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第四章 こぼれ落ちる因果の轍 1

 幹久に連絡を取り、切断した奈緒の身体を更に細かくして、麻袋に突っこんだ。


『あー、その人ならね、ちょっとまってね……今は角膜が欲しいかな』

『……すんません、頭潰したんで、角膜は取れないっす』

『あらら。じゃあ棄てちゃおうか』


 灘市は大型の湾岸都市である。山からは遠く、死体の遺棄ができる手軽な場所は海だ。


「うわー、こりゃ派手にやったねぇ。珍しい」

「周り、誰もいませんよね」


 幹久には、これが幻光蟲の複製体ではなく、人間であることを伝えている。


 人殺しには違いない。ただ幸いなことに、隼人は奈緒に憑いた幻光蟲を殺さなかった。それ幸いと、彼女を模倣した幻光蟲に挿げ替えることにした。


 瑠璃のことを忘れていたとはいえ、自己顕示欲のために何人もストーキングしていた女だ。更生は見込めないだろうし、別に本人が偽物になっていても問題ないと思う。


 ──完全犯罪にしたいので、その幻光蟲を俺に下さい。


『……困ったものだな。本当に殺したのか。殺るとは思っていたが……まぁ、構わないがね』


 要望を聞いた隼人の返事に、翔矢は真顔で返した。


『まだ死んでないです。殺したわけじゃないっすよ』


 ──死んだも同然だけど。


 ボソッと呟いた声は聞こえていたようで、ガントレットを装備したままの腕で頭を軽く叩かれた。


 それだけで済まされたのは、幸いだと思いたい。


『何故殺した?』


 普段軽妙な言葉遣いをする隼人にしては、少し刺々しさのある声だった。


『……死ぬべきだと思ったので』

『死ぬべきなら殺してもいいのかな? 彼女が何をした?』

『何をしたって……ストーカーして、ライさんや他の人に迷惑をかけました』


 この質問に答えはないだろう。隼人が欲しがっている答えなど、存在しないはずだ。


 責めてはいない。

 褒めてもいない。

 認めもしなければ、受け入れてもいない。


『何故そうしたと思う?』


 なぜ圭吾に執着したのか。男を見つけては付き纏って、拒絶されれば逆上した。その異常な欲望こそが、幻光蟲を従えるに足る彼女の〝心〟だと思うが。


 その、根底にあるものは、何かと隼人は問うている。


『……理由がなんだって、人様に迷惑かけることが許されるとでも思ってんですか。あの手合いは止まらないっすよ。誰が何を言っても、手を尽くしても』


 考えたくないことだった。表面に出た感情を支える柱が、もしも自分に同情できることだったら。


 いままで持っていた気持ちに、矛盾してしまうからだ。


『翔矢君』


 翔矢の考えを見越したかのように、隼人は言った。


『許す許さないを決めるのは、君ではない。法だ』

『でも裁判だって、警察だって検察だって、適当して冤罪事件も多いじゃないっすか。そういう人の無念とか、どうやって晴らせばいいんすか。それに許可出たって』

『それはそれ、これはこれだ。君が考えなさい。いいかね翔矢君。感情に生きるな。幻光蟲を扱う我々だからこそ、情に溺れてはいけない。我々は司法側の人間だ。何よりも正しさを遵守するべきだ』

『正しいことが、正解だとは思わないっす』

『間違っている事が、悪いことだとも限らないよ──君は真っ直ぐ生きすぎなんだ』


 隼人はガントレットの掌で翔矢の頭をぐしゃりと撫でまわした。固い装甲で頭を揺さぶられて、首が外れるんじゃないかと思った。


『時に正義を飲み込まなければならないし、悪にならなければならない時もある。己の正しさだけでは生きられない』


 ──でも。そう言う隼人さんだって。


『人を殺すならせめて、自分が殺したことを覚えておきなさい』


 ──そんな現実に嫌気が差したから。


『誰にだってね、生きる権利は侵されてはいけないのだよ』


 ──何かを悔やんで、怒って、思い通りにならなかったから。


『……説教すか』

『彼女はきっと、寂しかったのだろうね。それが怒りに転化しただけで』

『悲しみ背負ってんなら何をしても許されるって?』

『少なくとも殺した君は、それを背負う責任がある』


 ──あんたの幻光蟲は、憎悪かみなりなんて馬鹿みたいに攻撃的な能力なんじゃないっすか?


