、何らかの理由で反旗を翻されたのだろう。
何がどうしてそうなったのか、リルには分からなかった。ただ、この場で己が何をすべきなのかは、きちんと理解していた。
コンテナの扉を開ける。猟犬のように二人を嗅ぎまわしていた異形が、気配を察知して集まりだす。
「私達は、翔ちゃんの、姉です──でも、私は」
言い聞かせる。己の指向がはっきりする前に染み付いた、願いを反芻する。
共に居られなかった無念を。
先に逝ってしまう申し訳なさを。
「…‥本当に、姉弟揃って、似なくてもいい所はそっくりなのですね」
吐き出した言葉は泥のようにじっとりしていた。
似た味のする言葉を、一度だけ聞いたことがあった。
オリジナルである瑠璃の言葉と。
翔矢の『よかった』と。
同じ味がしていたのだ。
二人の謝罪と安堵に込められたのは、きっと祈りだった。
己から手放して尚、離れた者を想うような。
口にすれば直ぐに溶けて消えてしまう、儚い味だった。
一度は憧れた感情をもう一度摂取できたというのに。達成感もなにもない。
甘酸っぱくない。苦々しく、悲しい涙の味がする。
ヒトがこういった味の感情を出す時、大抵は負の感情に囚われている事が多かった。
幻光蟲にとって感情は味覚とエネルギーに分別される。生命活動のついでに、主へ還元する得意な味があるだけだ。特別好んでいるだけで、他の味も苦手な訳ではない。
にもかかわらず、吐き出したいほど不味い感情がどこからともなく湧いて出て、しかも出所が分からない。
必死に分析して、知恵として蓄えた味覚に振り分けて、それがある種の怒りであることは理解できた。
「……何故、私は怒っているのでしょう」
誰に?
何に?
誰が?
何故?
分からないけれど、一つだけ、確かな事がある。
「この怒りは、彼女が持っていた心と、似て非なります。何なのでしょうね、同胞よ」
リルは、蠢く異形に毅然と言い放った。
この異形たちの目的は翔矢だ。リルは眼中にない──というよりは、優先順位が翔矢よりも低い。
同じ幻光蟲として見ても、表世界に生息する人類として見ても破綻している。
意志が消えている。感情を感じない。脳の神経反射だけで動いている。指揮を聞けるだけの統率力があるのは、元となった幻光蟲が食ってきた感情故か。
おぞましいとは思う。
こうなった同胞が、ではない。自分と同じ形をした生物を、こうも変えてしまえる、人間の飽くなき欲求がだ。
けれど、それがヒトだ。
ヒトは、同胞を殺す生きものだ。
そのことに、何の拒否感も出ない生き物だ。
リルたち幻光蟲とは、あまりに在り方が異なっている。幻光蟲にとって己の死とは、主の欠損に他ならない。
だからこそ、幻光蟲はヒトを学び、模倣する。
その異常性こそが、ヒトの心の根源ではないかと、主が疑っているが故に。
主が、心を欲しがっているが故に。
「翔ちゃんがお望みでしたら、その要望にはお答えできません」
翔矢は寒い寒いと震えていたが、同じ構造をした人間の体でも全く寒さは感じない。
自然と眉間に皺が寄る。コートの袖の下で握りしめた掌から火が出そうなほど、体は火照っている。
怒りは炎の形をしている。火は、熱源だ。
──間違いなく、私は怒っている。
けれど、それは副次的な感情に過ぎず。
──それを、私達が現象に転化している。
一体なぜ、自分が熱を放とうとしているのか分からないけれど。
──でもこれは、きっと怒りではない。
──彼女の感情に、ないのなら。
頭が沸騰しそうだ。とっくの昔にキャパシティを越えている。
「翔ちゃんも、私も、譲れませんね……えぇ、誰にも」
必死に、必死に咀嚼する。
辛くて、苦くて、塩辛くて、でも甘い。
この怒りに似た、複雑怪奇でよくわからない、ぐちゃぐちゃに折り曲げられた包み紙のような思いこそが。