 数時間前のやり取りを思い出して、翔矢は肩を落としながら夜空を見上げた。


 ──別にいいじゃないか、別に。姉ちゃんに酷いことをした癖に、自分だけ好き放題生きようだなんて認められるか。


 ぶるりと肩が震える。真冬の湾岸地帯は、潮風が特に冷たかった。


「港の夜勤従業員にも通達はしてるよ。幻光蟲の複製を処分するって手筈になってる」


 臓器移植の後、不必要になった複製体も処理する必要がある。


 人間の様に、恭しく火葬場で燃やす事はできないが、大きさや骨の形状などは同じだ。なので人目につくところに捨てると、人骨があったと騒ぎになりかねない。


 幻光蟲を使った臓器移植は、一般人が知らないだけでその筋には知られたことだ。おかげで、多くの人間が助かっている事も。


 臓器の移植者も、適合した複製臓器があって初めて、幻光蟲という裏世界の存在を知ることになる。


 このまま脳死、あるいは死亡した人間からの臓器提供を待つか、適合する人間の複製体を幻光蟲で作って、或いは発見してそれを使用するか。判断するのは患者だ。


 大抵、後者を選ぶという。得体の知れない、耳慣れない存在であったとしても、己の死よりはましなのだろう。


 一年間に何百人という単位だろうが、確かに幻光蟲のおかげで命が助かっている。


 その分、臓器を抜いた幻光蟲を投棄する廃棄場が必要だ。


「……内緒にしてくださいね」

「分かってるさ」


 灘市においては、灘港に設置されたコンテナ置き場の隅がそうだった。


「これ、一応まだ生きてるんすよね」


 麻袋を広げ、半分に切った胴体を見せる。切断面は綺麗で、血液一つ漏らさないまま、心臓が正しく脈動を続けていた。


「えぇ? ……うわ、ほんとだ……じゃあ意識は」

「五感がなくなっただけで、今も裏世界にあるんじゃないっすかね。潰し過ぎて集めるの面倒になったんで、置いてきました」


 翔矢の能力で斬ったものは、彼自身が効力を打ち消すか、他の人間に触られなければそのままだ。


 効果が切れれば、切断面に生じていた概念が消去され、切断された事実が残る。その時初めて、世界に斬られたと認識されるわけだ。


 世界を騙す能力だ。これは、一部の幻光蟲も持つ力らしい。


「……君は平然と酷いことをするね」


 ──姉ちゃんを殺した奴なんで、酷くはないです。当然です。


 準備もしていた言葉だったのに、奈緒の話が引っかかって答えられなかった。


「……平然としてたわけじゃ、ないっすよ」


 覚えていなかったというより、知らなかった反応だった。


 思い出す素振りすらない。


 初めからいなかったかのように狼狽えていた。


 リルが嘘でないと言うからには事実なのだろう。確かに記憶になかったのだ。


 クラスメイトはおろか、教職員から教育委員会まで、瑠璃をないものとして扱った。


 そんなはずがないとその時は憤ったが。


 本当に、いなかったのではないだろうか。


 でも、だとしたら。


 己の記憶に残っている、姉が死ぬまでの記憶は、一体なんなのだろうか。


 不安になったわけではない。今でも事実だと思っている。


 瑠璃は居た。中学まで生きていた。その複製品であるリルがいることが、その証だ。


 でも、ならば何故、誰も知らないのか。


「……俺は、全員殺すって、決めたんだ。だから、殺した」


 瑠璃が誰からも忘れられたことに憤慨した。


 無念だったろうと、見向きもしなかった者を呪った。


 瑠璃の墓前で、自分から姉を奪った人間を許さないと決めた。


 そうして。そうして、己を保って生きてきた。


 決して、瑠璃の名誉を守るためではない。姉なら、そんなことは望まないと止めただろう。


 だから、これは翔矢が生きるためだった。


 姉という空白を、殺意と憎悪で埋めて。


 悲しみと虚しさに蓋をした。


 その殺意が、憎悪が。


 激情が、幻光蟲を従える心になった。


「時間はかからないに越したことはありません。かわいそうですが、棄てましょう」


 落ち着いたリルの声に、意識が引き上げられる。


「そうだねぇ。あ、重りはこれ使って」


 幹久から受け取ったコンクリートブロックを麻袋の中に放り込み、口を縛って港の中に捨てた。


 このまま麻袋が分解されて、海中に露わになった死体は、微生物や雑食性の魚が食ってくれるだろう。


 こうして処分した死体は数知れず。分解が進んでくれていればいいのだが。


「じゃ、帰ろうか。家まで送るよ」

「っす」


 瑠璃を殺した感想が聞けなかったどころか、知らないなどと言われては。少々萎えるというものだ。


 仇を一人殺せたというのに、全く達成感がなかった。


 それどころか、なんだか得体の知れない感覚がある。


 心の奥深く、燃え盛っていた炎ごと凍らせるような、汚泥とも呼べない何かが。


 ぶるりと体が震えた。着込んだモッズコートの襟を掴んで首元を覆っても、尚寒い。


 真冬の海から吹き付ける潮風が、容赦なく体温を奪っていく。足先は冷たく、次第に感覚がなくなっていく。


 感情はエネルギーを持つ。すなわち熱量であり、温度を持つ。


「……寒い」


 翔矢はぼそりと呟いて、天を仰いだ。


 カラビナで腰につけた篭鐘が、僅かな星光を反射して輝いている──震えている。


「……今日、こんなに寒かったですっけ」


 幹久に問う。絞り出した声は思ったよりも小さく、心細かった。


「少し風が強くなったくらいじゃないかな? ……いや、どうした? 大丈夫かい?」


 幹久の心配も耳に入らない。


 姉は。確かに、いたはずだ。


 でも。


『あんただってイマジナリーお姉ちゃんでも作ってないと生きてられなかったんじゃないの⁉』


 人殺しの言葉が耳から離れない。


 翔矢は知っている。


 裏世界からくる、人間の形を完璧に模倣できる幻光蟲を知っている。


 知人が、見知らぬ他人が、本人ではないかもしれない。


 そんな可能性がザラにあることを、知っている。


 ──誰の記憶からも消えてしまった、俺が慕っていた姉は。


 ──本当に、〝御剣瑠璃〟だったか?


「──っ翔ちゃん!」


 耳の遠くに、リルの切羽詰まった声が届く。瞬間突き飛ばされて、コンテナに叩きつけられる。


 何が起こったか、理解する間もなく、目の前にリルと幹久が立っていた。


 翔矢を、庇うようにして、既に警戒態勢に入っている。


「ちょっと、どちら様? いきなり攻撃仕掛けてくんのはどうなの?」

「翔ちゃん、立てますか──翔ちゃん?」


 更に前方、コンテナとコンテナの間を埋めるように泥が噴き出す。


 幹久も篭鐘を──幻光蟲の使役はできる。コンポジットボウを手に、核である鏡に手を添えて、茨の矢じりを番えていた。


「やっと見つけた。もう約束の日時はとっくに過ぎているんだがね」


 岩壁の奥から届く声に、リルの体が強張っている。彼女は起き上がれない翔矢の手をぎゅっと握りしめていた。


 優しく、包み込むような力加減でなく、思わず手に取ってしまったような、振るえた強張る手でだ。


 それが怯えであると、意識がはっきりしない翔矢でも分かる。


 姉が怖がっている。また、悲しい思いをしている。


 殺そう。そうだ。


 殺さなければならないものが、存在するのか。


 全身に圧し掛かっていた悪寒が徐々に取り払われる。カラビナから篭鐘を掴むと、コンクリートの地面に叩きつけた。


「……おい、起きろよ」


 反応がない。いつもならすぐ形態変化してくれるのだが。


「壁が邪魔だ、抑えるよ」


 幹久が矢を放ち、ネット状に展開された茨が泥の発生源を覆い潰していく。


 奥にいたのは、翔矢が見知らぬ男一人。丸腰だが、今しがた抑え込まれた泥は間違いなく幻光蟲の作用によるものだ。


「いや助かったよ幹久君。あと済まなかった。車にGPSをつけさせてもらったよ」

「はぁ? ……いやあんたまさか」

「田辺様、お知り合いですか」

「……会社の、関係者かもなぁ……」


 ぎり、と幹久が歯を食いしばる。


 どちらにせよ、こちらに向けられる意志に害意がある。


 あれは敵だ。そして反応からして、リルも知っている人間。


「要件があるなら、言ってもらえるっすかね。おっさん」


 再度篭鐘を叩きつけながら翔矢は問うた。相変わらず変化はない。


 先ほどから、繋がりが途切れてしまったかのように、幻光蟲の返事が、ない。


「おっさんとは失敬な。まぁいい少年、用事があるのはそっちの少女の方だからね」

「だからその用事を言えって言ってる。一応、俺が保護してるんでね」

「保護観察対象を連れ歩くのか? 不用心にもほどがある。おかげで助かったが」


 いやな予感がする。翔矢は反応のない篭鐘を握ったまま、立ち上がってリルを庇うように前に出た。


 馴染んでいたのですっかり聞くのを忘れていたが、リルは裏世界から現れた、死人のコピーだ。経年劣化による成長が見られないのも、他の人間に憑き直さなかったのも妙な話。


「っち……マズったなぁ、これはマズった、そういうことかぁ……!」

「何が目的だ!」


 舌打ちした幹久に構わず、翔矢は声を荒げた。


「要件は一つだ少年。君が保護したと言っていたその少女だが、元々は私が保護していてね。手間をかけた、捜していたから迎えに来たんだよ」


 嘘だ。リルと出会ってから、役所から行方不明者の捜索協力の知らせは出ていない。警察に出ていれば、間違いなく環奈が知っているが、連絡はなかった。


 仮に、元々はこの男が保護していた、ということを鵜呑みにしたとして。