きっと、ヒトの心なのだ。
「この思いだけは、私のものです」
熱く握りしめていた指を一気に開く。指先から弾かれた熱が、細く糸のように伸びてウールコートの袖を裂く。内側が破れてスリットが入ってしまったが、動きやすいのでこの際良しとした。
そのまま指を振るい、一閃。翔矢が眠るコンテナ上部から飛び降りてきた異形を両断する。
命が肉になる。一瞬で溢れだした鮮血が、リルのあせた金髪を赤黒く染めていく。
鉄臭い匂いがする。これは、諦めに近い味がする。あまり摂取したくない感情だ。
──まぁ血液ですから、仕方ないですね。
気を取り直して異形の数を確認。暗がりで正確な数は分からないが、多く見積もっても十以上はいるか。
ウールコートにできたスリットの間から、刺すような冷たさの外気に腕を晒す。リルの攻撃に反応した異形の一体が、膝から突き出していた棘を射出した。
両断では角度が変わるだけだ。着弾間際に棘を横から弾き、側方から襲い掛かる異形へカウンターとして返してやる。
棘は異形の肩に突き刺さった。噴き出した血が、骨となって固まり筋肉を増殖させている。あっという間にもう一本の腕になって、異形は更にヒトの形から逸脱していく。
──妙ですね。これはリミッターが外れていますか。
いくら感情エネルギーを実体化させる幻光蟲と言えど、それは模倣先がある前提だ。
幻光蟲は見本を真似て複製する。ただ今翔矢の命を狙って襲い掛かる異形たちには、見本に忠実であろうとする意図が見られない。
例えば、今しがた腕を増やした異形などは、人間の腕を生やしただけだ。ただ人間という形を模倣した存在であるならば、腕が三本あるのは見本から逸脱してしまう。正常な幻光蟲であれば、傷口を修復するだけで足りるはずだ。腕を増やす理由がない。
「……私達が言えた義理ではないですが、一体何をされたのですか」
この個体群は、もう限界なのだ。エネルギー摂取量が限界を超え、模倣した肉体が耐えられなくなると起こる現象だ。
感情が振り切れれば、外部に対しての具現化が起こる。そして熱量が飽和すれば、具現化作用の制御ができなくなる。
だが、幻光蟲という存在はそこまで軟ではない。無事に終わりを迎えた同胞が存在するように、許容範囲には余裕がある。
もう、死んでいるも同然だ。幻光蟲としての使命を果たせなくなったならば、その個体は切り離すしかない。
親指から中指を束ねて太くした鋼線で、コンテナの周囲に展開する異形を纏めて薙ぎ払う。跳躍して飛び越えてきた異形に対し、もう片方の手で指を鳴らし、鋼線を一直線に射出する。
放った鋼線は異形の体を貫通し、対面に積み上げられたコンテナに突き刺さる。さながらロープに掛けられた洗濯物のようだった。熱を帯びた鋼線の影響で、異形の傷口からは煙が出ていたが。
焦げ臭い、肉の焼ける匂いが周囲に充満する。気苦労で疲れ果てた人間が、よく出している感情だ。
──あまり、好きではないですね。
リルは心の中で一人ごちた。放った糸が熱を帯びているのは、リル自身が今、怒りを覚えているからなのは間違いない。
鉄の匂いも、タンパク質が焼ける匂いも、好みではない。リルが好きなのはほんわりと暖かい、もふもふでふわふわで、包み込むような甘い香りだ。でもこうして芽生えた感情を行使していると、自分が好む感情にはなってくれない。
ままならないな、とリルは感じた。ヒトが持つ感情とは、己の好き嫌いを飛び越えて、どんな味や香りでも作り出せるものなのだ。夢のような話ではあるが──だからこそ、主はヒトを欲しがったのかとも思う。
太くした鋼線で突進してきた異形を地に叩き落す。コンクリートに半分埋まったソレを踏み台にして、また別の異形がコンテナの上に乗り上がった。