 リルには、逃げる理由があったことになる。


 それが分からない限りは、判断ができない。


「こいつは俺の妹だぞ。保護もクソもあるかよ。色々あって俺が面倒見てんだ」

「大学生が、中学生をか? 親元に残した方が良かっただろうに」

「来たいって言ってたんで仕方なくな。冬休みの間だけだよ」


 嘘を搦めて騙せれば御の字だ。


「君はそれが何か知っているのか?」

「それも何も、俺の妹だっつっただろ」

「嘘だな」


 男はぴしゃりと言って、ため息を吐いた。


 一歩一歩、ゆっくりと歩み寄る男を前に、翔矢はもう一度篭鐘を小突く。


 反応はない。もう一度、二度三度と繰り返しても、内蔵された鏡は翔矢の姿を反射しなくなった。


「では単刀直入に言おう、少年。君が保護しているというのなら、その少女を僕に引き渡してほしい」


 やはり狙いはリルか。


「何のために」

「必要だから」

「決めるのは俺じゃない。こいつだ」


 言って、リルに振り向いて、己の影に隠された彼女が、不安げに見上げているのを見て。


 ──あぁそうだった。こいつは、自己を持たない幻光蟲だった。


 思い出したから、お前はどうしたい、なんて聞けなかった。


 どうするもこうするも。決められないに決まっている。


 『私は翔ちゃんの姉だ』と再三言っていたから、すっかり忘れていただけで。

 幻光蟲の端くれなのだから、自己判断などできないはず。


「今は、まだ戻れません」


 だから、毅然と言ったリルの態度に、度肝を抜かれた。

「私達は翔ちゃんの姉です。彼は今、精神的に不安定な状態にあります。このまま一人にするのは、姉として、看過できません」


 体は震えているのに、意志は固く。


 嫌なことを嫌と、はっきりと示している。


「……翔矢君、この子マジで幻光蟲なの?」


 まるで人間のような振る舞いに、驚いたのは幹久も同じだったようだ。


「……あーなるほど? マジかよクソ、黙っとくんだったなー……」


 先に話してくれよ隼人さん、と愚痴って、幹久は再び形成した矢を番える。


 幹久の言葉も曖昧だが、含みがあることは確かだ。


「おいおい、困るな。君が最後にやり残したことがあると言ったから、わざわざ一時的に自由にしてやったんだろう? そのやり残したことは果たせたようだが、ならば約束も守ってもらわなければ」

「……気が、変わりました。もう少し、もう少しだけ後にしてください」

「できないな。君だってその条件付きで交渉しただろう」


 何の話か分からない。ただ、会話の端々からそれ以前の状況は読み取れる。


 リルは元々あの男の管理下にあって、条件付きで外に出た。その条件が、翔矢に会って、何かをすることだった。


 ついでに言えば、幹久が勤めている会社に。


「許可しなければよかったな。君ほど人間に近しい幻光蟲なのだから、心変わりする可能性も考慮すべきだった」

「……おい」

「それとも情が湧いたかね? 死した同胞の忘れ形見に食われてか?」

「お前──ッ!」


 言葉の意味は分からなかったが、嘲笑であることは理解できた。


 壊れそうなほど篭鐘を叩き、震えさせても、相変わらず反応が返ってこない。


「そう怒るな少年。というか、まだ社会人にもなっていないのにこんな裏仕事をするのは止した方がいい。今後の経歴に傷がつくぞ? ま、事情を話してくれれば我が社ならば採ってやれるが」

「今就活の話してねぇだろうが!」

「最近、幹久君の営業成績がいいのでね。君の事は知っているよ。我々としても世話になっているから……今後とも、幹久君を通じて繋がりは保っておきたいんだ。乱暴な真似は止したいと思っていたんだが……その篭鐘、もう反応しないのかね? 残念だ」


 幹久は知らないが、向こうは知っているとなると、暗部の話になるかもしれないが。


「本当に残念だ……だが、憂いは断っておこうかな」


 バチン、と男が指を鳴らす。途端に、コンテナの影という影からずるりと人影が這い出てくる。


 人影、というには温い。人間なのに、体の一部分がヒトではなかった。


「なに、命があればそれでいい。四肢を落としてしまったら切断面は焼き潰したまえよ」


 直近で、似たような台詞を聞いた気がする。他人ごとになって初めておぞましく感じた。


「さて。ついでだ幹久君。これの殺処分も頼むよ。そろそろ置き場がなくなってきてね」

「お偉いさん気取るならどこの誰だか教えてもらえません⁉ 一方的に知られてるのは気分悪いんですけどね!」


 ちらりと幹久が視線を寄越してきた。


 早く行け、と言っている気がする。


「……まぁ、知らないのも無理はないか。私は長谷川智樹という。今後ともよろしく頼むよ、幹久君」

「マジかよ創業者の息子か……!」


 長谷川。確か瑠璃の同級生に、そんな名字の奴がいたような気がする。


 灘市周辺ではあまり聞かない名字だ。もしかしたら血縁者と考えていいかもしれない。


 瑠璃を殺した連中の一つなら、今すぐにでも殺意が湧いていただろうに。


 初めからなかったかのように、心は波打つことがなかった。


 いつもなら。お前が姉ちゃんを殺した女を作ったのかと、怒号を発して、直ぐにでも篭鐘を大鎌に切り替えて飛び掛かっていただろう。


 でも、その気力がない。


 感情が抜けている気がした。なんだかろくに頭が回らない。


「……つまり、いい所のボンボンってわけか」

「翔ちゃん?」


 裕福で、偉そうで、きっと、何の苦労もしたことがないのだろう。


 どれだけ叱咤しても騒がない心に嫌気が差して、翔矢はぼそりと呟いた。


「金も、地位もある。不幸なんて、体験したことないんだろうな」


 正直な感想だった。ろくに人生躓いていないように見えた。


「──俗人がほざくなッ! 知った口を──二度と吐くな、無礼者がァッ!」


 ただ、その言葉は地雷だったらしい。長谷川は目を剥いて怒声を発し、異形が翔矢に向けて駆けだしていく。


「翔ちゃん、翔ちゃん! 立って!」


 どうしてこんなに体が動かないんだろう。

 切羽詰まったリルに体を揺さぶられても、力が入らない。ただ視界だけははっきりとしていて、幹久がコンポジットボウで矢を放ち、異形を茨の壁で絡めとったのが見える。


「あーもう、収拾つかないよこれ! 翔矢君、君はいいからリルちゃんと逃げるんだ、ここは僕が抑えるし、隼人さんたちに連絡入れて来てもらう!」


 背中から腕が生えた異形が、血を流しながら茨を引き千切っている。


 肘や膝から巨大な棘がせり出している異形は、動くたびに関節が痛むのか絶叫を上げている。


「今だけは邪魔しないでもらえるかね幹久君! 少女を引き渡さないどころか私を侮辱するとは、殺しても許さん!」

「うっわ怒った……! あの人怒るとヤバいらしいんだよ、早く!」


 話が頭に入ってこない。何故か目の前の風景を、現実として認識できていない。


 何故だろう。


 体と意識が、乖離している気がする。


 篭鐘を使えない無力感も、戦えない歯がゆさもなかった。


「──ッ、田辺様! 池添様たちがいらっしゃるまで、この場をお願いします!」


 動かない翔矢を見かねて、リルが動いた。翔矢の肩に腕を回し、小さな体で担ぎ上げてこの場から離れようとする。


「この際だ、君も無事で居なよ⁉ どうせなら二人で逃げちゃいな!」


 ──逃げる? 一体何から。


「田辺様、ご武運を! 翔ちゃんは私が必ず守ります!」


 ──リル?