異形が跳躍した一瞬で、足が変形しているのが見えた。鋭く尖った踵は、刃のようだ。コンテナ入り口を守り続けるリルにしびれを切らして、もう一つ入り口を作る魂胆なのだろう。
中にいる翔矢は動けない。だが、今ある入り口を無防備にすることもできない。
たが、コンテナ上部は死角になっている。見えない以上、迎撃も叶わない。
「さて詰みだ、少女! 大人しくついてきてくれれば、そこで寝ている少年の命までは取るまいよ」
どうする。解決策をはじき出そうと脳内にリソースを回した瞬間、倒れ伏した異形の向こうから長谷川が大声を上げた。
聞いて、真っ先に心配したのは田辺のことだった。
「…………田辺様は?」
「おやおや、後ろの少年でも自分でもなく幹久君の心配か。まぁいい、彼なら少し黙ってもらっているよ」
「具体的に何を」
「足先だけコンクリートに埋めた。砕かない限りは動けまい」
「命を取らないとは、寛大ですね」
「彼は我が社にとっても必要な人材だ。多少の反抗程度なら水に流そう」
それで、だ。
長谷川が握っていた篭鐘を揺らすと、リルの背後にあったコンテナが突然宙に跳ね上がり、衝撃と共に土埃と割れたコンクリートの欠片をまき散らす。
背後にはいつの間にか巨大な石柱がせり立っていた。高く浮いたコンテナは泥岩に衝突し、固い金属の外装を貫く。
「翔ちゃん!」
命までは取らないと、つい先ほど言ったばかりなのに。
「君が承諾してくれない限り、そのコンテナを少しずつ潰していこう。隅にいるのなら、中心から潰していけば長持ちするだろう?」
幹久は動けない。当然翔矢も動けない。隼人たちが裏世界を通ってショートカットするには、この港には出入口がない。
「……一つ、質問をしてもよろしいでしょうか」
リルは問うた。このまま捕まるにせよ抵抗するにせよ、聞いておかねばならないことがあった。
「この同胞たちに何を?」
したのですか、と皆まで言わなかった。
「デモンストレーションだよ。君の前に試験をしたのさ」
「……そうですか」
何の試験なのか、深く考えずとも結果を見れば分かってしまう。幻光蟲に対して、記憶、或いは感情の強制注入を行ったのだろう。
何も思う所はない。長谷川がやりたいことを考えれば必要なことだと、リルは知っている。
質問した後、リルが返事を渋っていると、翔矢が眠るコンテナにもう一本石柱が突き刺さった。
金属板が甲高い悲鳴を上げてひしゃげていく。中でごろんと荷物が転がる音がする。
考えろ。
考えろ。
後のため、今取るべき行動はなんだ。
「私は殺してしまっても構わないのだがね。君としてはどうなんだ? 随分あの少年に気をかけているようだが」
「当然です。私達は姉ですから」
長谷川を睨みつける。
『あぁ怖い』と、彼はリルを鼻で笑った。
「一体何者かと思って調べたことがあるが、あの少年は一人っ子のはずだ。姉などいなかったのではないかね?」
「そうですね。そうでしょう。けれど私達は確かに、あの子の姉なのです」
誰も覚えていなくとも。
この身に譲り受けた心だけが、その事実を証明している。
だから否定しなかった。
長谷川が無言で篭鐘を揺らす。今度は細かな石柱が、隙間を埋めるようにコンテナを串刺しにした。もう隙間は殆どない。血が漏れていないから、中にいる翔矢が差されていないことだけ分かる。
これ以上は無理だ。どちらにせよ、大人しく長谷川についていくこと以外、リルに翔矢を救出する手立てはない。
「……分かりました。戻りましょう」
「初めからそうしておけばよかったんだよ」
今は翔矢の命が先決だ。心配事がなくなって初めて、我が身の振り方を考えることができる。
ついていく。戻りはするが、その後で──思い通りになどなってやるか。
反抗心に近い拒絶が、リルの中に生まれていた。