 ──どうして俺を守るんだ?


「──私は、翔ちゃんの、姉ですから!」


 ──姉ちゃんは。


 ──姉ちゃんを。


 ──俺は、信じていいのか?


 無骨なブーツが引きずられ、コンクリートの路面で削れて潰れていく。リルの体は小さく、男一人を抱えて移動するのは無謀だ。直ぐに追いつかれてしまう。


 逃げろと言われたって、無理があるのは分かり切っていた。


「翔ちゃん、せめて立ってください。田辺様の柵も長く持たない、必ず突破されます。少しでも距離をとって、来てくださる池添様たちと早く合流しなければ」


 リルの息は既に上がっていた。限界が来るのも直ぐだろう。理解はできる。できるが──如何せん、体が動こうとしなかった。


「……分かってんだろ」


 リルが足を止めた。けれど見つかると思って、空のコンテナの中に逃げ込んだ。


 少し休憩するため、リルがコンテナの扉を閉めた。ほぼ灯りのなくなったコンテナ内で、リルは翔矢の体を壁にそって座らせた。


 真っ暗だ。薄弱になりそうな意志が、更に引き延ばされて薄くなる。


「……今俺が食われてるって、分かってるだろ」

「……はい。それを改善させる手段を、私達は持ちません」


 四季によく似た症状に思えた。完全に、意識が乗っ取られる段階まで来ている。媒体は携帯し続けた篭鐘だろう。使い込んだから、縁が深くなっているのだ。


「なら、行けよ。まだ時間、欲しいんだろ」


 長谷川の元に戻ることを拒否したからには、まだやり残したことがあるのだろう。或いは単純に戻りたくなくなったか。どちらにせよ、リルにはまだ自由でいたい理由がある。


「いえ……いえ。私達だけでは、意味がないのです」

「だろうな」

「私達は、翔ちゃんの──」

「姉だから、か?」


 ──耳が腐るほど聞いたよ、それは。


 だから。


「もういいよ、姉ちゃん」


 意識がもうろうとし始めた。


 リルが誰なのか、もう判断がつかなかった。


「姉ちゃん、俺に引きずられ過ぎだよ。弟離れ、いい加減にしなよ」

「……翔ちゃん?」


 間違いなく、逃げ切ることはできない。篭鐘を使えない翔矢では異形に食い散らかされるのが目に見えているし、リルもまだ長谷川に捕まりたくはない。


 なら。


 翔矢は、リルに行って欲しかった。


 もっと瑠璃の代わりに、生きてほしいと、願ってしまった。


「翔ちゃん、それは、いけません」

「……なんだよ、何考えたのか、分かったのかよ」

「私はそれを知っています。それは、死にゆくヒトが持つモノです」

「俺が、死ぬとでも?」

「はい。このまま異形に襲われれば、間違いなく」

「それでいい。行ってくれ」

「できません。貴方を頼むと──」


 悲痛なリルの言葉を、翔矢は遮った。


「もう、姉ちゃんに、死んでほしくないんだ」

「どうして」

「二度も死ぬ必要、ないだろ」


 随分、ほだされてしまったなと翔矢は思う。


 こんなはずではなかったのに。


 最初は、姉のまがい物は許せないと殺そうとしたほどなのに。


 自分の命なんてどうでもよくなるほど、生きてほしいと思うなんて。


「…………分かりました」


 異形たちがコンテナの周囲を駆けまわっている。長い沈黙の後に答えたリルだったが、どう聞いたって嘘だった。


「私は行きます。それで、いいですか」

「……うん。元気で、ねえちゃん」


 翔矢を守るために異形とやり合うつもりなのだ。リルの声色は明らかに決意に満ちていて、隠すつもりなどさらさらないようだった。


 確かに。異形を始末して、幹久が足止めしているはずの長谷川からも逃げきれたら、大成功だろうが。リルは幻光蟲そのものであるため、戦う事などできないはずだ。無謀にもほどがある。


「……よかった」


 リルが背を向けた気配がした。コンテナの扉が開けられて、異形たちの叫び声が耳に届いても、翔矢は相変わらず無に近しいままだった。


 でも、思う。


 心残りが、やっとなくなった気がする。


「お別れの挨拶、やっとできた」


 瑠璃が首を吊って死んだ時は、別れの言葉という言葉も言えなかったから。


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